嘘と緑色

尾八原ジュージ

長い坂

 八歳のとき、突然ママがいなくなった。パパもおじいちゃんもおばあちゃんも、みんな口をそろえて「ママは死んじゃったんだよ」と言い、わたしはわんわん泣いた。ママの遺体は見てないしお墓もない。お葬式もしなかったなって後で変に思ったけど、このときはとにかく悲しくてそれどころじゃなかった。

 ママがいなくなってから、わたしは時々わけもなく一人ぼっちな気がして、すごくさびしくなるようになった。そういうときは家の二階、子供部屋のベランダに出て外を見ていた。そうするとさびしい気持ちがちょっとだけ軽くなった。

 その日もさびしくなってベランダから外を見ていると、家の前の長い坂を下ってくるひとが見えた。長い黒髪に緑色のエプロン、背格好。ママだ! って思って立ち上がった。大急ぎで家を出て坂を上っていったけど、もうママはいなかった。どこに行ったのかわからなかった。

 わんわん泣きながら家に帰ると、おばあちゃんが「どうしたの? 転んだの?」って聞いてくれた。だから正直に「ママがいたよ。坂を下ってきてたよ」って答えた。そのときおばあちゃんの顔色がさっと変わったのがすごくて、しばらく忘れられなかった。おばあちゃんは「きっと見間違えよ」って言ったけど、わたしは絶対違うと思った。

 その日の夜はなかなか眠れなかった。子供部屋のベッドの中でごろごろしていると、なんだか一階がさわがしい。わたしはそーっと下に下りてみた。

「やっぱり、いいかげんルリにちゃんと説明した方がいいわよ」

 おばあちゃんの声がした。パパが「お前のママは、よそに男を作って家から出ていっちゃったんだよなんて、どの面下げて言えるんだ」と返した。

「そんなふうに言わなくたって」

「そうだぞ、万が一誘拐なんかされたら」

 おじいちゃんが言い返した。パパは大きなため息をついた。

「今更母親が生きてるなんて言えるわけないだろ」

 わたしはみんながわいわい騒いでいるのを黙って聞いた。どういうこと? ママは死んだんじゃないの? 生きてるの? 全然わからなくてだんだん眠くなってきた。わたしは部屋に戻って、ぐっすり眠ってママの夢を見た。


 それからママは、ときどき長い坂を下りてくるようになった。いつも同じ髪型、同じエプロンで、つかまえようとするけど全然近づけない。ママを見た日にはパパたちにも話をしてみるけど、そうするとほぼ確実に真夜中、大人だけの会議が開かれる。本当のことを教えてやれとか、わたしをカウンセリングに連れてった方がいいんじゃないかとか、そんな話をしている。

 ある日学校から帰ってくると、門扉の前に知らないおばさんが立っているのに出くわした。明るい茶髪で顔色が悪くて、目の周りに痣がある。おばさんはわたしを見ると、「ルリちゃん!」と叫んで抱きついてきた。びっくりして悲鳴をあげると、家の中からおばあちゃんが出てきた。そしておばさんを見るなり、「今更どの面下げて戻ってきたんだっ!」って怒鳴って、おばさんをわたしから引っ剥がしてバシバシ叩いた。パパとおじいちゃんもいつの間にか出てきて、「売女」だの「ルリに近づくな」だのとおばさんを責める。おばさんは泣きながら「ルリの前でそんなこと言っていいの!? あたしはルリの母親なのに!」って叫んでいる。

 みんながわいわい騒いでいる間、わたしは坂を見ていた。緑のエプロンをつけた人が歩いてくる。ママだ! いつもより近くにいる気がする!

 わたしは大興奮で、坂に向かって走り出した。今日こそつかまえられるかもしれないと思った。でも近づくにつれて、緑色のエプロンはゆらゆらゆらぎ始めた。顔はよく見たらのっぺらぼうで、腕の長さもちぐはぐで、わたしは(あれ? これママじゃなくない?)ってようやく気づいた。

 伸びたり縮んだりしながら、緑色のぐにゃぐにゃしたものが近づいてくる。まずいまずいって思いながらも、足は自分のものじゃないみたいに全然止まらなくって、わたしは坂をどんどん上って行った。

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