何時一樽酒

血が滴っている。


この身体のものか?


違う。


この機体カラダに、もう赤い血は通っていない。


べったりとこびりついた赤黒いそれを指先で拭えば、白い合成樹脂の皮膚には傷ひとつなかった。


「また傷の心配でもしてんのか?」


カウンターの上にあぐらをかいた八がこちらにビール瓶を差し出している。その腕は光を吸い込む漆黒の硬質素材で構成されていて、節ごとに分割されているさまは昆虫を思わせる。


「いや」


「あ、飲まないんだったか?お前の受容体レセプタ安モンだもんな」


「飲むさ」


瓶をひったくって一気に喉に流し込むと、冷たい液体の感触が食道を伝った。せっかく酒を飲んでも、機体がアルコールを検知してたちどころに分解されてしまう。苦い風味と麦の香りだけをかろうじて感じ取りながら口元をぬぐった。


「よくわからん」


「だろうな」


八はまるで我が家かのようにカウンター裏から次の一本を取り出している。ここでつい先刻まで凄絶な殺戮を繰り広げていたというのに、ずいぶん肝が太い奴だ。


「これ、今じゃけっこう高いんだぜ」


「そうか」


「お前にはただの麦汁だろうがな。大陸の工場がほとんど消えたもんで昔とは比べ物にならんらしい」


「へえ」


八は会話を遮ることなく次々と瓶を空け、まるで瓶の中身を胃の中に移し替えているだけかのように飲み干していく。


「……お前、産まれてこのかた味わって飲み食いしたことある?」


「さあ」


「わからん尽くしだな。そのままの姿で工場から出荷されてきましたって言われても信じるぜ」


陶磁器のように滑らかで白い前腕を撫でる。確かにこの姿は人間離れしている。もっとも、そうした威圧効果を狙ったものでもあるが。


「こうなる前のことはあんまり覚えてない。PLA人民解放軍のタンカーだった」


「覚えてるじゃねえか」


戦車乗りタンカーじゃない。容器入りタンカーさ」


「物心ついた時には戦車とリンクする訓練をしてたからな」


「そりゃ、聞いたことはあるが……ホンモノだったとはな」


「無理もない。ほぼ全員訓練で死んだか戦死したかだ」


「よっぽどキツいらしい」


「今でも人体の原型を大きく逸脱したインプラントはご法度だろ。その理由がわかるか?」


「人間の脳は人体とかけ離れたモノをコントロールできないんだったか?」


「正解。手も足もない無限軌道キャタピラの鉄の箱に繋がれてみろ。一瞬で廃人だ」


 八は頭を掻きながら目線を斜め下に送る。気まずい状況に突入した彼に特有の癖だ。


「13だか14の時に前線送りになって、肉体の不要な部分は全部切り離された。わかるか?脳と心臓さえあれば事足りるんだ」


こめかみを指で叩く。


「あとはお決まりの流れだ。撃破されてガラクタ屋にバラされ、この脳ミソの缶詰をボスが買ったのさ」


血で汚れたシャツの前をはだける。そこには男性性も女性性もなく、神が途中で創造を放棄したような合成皮膚シンセスキンしかない。そう知っているはずなのに、八は目を背けた。彼の手から瓶をひったくり、内容物を一息に飲み干す。当たり前のことながら、アルコールはまたもこの身体に作用しなかった。喉元を通過し、消化器系に到達する前にすべて分解されてしまった。


「正直なところ、自分が男だったのか女だったのかも知らない。あるいは、性別って概念が理解できないのか」


「今どき珍しくもねえだろ。性別は自分で決めるもんだし、なくたっていいもんだ」


「それは自分で決定できるならな。だが判断できるだけの経験を重ねる前にこうなってしまえば……」


八は空き瓶を取り返してゴミ箱に投げ込んだ。手のひらで話を遮ると、手首の古びた時計を見やった。


「……すまん、お前にこんな話をしても」


「気にすんな。今日は奢ってやる」


「ついさっき受容体レセプタが安モンだの言ってたのは誰だったか……」


「うるせえな、こういう時は黙って奢られるのが礼儀なんだよ」

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