第6話 『悪夢の訪れ』



 閉園時間ギリギリまで遊園地デートを堪能し、ゲートを後にした三人は、満ち足りた幸せと、遅れて戻った現実感と共に帰路についた。そして今は、遊園地の最寄りの駅にて電車を待っている。

 琴美達以外にも、駅のホームで電車を待つ人の数は少なくない。来た時同様、子連れやカップル、そしてスーツを身にまとって、やはり草臥くたびれた顔をしている社会人がちらほら見当たる。

 お勤めご苦労様ですと労いながらも、彼らが働いてる時間と同じくらい遊んでいたことに対してバツの悪さを感じない辺り、琴美も少し図太くなったと言えるかもしれない。


「それにしても、駅というのはいつでも人が多いですわね…。ふぅ。私、軽い眩暈を起こしそうですわ」

「…そっか、鈴音は家柄もあってあんまり人混み慣れてないもんね。まぁ、こんな庶民的な生活してたら、いずれ何も感じなくなるよ」


 鈴音は、日本でも有数の名家である天柊家の令嬢だ。あの事件が起きる前まで鈴音は、次期天柊家の代表を継ぐ者として、数々の資産家や権力者から大きな期待を寄せられていた。その為、彼女は割れ物のように丁重に扱われ、18年という人生の中で一般感覚を知らずに育った。

 その結果、天柊邸が焼失し実質的に天柊家が解体された今、琴美と二人暮らしの中で鈴音は『普通』を求めるようになったのだ。

 それを鈴音の口から直接聞いた琴美は、彼女が両親から縛りを課せられ、窮屈で退廃的な生活を強いられてきたのかを想像するのに苦労はしなかった。


「その感覚に至るにはもう少し時間が掛かりそうですわ…。電車が来るまでまだ時間ありますわよね? 私少し、お手洗いに行ってきますわ」

「おぉ、大便か? いってら」

「デリカシー! …あと大きい方でもありませんわ」


 言わなければ良いのに、わざわざ下品な方に言い直す源に、良く通る小声で鈴音が忠言する。それを「はいはい」と慣れた手つきで横に受け流し、源は鈴音を見送った。

 そして、鈴音の背中が人の群れの中に消えて見えなくなったのを念入りに確認するような素振りを見せると、源が異様な雰囲気を纏ったのを琴美は感じた。


「…少し、いいかな。琴美ちゃん」

「どうしました? 先輩」


 いつもの軽い口調ではなく、言葉に確かな質量を持たせた源の口ぶりに、琴美が首を傾げる。


「手を出して欲しい」

「…手、ですか?」


 突然の源の申し出を訝しむ琴美だが、拒否する理由もないため恐る恐る右手を前に突き出す。すると源は突然、差し出された琴美の手を覆うように、上と下から両手を重ねた。


「わ…、え」

「あ、急にごめんね。…こうすると君は落ち着くって鈴音から聞いたから。もし嫌だったら言って」

「いえ…嫌、とかでは無いんですけど、その…。落ち着きは、しないです…」

「…あれ? 俺がやると意味無かったかな…。まぁいいや、そのまま聞いて」


 ────顔が熱い。

 源に両手を握られてから、琴美は自分の体温が熱された薬缶やかんのように上昇しているのを感じていた。顔もきっと、尋常じゃないくらい赤くなっている。

 恥ずかしく感じるのは、他人の目があるからだろうか? それとも────。

 動悸が早くなり、源から目を離せなくなるこの感覚に琴美は覚えがある。


(これは…そうだ、丁度昨日。先輩を初めて見た時に反応と同じ…いや、違う)


 昨日の放課後の初邂逅。その時琴美が源に感じたのは確かな恐怖だった。でも今は、何かが違うと琴美の理性ではなく、直感が告げていた。


(何なの? 私が時折、楓堂先輩に感じるこの多幸感は。…一体、私にとって先輩は何だったの?)


 今日のデートを通して加速度的に増大していく行方知らずの感情に未だ答えを出せず、琴美は握られた手を見つめて戸惑う。

 そんな琴美を見て何を思ったかは分からないが、周章している彼女の様子に触れることなく、源は話を続ける。


「俺はいつだって、君の味方だ。もし何か、君の前に一人じゃ乗り越えられない障壁が立ち塞がったら、いつでも俺を頼って欲しい。そしたら、そしたらきっと、俺は───」



 ———何があっても君を守り抜く。



「何があっても君を守り抜いてみせる。今度こそ、必ず」



「─────あ」



 瞬間、琴美の世界が狭まる。先程まで五月蝿いくらい聞こえてきた喧騒が、嫌でも目に入っていた雑踏が、その時だけは確かに存在しなかった。まるで、最初から二人だけの世界であったかのように。

 ────そして、視界に残った唯一の人物が放った台詞と、自身でも知らない記憶の断片が重なった。

 琴美の脳が意志とは関係なく見せた鮮烈なその光景が、彼女に気付かせる。


(────あぁ、そうか。貴方は…いいえ、私は)


 忘却の彼方へ消えてしまった自分と今の琴美が抱えていた感情きもちの正体に。


(先輩の事が、好きなんだ)


 そうして漸く、琴美は自らの好意を自覚した。全くの予感が無かった訳ではないが、この感情の昂りこれ好意そうなのか、確信が持てなかったのだ。しかし、それがたった今、琴美の中で色を帯び、形を結んだ。

 琴美にはもう、自分の心に疑念を持つ必要はなくなった。


「────ふふっ、さっきはあんなに情けなかったのに…ちゃんと格好いいんですね。…言われなくても、私は頼りにするつもりでしたけど…でも、有難う御座います」

「…うん」

「いつまでもお姉様の手を煩わせる訳にはいきませんが…非力な私一人では成せないことが多すぎるので。ちゃんと私のこと助けて下さいね」

「———」

「…? 楓堂先輩?」


 胸のつかえが取れ、晴れやかな面持ちで喋る琴美とは対称的に、源はどうやら心ここに有らずといった様子だ。明らかに様子のおかしい源を心配するように、琴美が彼の顔を覗き込む。


「俺が話したかったのは、丁度その鈴音のことなんだけどさ…」

「お姉様が、どうかしたんですか?」

「…うん。これを言うのは気が進まないし、琴美ちゃんにとっては最悪な話になるからほんとは言いたくないんだけど。…でも、君には知る義務があると思うから伝えたい。…聞いてくれるかな?」

「なんですか、それ。言わなきゃいけない事ならはっきり伝えて下さい。大事なこと程明言しないの、先輩の悪い癖ですよ」


 話の内容が定かではない中で、聞いてくれるかと尋ねられても嫌とは言えない。どんな話であれ、もう少し情報を開示してくれなければ判断のしようもない為、琴美は先を促す。それに、琴美の身を案じている源が、彼女に不快な思いをさせてでも伝えなければならない事柄なら、無視することはできないだろう。それが姉に関連する話であれば、尚更。


「でも、お姉様が居なくなったこのタイミングで切り出したってことは、聞かれたら不味い話なんですか? それに、私にとって最悪って…」

「うん、彼女にバレるのは避けたい。だから手短に、結論から話す。いいかい、取り乱さず、このまま落ち着いて聞くんだ」

「え、えぇ。…分かりました」


 普段は冗談の多い源があまり醸すことのない厳かな雰囲気を感じ取り、琴美は静かに息を飲み、眼鏡の奥に据わっている瞳を見つめた。一体、彼は何を———?


「じゃあ話すね。君の姉…鈴音の事だけど…。———彼女の事は、あまり信用しない方が良いかも知れない」

「え———? どういう…ことですか?」

「…君が記憶を失くした原因になったあの忌まわしい事件があったでしょ」

「え、は、はい…。概要はお姉様からある程度聞き入れていますけど…。それが…? ま、まさか、お姉様が嘘の情報を私に教えているとでも…っ」

「———違う、そんな甘い話じゃ無い。鈴音が関わっているのは事件のもっとの部分だ」


 ———やめて。

 

「根本って…その言い方じゃ、まるで———」

「…琴美ちゃんが相変わらず賢くて助かるよ。そう、琴美ちゃんの察しの通り、あの事件を引き起こした張本人は」


 ———やめて、違う。私は何も察してなんかいない。知らない。


「鈴音の可能性がたか———」

「やめてください!!!」


 源が言い終わるよりも先に、琴美が今までにない程声を荒らげて、彼の言葉を阻む。ホームに響いた怒鳴り声に驚いた周りの人々が次々に琴美の方を振り返るが、当の本人は全く気にしていない。というより、それに気付ける余裕すら、今の琴美にはなかったという方が正しい。

 だって、そうだろう。いつでも優しくて、周囲からの人望も厚いあの鈴音が、あんな悲惨な事件の首謀者かもしれないと言われて、正気を保てる訳がない。

 有り得ない、そんなこと、あっていい筈がない。

 ない、ない、ないと、琴美の頭の中を否定に次ぐ否定が駆け巡る。


「…認めたくない気持ちは、痛いほど分かる。でも、聡い琴美ちゃんの事だ。…違和感がなかったわけじゃ、ないんだろ?」

「そんなこと───っ」


 ない、と咄嗟に断言する事は何故かできなかった。源の見透かすようなその台詞に言い返す言葉が出なかった。そして、そうなってしまった以上、琴美の中にあった鈴音に対する僅かな疑いの芽を摘み取れていない事は、彼女自身は愚か、源の目からも明らかであった。


「ほら、ね。琴美ちゃんだっておかしいと思ってたはずだよ。だって、今回の事件は鈴音にとって都合が良すぎる」


 そう、源の言う通りなのだ。

 あの事件が起きたのは、平日の正午過ぎ、丁度天柊邸で使用人として働く者達がほぼ全員集まっている時間帯だった。それに加えて、鈴音達の両親、更にその日は琴美も家に居た。 ────唯一、当時家に居なかったのは鈴音だけだ。

 だが、それだけで源が鈴音を犯人としてここまで強く疑うとは思えない。

 それに────。


「待ってください。だとしたらおかしいです」

「…何がだい?」

「事件が起きた時間、お姉様は学校に居たんですよね? それは学校側からもしっかり証言が取れている筈です。これは所謂アリバイと言う物ではないんですか? …遠隔であれだけの事件を起こすなんて、常人には不可能であるように思えますが」

「当然、その考えに至るよね。…やっぱり、あのシステムについて君は鈴音から教わってないか」


 もっともらしい琴美の反論だが、源はその疑問点を解決できるような口振りだ。そして、彼の口から出た『システム』という単語について、琴美は一切の心当たりがない。

 もうこれ以上、源が鈴音の犯行を正当化していくのは聞くに耐えなかった。だが無慈悲な事実に打ちのめされている琴美には、耳を塞ぐことも、源の言葉を阻止することも出来なかった。

 ただ呆然と自分の足で立つことが、今の彼女にできる精一杯だった。


「実はね、天柊家にはその代表の指示であれば、どんな手段を使ってでも、目的を完遂する裏組織が存在しているんだよ。勿論、公にはされていないけどね。…そして、その組織の詳細を知っていて且つ、手足のように扱うことができるのは歴代の代表と───元代表の鈴音だけだ」

「な───っ」

「信じ難い話だけど、真実だ。長い時間鈴音と一緒に居た俺は、その情報を、少しずつ本人から聞き出した。具体的に何をしたのかまでは知らないけど、天柊家直属となれば、催眠効果のある引火ガスを用意して家中の人間を一掃する事ができても不思議じゃないんじゃないかな」

「嘘…っ、嘘ですよ。そんな、そんな話何もかも嘘です。有り得ません…っ! じゃ、じゃあ動機は? お姉様がそこまでした理由は何だって言うんですか…?」


 もう、琴美の言葉には力も宿っていない。信じている源の、信じられない言葉が琴美の心に黒い重しとなって伸し掛る。

 苦し紛れの琴美の問いに、しかし源は息を一つを吐いて応じる。まるで、幼気な大人に呆れたような様子で。


「…言わなくったて、分かってるでしょ?」

「────っ」


 何もかもお見通しの源の物言いに、琴美の息が詰まる。

 源が言いたいのは恐らく、鈴音が受けていた待遇の話だ。高校生で天柊家の指導権を握れた鈴音は、過去最高の人材として両親からも、使用人達からも大切にされていた。だがそれは繊細で孤高の才能を壊さないようにしていただけのもの。愛されていたのは未来の鈴音であって、今の鈴音に愛情を注いでいたのは、誰一人としていなかった。

 それだけがこの犯行に至った動機足り得るかは分からない。しかし、悪魔の証明のように、それが動機になるはずないと否定することは本人以外の誰にもできないのだ。

 そして、鈴音からその過去を告白された琴美には、尚更その可能性を切り捨てることができない。


「でも…じゃ、じゃあ、もし、そうなら。本当にそうだったとしたら———」


『間も無く、2番線に列車が参ります。危ないですから、黄色い線の内側までお下がりください』


「…それ以上は、やめよう。そろそろ電車も来る時間みたいだし、鈴音も帰って来る」


 最後に、琴美が言わんとした台詞は源と、ホームに響き渡る無機質な声の案内アナウンスによって遮られる。


「だから、さっきの言葉を忘れないでくれ。俺は琴美ちゃんを絶対に守り抜くって約束に嘘がないと、神に、そして君に誓う」

「…はい」

「そしてもう一つ、今の話はあくまで仮定を含めた上で、可能性があるってだけだ。勿論そうじゃない事だって有り得るんだから、気は落とさないで欲しい。でも、心に留めておいて損はないから」

「…分かってます。でも、私は信じていますから。絶対に、犯人は———」



「———ぁ?」

「———ぇ?」



 お姉様ではない、と続くはずだった琴美の心からの願いは、しかし形にはならなかった。

 ———何故なら、琴美が言い切る直前に、彼女の身体がホームを飛び越え、宙に浮いたから。

 誰かに押されたと、源と琴美がそう判断した時には既に遅かった。宙を舞った琴美の身体は次第に重力に服従し、線路の真ん中に受け身を取れないまま着地する。

 ———そこで、琴美の思考は止まった。


「あ、ぁえ?」

「———ッ、まじか! 前に走れ! 琴美! 走れッ!!!」


 悲痛な源の叫びは琴美には聞こえない。聞こえても、琴美の足は地面に釘で刺されたように、ピクリとも動かすことができない。

 ———しかし、そうしている間にも列車は圧倒的な死を携えながら、無慈悲に接近している。例え運転手が線路にへたり込んでいる人間を発見しても、最早その直前で停止することは不可能だ。

 そして、周囲の安全な場所にいる人々は騒然としながらも危険を顧みず、琴美を助けようとする者は現れない。逃げる者、見て見ぬふりをする者、子の視線を遮る親、携帯を取り出して、撮影を始める者———。そのどれもが悪辣で、醜悪であった。


「———琴美! おい琴美!! しっかりしろ、一緒に上がるぞ! 足に力入れろ! 踏ん張れ!」


 否、源だけは、唯一琴美を助けようとしていた。琴美に続くようにホームに飛び降り、全身に力が入っていない琴美を担いで戻ろうとする。しかし、残された僅かな時間の中、身体の動かない人間を無理矢理移動させるのは困難を極める。

 更に、着々と確実に迫る死が源の気持ちを逸らせ、手元を狂わせる。このままでは、二人共々肉塊になることは避けれられない。


「んなの、堪るか———ッ! クソが!」








 ——————グシャリ








 気持ちの悪い音が響いた。

 何に例えるまでもなく、それは全ての抵抗を無意味に帰す程の圧倒的な質量が人間を圧し潰した音に他ならなかった。


「ぁ」


 漏れる息のような声を発したのは、再度宙を舞った琴美だった。

 そして、その落下先。手に触れる硬い床の感触を確かめて、琴美は自身が駅のホームに戻されたのだと判断した。


「はぇ———?」


 生きている。その実感はまるでなかったが、琴美は確かに生きていた。


「私…あれ、なんで。あれ…? ———あ」


 そして、琴美は気付く。———自分が身体ごと投げられたことに。

 更に、源の姿が見当たらないことにも。


 能が働くようになれば、身体の機能が徐々に回復する。硬直していた全身は思う通りに動く。

 ———正常化した五感は、情報を集め出す。


「きゃぁぁぁあああっっ!!」


 鮮紅色と暗褐色が混じった赤が飛び散っている。

 鉄のような匂いが鼻腔を劈く。

 大衆のどよめきが鼓膜を揺らす。

 濁った空気が舌に纏わりつく。

 ぬめり気のある不快な液体の感触が、身体を覆う。

 ———身体が受け取る全ての情報が、ある一つの事実を肯定していた。


 楓堂源は、約束通り琴美を守って、そして死んだのだと。


「─────ぁ」


 それに気付いた瞬間、琴美はその現実から逃げるように気を失った。



「———ち、ちが…、違う…。違うの…。私は、私は…っ!」


 

 最後に、錆びた鈴のような声をその耳で捉えながら———。

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