第一章 

第1話 『天柊鈴音と天柊琴美』


 ———夢からの目覚める時の感覚は、水底から段々と浮かび上がっていく時のそれとよく似ている。

 だが、水深が浅くなるにつれて光の届かない場所で見ていた夢は遠くなり、遂には視認できなくなる。そして、大体の人は夢を見ていたことすら忘れて、水面から顔を出すのだ。

 少女もそれに漏れず、自分の中にあるはずの記憶を水底に置き去りにしたまま、今日も意識を取り戻した。

 

「朝…か」


 瞼を透き通る陽の光、耳を打つ早朝独特の静かな喧騒の2つの情報から、少女は大体の時刻を把握する。

 そしてその少女———天柊あまらぎ琴美ことみはゆっくりと目を開いて、上半身を起き上がらせた。

 カーテンの隙間から零れる光の下に、彼女の身体が晒される。そうして露わになったその布越しのその身形は、安易に触れれば壊れてしまいそうな程、繊細で儚いものであった。


「…ん、今日も…目覚ましより早く起きれた…」


 依然として重たい目を指で擦りながら、琴美は目覚まし時計に目を向ける。

 デジタル時計が示している時刻は6時28分。琴美がアラームが鳴るようにセットした時間が6時30分であるので、起きるにはほんの少しだけ早いと言える。

 しかし、アラームが鳴るより1、2分早めに起きるのが習慣となってしまった琴美にとってはこれが当たり前だ。寧ろ、部屋中に響くような爆音で起こされるほうが、彼女にとっては苦痛であり、屈辱ですらある。


「んーっ、はぁっ」


 固まった全身をほぐすように、目いっぱいに伸びをした琴美は、ベッドから脚を降ろして立ち上がる。地球の重力に影響されて余計に身体が重く感じるが、もう布団の中に戻る訳にもいかない。

 何せ琴美は高校生で、今日は平日なのだ。琴美には、朝の支度を終わらせて、学校へと向かう義務が課せられている。

 それにもう一つ、琴美には今起きなければならない理由があるのだが———。


「まずは、顔を洗わないと…」


 誰に聞かせるでもなく、琴美は次にやるべきことを自分に言い聞かせる。

 そして、名残惜しそうな瞳でベッドを一瞥した琴美は、自らの部屋を後にしたのだった。





「ふぅ…さっぱりした!」


 洗面所のぬるま湯で2回、3回と顔を洗い流した琴美は、タオルで軽く水気を拭き取る。寝起き直後の洗顔は、残った眠気を吹き飛ばす為の手段としてはかなり有効的だ。お陰で、先程まで半開きだった琴美の目も、今はぱっちりとしている。


「あ、また寝癖ついてる…。嫌だなぁ、この髪質」


 クリアになった瞳で鏡を見た琴美は、髪の一部が横に跳ねていることに気が付く。これを見られなくて良かったと、安堵の溜息を吐き出しながら、琴美は色素が抜けて白くなっている髪をそっと濡らした。

 髪が痛んでいるせいか、たまに寝癖がついてしまうのが琴美の小さな悩みのひとつだ。前日にしっかり乾かしても何故か発生するので、これはもうどうしようもないと彼女も泣く泣く白旗を振らざるを得なかった。

 

「ふふん、ふっふ~ん」


 悩みとはいえ、跳ねている部分を軽く濡らしてしまえば簡単に直るので、そこまで苦労はしてない。軽快な鼻歌交じりで全体の流れから逸脱している髪束をちょちょいと弄ってあげれば手直し完了だ。

 ———と、そこに。


「———あら、朝から随分と機嫌がいいですわね。琴美」


 ひょっこりと後ろから顔を覗かせた麗人が、鈴のような声で琴美の鼓膜を揺らした。


「お姉様!? あーえっと…いつからそこに?」

「さて、いつからでしょう? 少なくとも琴美が可愛い寝癖をせかせか直しているところからはばっちり見てましたわ」

「あぁ…。つまりは最初からなんですね。今回は揶揄からかわれる前に直せたと思ったのに…」

「うふふ、残念でしたわね。私はいついかなる時でも琴美を見守っていますのよ」


 ガクリと分かりやすく肩を落とす琴美の前で、口に手を当てて上品に微笑むのは、彼女の実姉———天柊あまらぎ鈴音すずねだ。

 その外見の特質すべき点は、なんと言っても常軌を逸している美しさだろう。水のように流れる長い黒髪と異常なまでに整った顔立ちが、互いに最大限魅力を引き出し、完璧とも言える美しさを生み出している。そしてその容姿を誇張しすぎないように育った程好い肉付きが、清楚な印象に拍車をかけていた。


「丁度今お弁当を作り終えたところでしたの。そこで階段を降りていく足音が聞こえましたから、ちょっと覗いてみたのですわ。そしたら―――」

「あぁ! 分かりましたから、二回も言わないで下さい。恥ずかしいです」

「そうですの? 私は可愛いと思うのですけれど…。二人暮らしを始めてもう2週間経つのですから、そろそろ慣れて下さいまし」

「なんと言われようと、見られて恥ずかしいものは恥ずかしいです。そこに慣れはありませんっ」

 

 容姿端麗の鈴音は、そのお淑やかな佇まいから、周りから物静かな印象を抱かれることが多い。しかしその実、結構なお喋り好きで、特に琴美に対しては軽くおちょくるような言い回しをすることがままある。

 鈴音のこの扱い方には琴美もまだ慣れていない部分が大きく、いつもよく翻弄されてしまうのだが、今日はなんとか自分の気持ちを言い切ることができた。


「全く…相変わらず硬いですわねぇ…。まぁいいですわ、そんなところも琴美の魅力ですし」

「あはは…。あっ、そうだ。お姉様さっき、お弁当作り終わったって言ってましたよね? でしたら、台所は私が使っても?」


 琴美がこのように訊くのは、彼女が今日の朝ご飯作り担当であるためだ。

 朝二度寝できないもう一つの理由というのがこれで、現天柊家独自のルールとして、姉妹二人は朝食と高校での昼食用の弁当作りを日替わりで交換して分担している。

 そして今日は鈴音が弁当、琴美が朝ご飯の担当だ。その為、琴美は今から台所での調理に取り掛からなければならない。


「えぇ、勿論構いませんわ。琴美が真心を込めて作った極上の料理、楽しみにしてますわね」

「極上って……。いつも言ってますけど、朝ご飯なんて冷蔵庫にあるもので適当に作るだけなんですから、過度な期待はしないで下さい。変なプレッシャーになります」

「はいはい、分かっていますわよ。もう言いませんわ」

「絶対分かっていないでしょう…」


 こうは言っているが、琴美がどれだけ釘を刺そうと軽はずみな発言を直さないのが鈴音だ。琴美も、それが彼女のコミュニケーションの取り方であることを理解しているから、強く咎めたりはしない。

 

「…ふふ。でも、お姉様の頼みです。腕によりをかけて作らせていただきますね」

「えぇ、頼みましたわ」


 それに琴美自身、単に朝食を振舞うという小さな事柄でも、尊敬している姉に期待されるのは純粋に嬉しい。あまり前面にそれを押し出すことはないが、琴美が満更でもなく思っていることは、易々と鈴音に見抜かれているだろう。

 それでも構わないと、リビングに向かう背中を見ながら琴美は考える。


「よしっ、行きますか」


 最後にもう一度、気合注入の洗顔をした琴美は、キッチンへと足を向けるのであった。





 テレビから流れる朝のニュースをBGMにして、二人の朝食は進む。

 視線を落とした二人の眼前、卓上に並んでいるのは、琴美が気合を入れて作ったらしい朝食だ。メニューは食パンにチーズやハム、レタスを挟んだごく一般的なサンドイッチ、それと市販の千切りサラダとフルーツポンチだ。

 普通の家庭なら当たり前と言えば当たり前の献立だが、腕によりをかけると意気込んでたにしては質素過ぎる並びにも感じる。

 しかし、


「うんっ、やっぱり琴美の手料理は美味しく感じますわ! このサンドイッチなんて、元の家にいたシェフ達に劣らない味ですし」


 と、ご覧の通り鈴音はかなりご満悦の様子だ。

 鈴音のべた褒めに嬉しさより気恥ずかしさが勝ったのか、苦笑いを浮かべながら、琴美は返答する。


「 私がしたことなんてサンドイッチの具材を切って普通のパンで挟んだだけですよ。私としては、お姉様にはやっぱり、もう少し手の込んだ料理を出したいんですけど…。ほんとにこれで良いんですか?」

「何を申し訳なく感じていますの。今のままで私は十分に満足していますわ。それに私が普通を好んでいるのは、琴美もそろそろ分かっているでしょう?」

「えぇ、まあ…」


 鈴音の普通を求める性格は、一緒に過ごしている琴美は勿論理解している。本人から直接聞いたわけではないが、その理由が恐らく彼女の生い立ちから起因してることも予想が立っている。

 

「分かっているなら何よりですわ。———それで、琴美」


 続いた鈴音の言葉にやけに重みが乗っているのを琴美は感じた。普段は軽い調子で琴美の名前を呼んでいる鈴音が滅多に醸すことのない雰囲気。だが、それ故今から放たれるであろう言葉に冗談が含まれないことが、正面の琴美にとっては容易に理解できる。

 そして、BGMの役割を果たしていたテレビの音量をほぼ聞こえないくらいまで下げた鈴音は、琴美をじっと見つめて、切り出した。


「———記憶の方は、何か思い出せそうですの?」


 音を遮るものが何も無くなった部屋で、鈴音の言葉は琴美の心に重く響いた。


「……それが、まだ。何も…」

「そうですか…。それは仕方ないですわね。もし何か思い出したら、本当に些細なことでもいいですから、ちゃんと私に伝えて下さいまし」

「……はい。えっと…ごめんなさい、お姉様」


 俯きざまに答える琴美の顔には、自責の念が色濃く浮かび上がっている。

 今のやり取りから分かるのは、琴美が現在、記憶喪失であるということだ。琴美が記憶を失ったのは、2週間前に天柊一家を襲ったある出来事が原因だ。


「琴美が謝ることは何一つありませんわよ。…それに、貴方にとっては特に辛い事件でしたもの。もしかしたら、思い出さない方が幸せかもしれませんわ」


 その出来事とは、当時世間に大きな衝撃を与えた『天柊邸炎上事件』のことである。

 話題となったその理由は、事件の被害者が日本でも有数の名家である天柊一家とその使用人達であったことに加えて、今回の火災騒動を事故と処理するには不可解な点が見られたからだ。

 事件の詳細を琴美なりに調べた結果、調理室のガス漏れが火種となっていたらしい。しかし、発火してから家全体に燃え広がるまで誰一人として逃げ出した痕跡が見つからず、その時家に居た者は全員巻き込まれていた。

 琴美の両親を含む大量の犠牲者が出た中で、微かな救いであったのは、事件の発生時刻が平日の昼で、鈴音が学校に行っていたこと。それと、駆け付けた消防隊によってなんとか琴美だけは救助が間に合ったことだろう。

 だが、事件による強いストレスからか、倒れていた琴美が目覚めた時にはそれまでの記憶が無くなる後遺症が残ってしまったというのが現在までの経緯である。

 

「…本当に何も思い出せないんです。自分の身に起きたことのはずなのに、何も分からないんです。調べてても、まるで他人事みたいな感覚で…。何か、事件の鍵となる記憶があったかもしれないのに…。 私が…何か覚えてさえいれば…」


 あまりに不審な点から警察は今この事件を殺人と事故の両方の線で捜査しているらしい。しかし、当事者で唯一の生存者である琴美から何も情報が聞き出せない現状で、真相の究明が困難なのは火を見るよりも明らかであった。

 だから、琴美は自分を責める。お世話をしてくれた使用人達、それと、好きだったはずの両親。その人達の仇を取れないのは、自分のせいなのだから。


「違いますわ。琴美は何も悪くありません」


 泣きそうになる琴美の正面から、鈴音が力強い言葉で否定する。


「それこそ、何度も言っているでしょう。私は琴美が生き残ってくれただけで救われてますの。お父様やお母様、そこに貴方まで居なくなってしまったら…。私は今頃寂しすぎて涙も枯れ果てていますわ」

「お姉様…」

「だから、ゆっくりでいいんですのよ。ほら、お医者様も、安静に過ごしていればいつか記憶が戻ると言ってくれていたでしょう。だから、その時が来るまではいつまでできるか分からない姉妹ライフをエンジョイすればいいんですわ」


 続いた鈴音の台詞は、所々冗談めかしたような部分が見受けられる。でもそれは、無理な励ましは琴美のプレッシャーになることを考えてのことだろう。

 その遠回しの優しさが添えられた鈴音の言葉だけで、琴美が抱いていた負の感情は払拭される。そしてそれは、こうして自分を助けてくれる姉の役に立ちたいという気持ちに変換されるのだ。

 ———そんな日が、いつか訪れるはずだから。

 

「ふふ。…相変わらず、言い回しが妙ですね。いい意味で、お嬢様っぽくないです」

「それ前も言ってましたわよね。ちょっと傷つきますわよ?」


 言いながら、鈴音がまたテレビの音量を操作する。

 それだけで、琴美の好きな朝の風景が蘇る。頬張ったサンドイッチがいつもより甘く感じたのは、きっと琴美の心が、この居場所にもたれ掛かっているからだろう。

 鈴音と過ごす当たり前の日常を噛み締めるみたいに、琴美は食事を続け、最後の一口を飲み込む。

 そこで、先に食べ終えていた鈴音がタイミングを見計らって口を開いた。

 

「———さて、それではそろそろ学校に参りましょうか」


 

 

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