第7話 『Re:スタート』
「——————はぁっ! はっ…はっ…」
ジリリリ、ジリリリと、煩く鳴り響く目覚まし時計の音で、琴美はベッドから勢い良く身体を起こす。
目覚まし時計が鳴ったということは、現在時刻は6時30分を指しているということになる。普段の琴美であれば、アラームが聞こえる前に起きるのだが、今日は違った。
「はぁ…はぁ…。────ふぅ」
大して暑くもない時期なのに、汗でぐっしょりと濡れている額を無遠慮に拭う。
そして荒れている息を整え、琴美は寝起きで上手く回らない頭を少しずつ動かす。
「ここは…私の部屋? ———なんで」
首を回して辺りを見渡すと、必要最低限の家具だけが備えられているなんの飾り気もない部屋が琴美を迎える。そこは確かに、琴美が二週間過ごしていた自分の部屋だった。だが、自分の足でここまで来た記憶が一切ない。
「えと、確か…私は。———っ!?」
自分がここにいる経緯を、琴美は昨日の記憶を順になぞって確かめようとする。しかし、彼女の脳裏を最初に過ぎったのは、源が死んだ瞬間の悲惨な現場だった。
「そう…だ。し、死んだんだ…先輩が。私の…目の前で」
そう、源は死んだのだ。誰かに突き落とされて、動けなくなった自分を助ける為に線路に降りた源は、琴美を庇って轢死した。他にも、大切な思い出を沢山作ったはずなのに、血がそれらを塗り潰してしまって上手く思い出せない。
「あ、あぁ…うぅっ。せん…ひぐっ…ぱいぃ…」
膝を抱えて、亡き者の名を嗚咽交じりに呼ぶ少女の姿がカーテンの隙間から漏れた光の下に晒された。
どれくらいそうしていたかは分からない。だが、どれだけ泣いても、琴美の心の傷が癒えることはない。
「なんっ…で、どうして…? どうして、先輩が死ななきゃいけなかったの…?」
漸く、鈴音以外で初めて心を許せる人に出逢えたというのに、その人は琴美の目の前であっけなく死んだ。琴美が身近な人を失ったのはこれが二回目だが、あの事件についての記憶がない彼女にとって、人が死ぬ瞬間を目の当たりにしたのは今回が初めてだ。また同じように記憶を失ってしまえば楽になれた、などと考えても、世界は琴美に二度の逃亡を赦さない。
それならばもう、いっそのこと———。
「…私が、死ねば良かった」
その呟きは、考えるよりも先に琴美の口を衝いていた。それは琴美を命懸けで守った源を侮辱するものだと分かっていても、どうしてもその想いに歯止めを効かせることができなかった。
源が助けてくれたこの命を無駄にしてはいけない。———そんなのは、吐き気を催す程邪悪な綺麗事だ。現実には、誰の何の役にも立たない無駄な命というものが無数に存在している。
———そして、その不必要な命の内の一つに自分が居ることくらい、琴美自身が一番よく分かっている。
「私なんて、私なんて…生きてても意味なんか無いのに…っ」
何度も、何度も、自分で放った言葉が琴美の頭の中で繰り返される。そしてその度に後悔は募り、琴美は溢れる泪を止める術を失ってしまう。
いつかは、自分も姉の役に立てる人間になれると、信じていた。しかし、琴美はすぐにそれが届かぬ夢であることを知った。
琴美にできないことは、鈴音ができる。琴美ができることは勿論鈴音も容易くこなせる。
琴美にしか成し得ないこと。———そんな物は西から上る太陽のように存在しないのだと、非情な現実が琴美に痛感させる。
「あぐ…うぅ…っ」
残酷な現実への嘆きと世界の隅に自分を追いやる気持ちとが混ざり合って、琴美の感情はぐちゃぐちゃになる。
炎上事件の時も、そして今回も、訳も分からないまま助かってしまった琴美。しかし、そうまでして生き延びたこの命に何の価値があるのかと、琴美は自らに問いかけるが、答えは見つからない。
———いや、答えなど最初から存在してないかも知れないが。
「…琴美? 起きてますの? 入りますわよ」
コンコンと、硬い木製のドアが叩かれる音が琴美をハッとさせた。
「ぁ、お姉様…?」
ドアの向こうから、風鈴のように透き通った声が琴美の名前を呼んでいるのが聞こえる。
その声の持ち主に心当たりのある琴美は、流れる泪を拭うこともせず、ただドアが開かれるのを呆然と待った。
「なんだ。ちゃんと起きてるじゃない…って、琴美…? 泣いてるんですの?」
「あ、はは…ちょっと、止められなくて」
「———怖い夢でも見たんですのね。大丈夫ですわよ、私が居ますわ」
深く事情を聞くよりも先に、鈴音が琴美を優しく抱いて包み込む。鈴音がこうして琴美を抱いて落ち着かせようとするのは、二週間前の事件後に初めて目覚めた時以来だ。あの時は自分を包み込む暖かな感触に困惑していたが、今では何の抵抗もなく受け入れられるようになっていた。
鈴音が優しく背中をさすってくれたお陰で、琴美の荒んでいた心もいくらか平静を取り戻す。
「落ち着きましたの?」
「はい…少しは」
「そう、それなら良かったですわ。いつもなら朝ご飯食べてる時間になっても降りてくる気配がありませんでしたから、心配しましたのよ?」
「すいません…流石に、ご飯を作る気には、なれなくて…」
あれだけショッキングな出来事があった直後の朝だ。何も気にせず、いつも通りに過ごせというのは無理な話だろう。寧ろ、琴美からすれば、普通に起きて何事もなかったかのように振る舞えている鈴音の方が異常に思える。
取り乱すことが滅多にない鈴音とは言え、友人を一人失ったにも関わらず、ここまで平然とされると流石に人の心の有無を疑わざるを得ない。
と、鈴音の違和感に対する懐疑心が琴美の中で芽生えたと同時に、別の可能性が彼女の脳裏を過ぎった。
(———もしかしてお姉様、私が必要以上に気に病まないように気を遣って…?)
例えば鈴音が虚勢で平静を装っているのだとしたら。ただでさえ精神に大きすぎる負担を抱えた琴美の前で鈴音が暗く塞ぎ込んでしまえば、琴美の心は頼りを失くし、足場を失って自由落下する。そんな琴美の軟弱さは、炎上事件の直後から現在に至るまで一番近くにいた鈴音であれば、考えるまでもなく理解していることだろう。
勿論、理解しているからと言って、それを実行に移せるのは全く別の話だ。どれだけ妹想いでも、潰れそうな自分に嘘を吐いて、妹に手を差し伸べるなんてことは常人では成し得ない。しかし、それが鈴音であれば話が変わる。
鈴音ならきっと、そういうことすらできてしまうと、彼女の人間性が琴美に納得を強いる。
「ごめんなさい…お姉様」
「———? 唐突になんで謝ったんですの?」
「え、あ、いえ。気にしないでください。えと…私今日は朝ご飯は要りません。もう少しここで休んでおきます。…だから、お姉様も無理せず、今日はゆっくり────」
「何言ってますの。そんな悠長にしてる暇なんてありませんわよ。どんな夢を見たのか分かりませんけど、ここはもう現実ですから、早く目を覚まして、支度をして下さいまし。遅刻しますわよ」
「———え?」
何気なく鈴音の放った台詞に、琴美が戸惑いの反応を見せる。
「遅刻って…どこにですか?」
「何言ってますの? …今日の琴美の寝起きは一段と変ですわね。どこって、そんなの、学校に決まってるじゃないですの」
「が、学校…? 今日って、日曜なんじゃ…」
源と鈴音と一緒にデートをしたのが昨日の土曜のことだ。ならば翌日の今日は日曜で、学校なんて場所に行く必要も予定もないはずだが。
それに、最初こそ鈴音が普段通りに振舞っているのは琴美を気遣ってのことだと思っていたが、明らかにそんな様子では無い。これでは異常なまでに普通過ぎやしないか。
何か、何か大きな認識の齟齬が自分と鈴音の間で生まれているような気がする。その正体をはっきりとは掴めないが、答えはすぐそこにあるような予感がした。
これは、もしかして────。
「ちょっと、寝惚けるのも大概にして下さいまし? 今日は金曜日ですわよ。全く、ほんとにどうしましたの?」
「金曜…って、まさか———」
さも当たり前だと言わんばかり雰囲気を纏った鈴音の発言をきっかけに、琴美はこの違和感の正体に思い当たる。
そして、その考えの正否を確かめるべく、琴美は手早く携帯の画面を開いた。
「うそ…でしょ。…信じられない。────戻ってる」
そこに表示されていたのは11月16日の金曜日という日付。────それは、源が死ぬ、1日前の日付であった。
*
———現実味がないとは、よく言ったものだと琴美は思う。
本来であれば、金曜日の朝ご飯は琴美の担当だが、今目の前に並んでいるのは、鈴音が弁当と一緒に用意した質素なサンドイッチだ。
それを、どうしても食欲が湧かない琴美は小さい口を小さく開けて食べている。しかし、口の中に運ばれてくるサンドイッチは正に現実の味がしなかった。
食感や味に問題あったわけではない。ただ、時間が巻き戻っているという現実離れした考えが、琴美の感覚を狂わせているのだ。
(こんなの…有り得ない。時間が戻るなんて、そんなの絶対おかしいもん)
いつまで経っても現状が把握できず、琴美は動揺故に右へ左へと目を泳がせる。
しかし、現実的じゃない現象を否定する気持ちの隣で、何気ない朝の風景に対する既視感が確かに存在している。そして、その本源が11月16日の朝であることも琴美は理解していた。
一度経験したはずの日常が、今目の前で再演されている。そんな、正常の中で胎動を始めた異常に、琴美に強い不安感を抱いた。
「どうしましたの、琴美。先程から全然食が進んでいないようですけれど…。やっぱり体調でも優れないんですの?」
と、そんなどこか上の空である琴美の様子を訝しみ、対面に姿勢よく座っている鈴音が心配そうに覗き込んだ。
声を掛けられた琴美はふと我に返り、咄嗟に乱れていた視線を鈴音の方に向ける。
「あ、えと、はい…。そうですね、今日はちょっと食欲が湧かなくて…。ごめんなさい、お姉様」
「別に謝る必要はないのですけれど…。うーん、でしたら今日のところは学校はお休みします? 無理して行く必要もありませんし」
「あ…いえ、学校は行きます。軽い眩暈がしているだけなので…。ところでお姉様、一つ訊きたいことがあるんですけど」
鈴音に気苦労を掛けないように、向けられた心配をそれとなくいなしつつ、琴美は重要な質問の前置きをする。鈴音も琴美のその問いかけが話の枕ではないような雰囲気を感じ取ったのか、飲みかけの紅茶が入ったティーカップを丁寧にテーブルに置いた。
「なんですの?」
「———その、何と言いますか。とても変な質問なんですけど。お姉様は…今私達が見てるこの光景に、既視感って覚えますか?」
「思ってたより変な質問が飛んできましたわ…。何かオカルトの記事でも見ましたの? 琴美ってそんな陰謀論的な物に影響受けやすいタイプでしたっけ?」
「それで構いません。で、どうなんですか?」
否定する時間すら惜しむように、琴美は鈴音に回答するよう催促する。あまりに突飛な問いに対して即答できるだけの答えを持っていなかった鈴音は、「うーん」と短く唸ってから、続けた。
「別段いつもと変わらない朝なので、見覚えがないと言えば嘘になりますけれど。…でも、その質問の意図する所が『今日をどこかで見たことがあるか』という旨であれば、答えは間違いなくノーですわ」
「———間違いなく?」
「えぇ、間違いなく」
「そう…ですか」
予想通りの返答に、琴美は分かり易く嘆息する。先程までの鈴音の言動から、共感を得ることはあまり期待していなかったが、いざ言葉にされるとやはり不安が募る。
(お姉様は一緒に戻ってきていない…。なら…やっぱり、あれはただの夢…?)
それは、琴美が思い至った、一番現実味のある可能性だった。源の死亡は現実には起きておらず、あの二日間は琴美の脳が見せた夢幻であると。
ただ、夢と仮定するならば、あれはあまりにもリアル過ぎる。夢とは元々荒唐無稽、支離滅裂なものばかりであり、一連の流れに一貫性があることは殆どない。それに加えて夢の内容を鮮明に憶えている点にも疑念が残る。
(もしそうなら、これって予知夢ってことになるのかな…。うーん)
夢は夢でも、未来で起きる出来事を無意識に夢の中で見てしまう現象、それが予知夢だ。非科学的な話だが、そう考えればこれまでの不可解な点も解決される。それに、予知夢に関しては実際に経験したという人も少なからず存在している為、時間遡行と比べても現実的な可能性と言えるだろう。
「———大丈夫ですの?」
そこまで考えていると、鈴音がまた琴美を心配して言葉を掛ける。琴美の言動の数々は、鈴音からしてみれば全て意味不明なものだ。妹が急におかしくなってしまったのかと思うのも無理はないだろう。
琴美もそれは分かっている。
しかし———、
「———えぇ、もう大丈夫です。…ただの、勘違いだったみたいなので」
琴美は、鈴音へ事の言及を避けた。その理由はきっと———。
———彼女の事は、あまり信用しない方が良いかもしれない。
源が死ぬ前のやり取りで、彼が琴美に対して行った警告を思い出す。
———本当にお姉様の仕業なのだろうか?
そんな猜疑心が琴美の心を蝕むが、彼女は頭を軽く横に振って、刹那の間だけ過ぎった考えを否定する。
(———違う。私がお姉様に説明したくないのは、巻き込むのが嫌だから。…そうだ、そうに決まってる。それに、こんな話したって信じてくれるはずないし…)
「そうですの? なら良いのですけれど…って、もうこんな時間!? 琴美、急いで着替えてきて下さいまし! 遅刻なんてしたらクラスの皆になんて思われるか…」
琴美の葛藤に気付く素振りもなく、鈴音は壁掛けの時計が示した時間を見て焦る。バタバタと、つい先程まで見せていた優雅さの影を失いながら、鈴音は準備のために自分の部屋へと消えていった。
そして、その背中を目だけで追いながら、琴美は呟く。
「———。…本当に全部勘違いなら、良いんだけど」
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