第4話 『知らない親友』


 ———どうして、という言葉が琴美の頭の中を埋め尽くしていた。その疑問は、琴美が今置かれている状況に対してのもので、その答えはいくら考えても見つからなかった。

 琴美が今いるのは、鈴音と暮らしている家から徒歩10分程度の場所にある、ターミナル駅だ。時間は朝の9時前と、普段なら通勤ラッシュでスーツを着た社会人達が忙しなく往来する時間帯だが、今日はそうではない。改札口前の駅柱ディスプレイにもたれ掛けている琴美の前を、子連れの家族やカップル、そしてたまに疲れた顔をしているサラリーマンが横切っていく。

 その中を理由も分からず立ち尽くしている自分が場違いに感じた琴美は、説得力を欲して隣にいる人物への質問を試みた。


「———あの、お姉様。私はどうして土曜の朝からここでの待ち合わせに連れて来られているのでしょうか」


 その琴美の視線の先、言葉を投げられたのは鈴音だ。

 普段通りの異常な程美しい横顔には、ほんのりと化粧が施されている。ただ、素材が良すぎる為か化粧前と後で大きな変化がないのは、凄さを通り越して最早恐ろしい。

 そんな畏敬の念を抱いていると、無表情でスマホを弄っていた鈴音が琴美の方を向き、視線が絡まった。


「え? どうして…って、一緒に出掛けるからに決まってるじゃないですの」

「それは分かってます。私が訊きたいのはそういうことじゃなくて、どうしてということです」


 二人のデート、その言葉は琴美が今初めて出した単語ではない。その単語が琴美の口から飛び出すきっかけになったのは昨日の放課後、ある人物との邂逅によるものだった———。




 

「はぁ…やっと帰れる…」

 

 深いため息を吐き、琴美は俯いた姿勢のまま階段を一段一段下る。時折、横を溌剌はつらつとした表情で通る生徒達と目が合わないように気をつけながら、琴美は靴箱がある昇降口まで辿り着いた。

 そこまで来ると、今度は正門まで談笑しながら向かう生徒や、運動場から部活に勤しむ者達の掛け声が聞こえてくる。校内で友達が居ない琴美は、自分が惨めにならぬようそれらの声にも耳を貸さず逃げるように玄関を出た。


「今日は少し遅かったな…お姉様を長く待たせてないといいんだけど」


 誰に聞かせるでもなく、そう小さく呟いてから琴美は歩き出しす。

 琴美と鈴音は登校時同様、なるべく一緒に徒歩で帰るようにしている。待ち合わせ場所は校内にある中庭ということにしているが、鈴音が先に待っていることがほとんどだ。加えて、今日は連絡事項とやらで琴美のクラスは帰りが遅くなってしまった為、いつもより鈴音を待たせてしまったかもしれない。

 そう考えると琴美の足は自然と早足になり、鈴音がいるはずの中庭に到着するのにそう時間はかからなかった。


「あ、やっぱり先に着いてた。お姉さ———」


 そこで、案の定先にベンチに座って待っていた鈴音を見つけ、駆け寄りながら名前を呼ぼうとした琴美は、見慣れた光景の中に入り込んだ異物に気を取られ、声が止まった。


「———お、琴美ちゃんやっと来たみたいだね」


 校内で琴美が唯一心を落ち着かせる事が出来るこの場に突如として現れた異分子とは、全く見知らぬ男だった。


「———ひ」


 鈴音の隣にいた初めて見る男に呆気に取られ、その場を動けない琴美の元に、鈴音と男が近付いてくる。

 ────この学校に来て、琴美は友達がいないことを痛感した。それは、記憶喪失になったことすら興味を持たれなかった程だ。そんな鈴音意外と話した回数が片手が必要かどうかも怪しい琴美にとって、男とは未知の生き物であり、恐怖を抱く対象の最たる例であった。

 それが今明確に琴美に向かって近付いていることが、鈴音が居る安心感を上回る恐怖となって彼女の足に纏わりつく。一体この男は誰なのか、何のために接触してきたのか。何をされるか分からない今、最低限の対処をする為に、琴美が警戒心を剝き出しにして身構えていると———。


「あらら、結構警戒されてるなぁ…。これ以上は距離を詰めない方が良さそうかな…?」

「よく分かってるじゃないですの。賢明ですわ。でも琴美も、そんなに身構えなくて大丈夫ですわよ。彼は琴美を傷つける者じゃありませんから」


 敵対心を向けられたことを感じ取ったのか、男は琴美と一定の距離を取って立ち止まった。そこから一拍遅れて隣に立った鈴音に宥められ、琴美は高めていた警戒心を少しだけ緩める。


「……お姉様、この方は」

「それは彼から自己紹介をしてくれるはずですわ。ほら、源」


 警戒心を緩めたとは言え、油断している訳では無い。現状を何一つ理解できていない琴美が第一に優先すべきは、この男の素性を知ることだ。

 そんな琴美の考えを読み取った鈴音が、距離を空けて立ち止まる男に向かって、自己紹介を促す。すると男は、天然パーマの頭をポリポリと搔くと、わざとらしく咳き込んだ。


「こういう時ってなんて言えばいいんだろ…難しいな。えーと、あー初めまして、そして久しぶり、琴美ちゃん。俺の名前は楓堂ふうどうげん。君の姉と同じクラスで、普通科に所属してる一般学生。そして」


 そこで一旦言葉を区切ると、源は大きく息を吸い、そして次に出した言葉と一緒に吐いた。


「———君の親友


「……シンユウ?」


 何の変哲もないただの自己紹介の中に登場した聞き慣れない単語に、琴美は思わず眉を顰める。そんな脳内での漢字変換に失敗し、オウム返しをする琴美を見て、源は苦笑いを見せた。

 その表情の端に僅かな寂寥感が含まれていたことは、琴美も、或いは源自身も気づいていなかっただろうが。


「親しい友と書いて親友だよ、琴美ちゃん。まぁ…その反応からしても俺の事は覚えてないと思うから、これからゆっくり思い出してくれると嬉しいかな。改めて宜しくね」

「……」


 琴美の恐怖心を煽らないようにしているのか、語りかける源の口調は暖かくて優しい。

 そんな源の言葉を受け、琴美は返答に窮していた。———それは恐怖が口を塞いでいた、という訳ではない。寧ろ、不思議なことに源と名乗る男の姿を見れば見る程、恐怖心は希釈され、瞬く間に消えていった。

 自分でも自分の中で何が起きているのか分からず、恐怖が消えた今、琴美を覆っていたのは困惑だった。


「……琴美ちゃん?」

「え、あ。ごめんなさい、ぼーっとしてました。えっと、なんとお呼びすれば…?」

「んー、俺としてはなんでも構わないけど、前の琴美ちゃんは楓堂先輩って呼んでたかな」

「で、でしたら楓堂先輩とお呼びします…。宜しくお願いします…」

「お、変わらずか。他の呼び方されても新鮮でいいかもな〜と思ったけど、やっぱそっちのがしっくりくるね。あと、そんなに畏まらなくて大丈夫だよ」


 困惑が抜け切らず、挨拶を交わそうにも琴美の台詞はどこかぎこちない。一応会話が成り立つように最大限努力はしているが、場の空気が変にならないのは、まだ鈴音以外との会話に不慣れな琴美に配慮した源が適度なリアクションしてくれるお陰なのだが、今の彼女はそれに気付く余裕もない。

 そして、胸の奥のつかえが消えることがないまま、琴美の中で更なる疑問が生じる。


(なんだろう…この人の言葉聞いてると、不思議な感覚になる。男の人と話してるはずなのに心がざわつかなくて、心地良い…。でも、とても緊張しているような。これは、一体…?)


 突然鈴音との待ち合わせの場所に現れた見知らぬ男。目的が不透明なその男に最初こそ警戒していたものの、すぐに解かれたどころか、安心さえしつつある。

  ────分からない。なんなのだろう、楓堂源この人は。私の、なんだったのだろう。

 そんな思いの紐が琴美の中で錯綜し、やがて絡まり、彼女の心に強い結び目として残る。

 分からないことだらけだった。源と会話をし始めてから、琴美はまるで知らない世界に来たかのような感覚に陥っていた。

 でも、一つだけ。たった一つだけ分かることがあるとすれば────。


(────私は、私の中で渦巻いている未知のこの気持ちを、温もりを、間違いなく。…これが、親友と言うものなの?)


 きっと、今の琴美は過去の彼女と同じ気持ちなのだろう。この胸の高鳴りの正体を、記憶は語ってはくれない。しかし、全てを忘れた訳ではなく、大切な思い出の欠片がほんの僅かに琴美の心に残っていることは確かだった。現状の琴美では、どれだけ考えても答えには辿り着けないが、それでも回復の兆しが見えたことに琴美は小さく安堵する。

 源と接触した今日を起点として、これからまた何か思い出すことがあるかもしれない。そうやって少しずつ記憶を取り戻して、結ばれた紐が解かれる時が来ればいいと、そう琴美は思った。


「———よし。源の自己紹介も済んだようですし、そろそろ本題の方に入りましょうか」

「……あっ」


 琴美と源の間に入り込み、鈴音が話を次に進めようとする。その言葉で、ハッとした琴美は、最初に抱いた疑問を思い出した。

 何も音沙汰なかった自らを親友と名乗る男が、ここに来て急に現れ、琴美と意図的に邂逅したのは何が目的なのだろうか。悪い想像は出来ないが、かと言って何を要求してくるのか、琴美には皆目見当がつかなかった。


「鈴音、やっぱ俺言えないかもしれん…」

「ここまで来て何言ってますの。今辞めたら琴美は貴方に『自称親友妄想癖男』のレッテルを貼りかねませんわよ。折角、私がお願いされた通り機会を設けたのですから、言ってしまいなさいな。砕けるのはそれからでいいじゃないですの」

「でもあのお願い、普通に考えたら失礼だし、烏滸おこがましいし…」

「あぁもう! 意味の分からないことはつらつらと言えるくせに、大事な時に意気地なしですわね! いいからさっさと言いなさい!」

「はい! すいません!」


 鈴音が見たことない剣幕で源を説き伏せる様子を見て、琴美は呆気に取られる。そして、まるで鈴音に尻を蹴られたかのように一歩前に出た源は、数回深呼吸をしたかと思うと、覚悟を決めた目で琴美を見た。

 話に一切ついていけない琴美は、吸い込まれるように琴美の姿が映る源の目を見つめ返す。


「琴美ちゃん」

「えっと…はい…?」

「———俺と、」

「……」


「———俺と鈴音のデートに一緒について来て欲しい」

「…………ほ?」




 そんな回想を経て、琴美は今現在乗り気じゃない突発イベントに参加しているという訳だが、何度考えても色々と解せない。


「お姉様と楓堂先輩が幼馴染だったというのは、あれから色々と話を聞いて分かりましたけど…。その、お二人のデートに私が居てしまっては邪魔になるのでは…。楓堂先輩は一体何を考えてるのですか…?」

「…源が何を考えているのかは、私も知りたいところですわね」

「ってことは、なんで私を誘ったのかはお姉様にも伝えていないのですか…?」


 不安げな琴美の問いに、鈴音は無言で首を縦に振る。鈴音も聞かされてないとなれば、今回のまるで意味の分からない誘いの真意は、誘った張本人しか知り得ない。


(後でタイミングがあれば先輩に訊いてみよう。…お姉様にも言ってないなら私にも言ってくれない気がするけど)


 デートの付き添いに誘われたあの時は理解が追い付かずに呆けている間に、何故琴美も行く必要があるのか聞きそびれてしまったが、今日なら時間には困らない。

 ———それに、ここに連れて来た理由に限らず、彼には聞きたいことが沢山ある。


「———お、二人とももう着いてたのか、早いね」

「わぁ!?」

「———!」


 心の中で噂をしていると丁度その本人が、駅柱ディスプレイの後ろから顔を出した。完全に無防備だった琴美は突然上から降ってきた声に驚きを隠せず、悲鳴を上げる。横目に居る鈴音も肩を跳ねさせていたが、源ではなく、驚いた琴美の悲鳴に驚かされた様子だった。


「あ、ごめん。別に驚かせるつもりはなかったんだけど。女の子の死角に入るのはちょっとまずかったかな」

「はぁ…。琴美は繊細だから注意してと言ったでしょう。と言うか、先に着いたと数分前に私は連絡しましたわよ。確認してないんですの?」

「あ、ほんとだ。連絡来てたわ。全然見てなかった」

「全くもう…。まぁでも、遅刻しなかっただけマシですわね」


 源と初めて言葉を交わした昨日、琴美は彼からつかみどころがないような印象を受けたが、どうやらその第一印象は間違っていなかったらしい。鈴音もきっと、本質が捉えきれず、誰かの思い通りには動かない源に今まで振り回されてきたのだろう。彼女の諦めたような嘆息からはそれが容易に察せられて、琴美は少々同情する。


「こんな大事な日に遅刻するほど抜けては無いよ。…さて、もう少しで電車も来ると思うし、そろそろ行こうか。───俺達の希望に溢れた未来へ」

「何また訳の分からないこと言ってますの。普通の遊園地でしょう」

「はい。普通の遊園地です、すいません」


 ———いや、同情する相手はもしかしたら源の方かもしれない。肩を強めに叩かれた源の姿からそう認識を改めつつ、琴美は改札に切符を通した。

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