凡事百善孝為先

「あれからどうだ、七は」


「呉じいさんのとこで調整してもらってますよ。何が起きるかわからんのでね」


 ファンの手中で琥珀色のグラスが揺れる。木材のような芳しい香りが立ち昇り、八の鼻腔をくすぐった。


「……前世紀モノですか」


「よく知ってるな?お前は麦しか飲まないと思ってたが」


電脳アタマに入ってるだけですよ。飲むわけない」


「はは、そうか。値段や産地を知っていようと、この味わいは判るまい」


「相当貴重なのは知ってますがね。どこからんで?」


黄は残りをぐいと一息に飲み干し、グラスを置きながらにやりと口角を吊り上げる。分厚いガラスの内側で、丸い氷がころんと音を立てた。


「お国の方さ」


「俺らみたいなヤクザ者でもお構いなしってか」


「そうともさ。世の中が荒れればヤクザは増える。特に外から来た連中はタチが悪いが、そんな時に便利なのが地元のヤクザってわけよ」


「まあ……外の連中よりは恨みを買うことも少ないでしょうが」


「うちなんてまだまだクリーンなもんさ。ホトケさんからインプラントをもらったり、あとは密売とスケベな店しかやってないんだぜ」


「最初のはなかなかバチ当たりだと思いますがね」


「それがどうした!お釈迦様だって飢えた虎に肉体を差し出したんだ、死んでからもヒト様の食い扶持に変わるならこんなにありがたいことはないだろう」


八はなにか言おうと口許を動かしたが、自身もまた死人で糊口をしのいでいることに変わりはなかった。それどころか、直接手を下しているぶん己のほうがはるかに罪深いのではないかとさえ思われる始末で、ただ呆れたように肩をすくめるだけだった。


 この十五年間、八は黄を兄貴分として仰いできた。兵役帰りで最新鋭の装具に身を固めていた彼に強請ユスりを働こうとしたのが運の尽きで、八は瞬く間に返り討ちにされてしまった。野心に燃える若者だった黄は彼と義兄弟の誓いを交わし、戦後の混乱に乗じて大挙して現れた野良犬のような不良どもを次々にまとめ上げていった。


 古き良き「任侠」の旗のもとに集うヤクザ者は多く、十数年の歴史しか持たない新興勢力としては驚異的な成長を遂げてきた。黄は齢四十を数えるばかりの若輩者であったが、清帝国を股にかけた青幇チンパンの血筋であることをその名が暗示しているのだと噂するものもあった。


「変わりましたね、俺らもも」


「変わっちゃいないさ。俺たちみたいなのがメシを食えてる間は、この国も戦後から抜け出せないんだ」


 窓の外の街並みはくすんだガラスに遮られておぼろげに見えるばかりで、さながらこの街の行く先を暗喩しているようだ。黄は曇った窓を指先でぬぐうと、少しだけ見通しの効くようになった夜景に目線を投げた。


「変わったといえば……七、あいつは前と違うように思わないか」


「玲希の親父の件ですか?」


「その前後というか、まあ最近のことだな」


七の変化には、八も薄々勘づいていた。以前のは正に冷酷な殺戮機械キリングマシーンだった。身内以外を信用したことはないし、情けをかけたためしもない。しかし、あの時は違った。突然現れた明偉の言を信用し、あげくに彼を助命するため危険な賭けに身を投じさえした。腹の中では、七の異変がなにかしら取り返しのつかない事態を引き起こすことへの懸念が渦を巻いている。靴の中に入り込んだ小石のように、取り払おうとするほどに揺れ動くばかりだった。


「いよいよヤキが回ってきましたかね」


「そう悪しざまに捉えることもない。情があるのはいいことだぜ」


 黄は立ち去ろうとする八の肩に腕を回しながら、そのポケットになにかを詰め込んだ。見ると、中には何枚かの丸めた紙幣が入っている。


「まあ、なんだ……やつはマトモな人間でいえばそろそろ思春期ってやつだからな。よくよく付き合ってやってくれ」


「これは?」


「じきに妹ちゃんの工房に戻ると思ってな。なにか買っていってやりな」


「悪いですね」


「いいってことよ。ちゃんと俺の名前出せよ」

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