第5話 相部屋のルイーズ
ヘルムフリートから受け取ったその日、結局セシーリアは我慢できずに本を開いた。時刻はすでに10時を回っていたけれど1度読み始めてしまったものはどうにも止められず……。あまりの分厚さと内容の濃さに、読み終わるよりも朝が来るほうが早かった。
夢中で読み続けたからか頭がぼーっとする。時計を見ると時刻は5時。朝食は8時までだからあと3時間寝られるな……なんて思って布団に入った。朝食は8時までだから、寝るのも8時まで。
ばさん、という物音で目が覚めた。寝ぼけながらも朝食を食べなければと思って体を起こしてみると、知らない人が部屋の中にいた。おかしい。鍵はかかっているはずだ。詰みあがっていたのは段ボール。
「……あれ、今日でしたっけ。」
ぽやぽやしたままおぼろげに尋ねると目の前の女の子はコクリとうなずく。明日だと思っていた、新しい相部屋の人の入居。まさか寝たままお出迎えしてしまうとは思っていなかった。申し訳ない。
掛け布団をとっぱらってベッドの上で正座をした。
「こんな格好ですみません。春から3年生の、セシーリア・チェルトと申します。これからよろしくお願いします。」
「ルイーズ・ダンバルです。同じく次から3年。よろしくおねがいします。」
彼女は曖昧に微笑んだ。仲良くなれるだろうか。
ぎゅるるとおなかが鳴ったので時計を見ると針は10を差していた。朝と昼のちょうど間で食堂には何も並んでいない時間。そういえば目の前にいるのはさっきはじめて挨拶しただけの人。最悪だ。バッとおなかをおさえてルイーズの様子をうかがってみると何とも言えなそうな、気まずそうな顔をしていた。
「ごめん……。」
「いえ、生理現象なので。」
短く言い捨てると荷解きに戻って行った。どうしよう、第一印象が変になってしまった。
ランチが始まるのは11:30から。あと1時間半くらいなので残りを読んでしまおうか。そうしようと思って本に手を伸ばした。ベッドに寝転がって本を読む。ルイーズはてきぱきと自分の荷物を片付けていた。
休暇の期間でも12時にだけは鐘が鳴る。さすがに鐘には気付くことができた。本をあと少しで読み終わるから読み切りたいけど1時までに読み切れるか…。いやしかし朝も食べていない…。
思案の末に間をとって本を食堂まで持っていくことにした。
どちらにしろ食堂でもひとりだし。気が付くとルイーズは部屋からいなくなっていた。
春の休暇中、彼女が部屋にいることはほとんどなかった。朝にかばんを持ってどこかに出かけて行って夜、寝るために帰ってくる。セシーリアも毎週のようにヘルムフリートから本を借りていたので夜は本を読み、ルイーズと特に話すようなこともなく日々が過ぎていった。
3年生も始まって、桜も散った。相変わらず軍閣は週2回で続いていて、セシーリアも勉強やマナー実習で少しだけ忙しくなった。あっという間に時間も過ぎて行って、春学期の試験まであと2週間というところになったのだった。
試験前で混み合う図書館の中、セシーリアは一人頭を抱えていた。選択教養科目のひとつ、数学が全然わからない。3年生から始まったその科目は授業のたびにセシーリアを悩ませていた。幾何なんて図形から何も見えてこないし、代数は公式の使いどころがまるでわからない。周りの友人はみんな数学のかわりに占学だとか神学だとかをとっていて、質問することもできない。そもそもセシーリアは神だとか占いだとかに全く興味がわかなくて、それなら数学のほうが何かに生きるかと思ったのだ。こうなったらヘルムフリートに聞いてしまおうか。そう思ってちらりと図書館の一角を見る。そこは彼を中心に勉強会のようなものが開かれていて、いるのは学年でも目立つような明るい人たちばかり。つくづく住む世界が違うのだと思う。セシーリアにはその中に突撃できるほどの勇気はないのだった。セシーリアとヘルムフリートはただのちょっとした軍閣仲間なのである。
一人で考えたところで埒が明かない。でもこのままだと間違いなく単位を落としてしまう…。あとで先生の所に行くなりなんなりしよう。そう決めて机の上のノートやら教材やらを交代させているとき、ふとルイーズの姿が目に入った。隅のほうでひとり教材にかじりついていて、なんだかもやりとした。
今頑張りすぎたら、本当に頑張らないといけないときに絶望するのになあ。
・・・・・
ヘルムフリートの周りでは試験前になると彼を担ぎ上げての勉強会が勝手に開かれるようになっていた。事実ヘルムフリートの成績はとてもいいわけで、それはちゃんと勉強しているからなのだが、学年が上がるにつれて難しくなっていく学問は特に頼られた。数学や化学が最たる例である。
テスト前でも軍閣は続いている。別に今日がその日なわけではないが、図書館で勉強会をやっているときにセシーリア・チェルトを見かけたので少し思い出していた。
彼女のことは見かけたことはあっても人となりというものは全く知らなかった。話すようになって数か月になったが、なんだか不思議な人だと思っている。王族特有の腹に一物抱えている感じが全くしない。表情がコロコロ変わって天真爛漫な人かと思えば、軍閣が始まると雰囲気ががらりと変わる。冷たくなるというより眉毛一つ動かすことなく淡々としている、というべきか。それなのに会話のキャッチボールが長くは続かないとはいえ声色はいつも通り明るめなのでなんだかよくわからない。集中をしているにしてもこんなに違和感を感じるようなことあるだろうか。ひょっとしたら王族ではないのかもしれない。いやしかし行動の端々ににじみ出ている育ちの良さはなんなのだろう。特に成績上位にいるわけでもないから平民ではないだろうし。
こんなことを探ったところで正解にたどり着くわけでもないのだが、あの不思議さというか違和感というか。ふとした時にセシーリア・チェルトを思えばそれがなんなのかを考えずにはいられないのだった。
男であれば。ふと浮かんできた思想に嫌気を感じ、押し込めて机の上の教科書に頭を切り替えた。
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