第3話 『楓堂源』
「ふう…」
肩に掛けていた通学鞄を机の上に静かに置き、鈴音は全身から空気を抜くように息を吐く。
今の鈴音には、周りが求めるお嬢様としてのイメージを崩さない為にも、先程のように簡単に素を見せることは許されない。その新たな一面を良しとする生徒もいるかもしれないが、彼女にとってはそういう問題でもないのだ。
意識的に空気を体内に取り込み、酸素が血と共に全身に行き渡るのを待つ。気分を一新し、今度は油断しないと無言の決意をしてから、鈴音は静かに着席した。
それから程なくして、このクラスの担任である女性教師が教室に姿を見せる。
考え事に耽っていた鈴音も、その担任の登場と同時に時計を見遣り、現時刻を把握した。
先程までちらほら聞こえていた生徒の声もいつの間にか消えており、担任は静寂の中を歩いて教壇に立つ。
「———はい、時間になったのでホームルームを始めますね。はぁ。今日も一日宜しくお願いします。それでは、いつも通り出席から取ります。えーと空いてる席は……」
まるで時間が惜しいと言わんばかりに挨拶を手短に済ませた女性教師は、教室全体を見渡して欠席者を確認する素振りを見せる。
30人しかいないクラスで、点在する空席は大きく目立つ。担任は出席簿に手際良く印をつけ、欠席理由が明確な生徒の備考の欄にはその事情を書き加えていく。
全国大会出場や舞台出演であったりと、そのどれもが名門校の生徒たる欠席理由が並ぶ中、1人だけその枠が空白の生徒がいた。
「
ある生徒の名前を呼び、教師は溜息と共に出席簿を教卓に置く。それがホームルーム終了の合図の手前であることを察した生徒達が改めて姿勢を正した。
「それではこれで朝のホームルームを閉会します。皆さんはそれぞれ次の授業の準備を————」
「先生待ってーーー!」
その瞬間、子供のような喚き声と共に勢い良く教室の扉が開かれた。耳を
「やっぱ来たね」
「あいついつも遅れて来るよな」
「なんでなんだろ、アホなのかな」
クラスの中でも良く彼とつるむ男子生徒が小声で冷やかす。
それを教師が静かな目で制止すると、扉の前で息を切らしている少年———
「元気良く登校してきた所残念なお知らせですが、ホームルームはたった今終わりました。はぁ、完全な遅刻ですよ。楓堂君」
「そんなこと言って、前は見逃してくれたじゃないですか。今回もお願いしますよ〜、先生」
「さぁ? そんなことありましたっけ。よく覚えていませんが、この学校では遅刻は重罪です。報告しなければ、貴方は怒られて私は減給されるんです。でしたら貴方だけが犠牲になる方がマシでしょう」
まるで反省の色を示していないような源のあっけらかんとした態度に対し、教師はやや保身に偏った理詰めを展開する。それを見た生徒達の内心は、先生にはこれ以上何を言っても無駄だろうという諦念と、源の次の行動を楽しみに思う好奇な気持ちが入り混じっていた。
「それって教鞭を執る者の考えとしてどうなんですか…。あ! でも今回は…じゃない、今回もちゃんとした理由があるんですよ! 一旦それを聞いてから判断しても遅くはないんじゃないですか? ね?」
「……はぁ」
無言で数秒考え込んだ後、重いため息と共に肩を落とした教師が、小さく顎をしゃくらせた。
「聞いてやるからさっさと言え」ということだろう。
「いやぁ、やはりあなたこそ教育者として相応しい人材ですよ。俺感動しました」
「どうでもいいですから、早く理由を言ってください。不毛な時間ほど価値の無いものはありません」
「あぁ、すいません。実はですね…その…昨晩、過去に失踪してしまったお気に入りのあの子をとうとう見つけてしまったんですよ。俺はもうあの子とは一生出会えないものだと思ってたから、感動の再開で涙が止まらなくて…」
「はぁ…もう結構です」
声を震わせながら謎の感動の再会とやらを熱く語る源に、冷たい声が覆い被さる。そこで源も言葉を止め、教師が理解を示したことに期待して目を輝かせた。だが、その場で前向きな考えを抱いているのは源だけだ。それ以外の生徒は諦めの嘆息を零している。
「楓堂君」
「はい! なんでしょう!」
「遅刻です」
「は?」
「ですから遅刻です。今回で理由なしの5回目の遅刻と欠席。原則に則って今後実施されるテストは貴方のみ取得点数からマイナス10点したもので評価します」
無慈悲に言い渡された判決は、源にとっては予想外なものだった。あれだけ感情的に訴え掛けたのに、まさか情状酌量の余地もないとは夢にも思ってなかったようだ。
「ちょちょちょちょ! 理由なし!? なんで!? 理由ならさっき話したじゃないですか!」
「なんであれで通ると思ったのか甚だ疑問ですが。あんなのは遅刻の理由になりません。まだ嘘吐いていた方が可能性あったと思いますよ」
「くっそまじかよ…っ。やっぱオニ婆じゃねぇか…」
「マイナス15点にします。あとついでに言っておきますが私はまだ31です」
「あ"ぁっ! すいませんでした!!」
「…はぁ。ばか」
教室の端で鈴音が吐いた源への悪口は、彼自身の絶叫で誰の耳にも届くことはなかった。
*
「鈴音、おはようさん」
「あら、源。お早う御座います。今週は遅刻しないかと思いましたけど、最後に油断しましたわね」
「いやー、あれはオニ…。31歳先生が非情すぎるでしょ。俺の魂の叫びを蔑ろにされたんだけど? 敗北者にマイクは要らないってこと?」
「さっきのは普通に貴方が悪いと思うのですけれど…」
朝に似つかわしい軽快な挨拶を互いに交わし、源は鈴音の隣の席に腰を下ろす。
先程のプチ騒動は結局源が罰を食らうということで落ち着いた。進学や就職に関わる大事なテストの強制的な減点は、本学校で執行される罰の中でもかなり重たい方だ。
ついにそれを受けてしまった源が落ち込んでいるのではないかと鈴音は心配したが、どうやら杞憂だったらしい。本人に気にしてる様子は特になく、いつも通り飄々としている。
心の中で胸を撫で下ろした鈴音は、それを悟られないように話を続ける。
「まぁでも、貴方はいつも理系科目だけは満点ですし、特に問題ないのではないですか? それ以外が赤点ギリギリなのは一旦置いといて」
「一旦置いとくくらいなら言うなよ。文系頑張って15点上げないといけなくなったの、地味に焦ってんだからさ」
「元々10点だったのに、貴方が無駄に噛み付くからですわ。女性の年齢を弄るのはご法度なの、知らないってことはないでしょう? 自業自得ですわ」
先程のデリカシーのない源の発言に対して思うところがあるのか、鈴音の態度は少し冷たい。言い方はまだ穏やかだが、有無を言わせない雰囲気を纏った鈴音に気圧され、源は一瞬押し黙る。
「はい。すいませんでした」
「よろしい」
源にようやく反省の色が見えたところで、鈴音は役割を果たした怒りを鎮める。
どこか子供っぽい面がある源には、母親のような気持ちで諭すのが一番効果的だと、最近彼と話していて気が付いた。そうすればすんなりと聞き入れてくれる素直さも、やはり子供のように思える。
そんなことを考えていると、何かを思い出したのか、源が「あ」と間抜けな声を発して、鈴音の顔を見た。
「そういえば…鈴音、昨日の話聞いた?」
「質問が漠然とし過ぎですわよ。昨日のどの話ですの?」
「ある程度察しがついてる癖に…。透真だよ、透真。あまり名前言わせないでよ」
「あー、やっぱりその話ですわよね…」
「透真」という名前にどうやら心当たりがある鈴音は、苦虫を噛み潰したような表情を見せた。
その表情から、鈴音の「透真」に対しての印象の悪さが垣間見える。源がその名前を呼ぶことすら躊躇っている様子からも、相当悪評の立つ人物であることが伺える。
「確か…昨日は校内の備品を壊し回っていた所を取り押さえられたと聞きましたけれど…本当にあの優しい彼がそんなことするんですの? …わ、私は性格が変わった彼を見たことがないので、未だに信じられないのですけれど…」
「あー、そっか。鈴音は狂人のあいつとはまだ会ったことはないのか。あいつはいつ性格変わるか分からんからなぁ…。なるべく避けるようにした方がいい」
「そうですわね…気を付けますわ」
そう頷く鈴音の表情は、少々真意を測り兼ねるものであった。いつもの凛とした表情は崩さず、しかし夜空に浮かぶ月のような彼女の黒瞳は、まるで雲の後ろに隠されたみたいにその輝きを失っていた。
「…鈴音? 顔色が悪くなった気がするけど、大丈夫?」
「え? あ、えぇ…。何も問題ありませんわ。心配かけてごめんなさいね」
「そう? 鈴音がそう言うんだったら良いんだけど」
心配そうに顔色を伺ってくる源から、鈴音は視線を逸らす。透真の話となった途端重苦しい雰囲気を纏った鈴音が一体何を考えているのか、それを無理に聞き出そうとしたところで、明らかに誤魔化そうとしている彼女に尋ねても答えはきっと返ってこないだろう。
それが分かっている源は、気が掛かりを残しつつ後退するしかない。
そして、丁度二人の会話の終了を告げるようなチャイムが、教室に響く。
「———あ、もう一限始まるのか。それじゃ、俺は教室移動しようかな」
「そうしてくださいまし。私の一限目はここなのでそのまま待機ですわね」
「なら、またコース共通科目の時にだね。…あ、そうだ」
「?」
と、一度背を向けた源が振り向き、顔の前で両手を合わせると
「———後で一個、お願い聞いてくんね?」
微妙な愛嬌を含ませ、鈴音に頼み事があると言ってきたのだった。
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