第3話 ネカフェ難民の暮らし

 俺はすでにうつ病で通院していたから、会社に休職願を出した。そして、妻には「しばらく家を空ける」と言い残して、ホームレスになることを決めた。もう、家に帰るつもりはなかった。最近のホームレスは、自治体が回してくれる日当のいいバイトや、ボランティアの炊き出しなどで最低限食べていけるというのをネットで見ていた。死なない程度には生活できる筈だ。


 俺はリュックを持って新宿にやってきた。さすがに初日くらいは、漫画喫茶で寝ることにした。そして、朝になると日払いのバイトに行く。こうなると、ホームレスというよりネカフェ難民だ。ビニールシートのテントで暮らしている人は高齢者が多く、少数派のようだ。若い世代の多くはネカフェ難民で精神疾患を持つ人が多いそうだ。俺はバブル期末期に就活したが、就職氷河期の非正規雇用の人たちが、数多くネカフェ難民になってしまったとか。気の毒だが、手に職をつけようと思えば、できたのではないかと思わなくもない。


 そのうち、次第に顔見知りができて、情報交換するようになった。俺も彼らも人恋しいという気持ちがあるからだろう。みな感じが良く、すぐに仲良くなった。


 俺も以前は年収1千万以上あったが、もう金はどうでもよくなっていた。金があると使いたくなる。しかし、ネカフェ難民だと、見栄を張る必要もなく、気楽だった。一番よかったのは、嫁のいない生活だ。俺のうつ病はすっかり改善していた。そんな時期があったことを忘れるほどだった。あいつは今どうしてるんだろう。金を使いきって、焦っているだろうか。


 嫁のLineはブロックしていたが、電話が頻繁にかかって来ていた。ひどい時だと1日に10回くらいかかって来る。俺は警察に行かれる前に電源を切った。


 俺は嫁が絶対行かない新宿を寝床にしていたが、あいつは俺がホームレスになったなんて思わないだろう。


 しかし、数か月後、スマホが使えなくなった。家族なら解約もできると思うが、一番あり得るのは、嫁がカードを使い過ぎて、利用を止められたという状況だ。カードの限度額は100万だったが、毎月の引き落としができなかったんだろう。俺の携帯に、カード会社から督促の電話が来ていたんじゃないかと思う。カード払いにしていたものすべてが、止められているかもしれない。電気、ガス、水道はどうなっているだろうか。俺の医療保険も失効してしまったに違いない。


 スマホが使えなくなって、フリーWi-Fiに頼るようになった。連絡先電話番号がいる時は、ネカフェ難民の知人の番号を借りた。ネカフェではネットが使えるし、それほど不自由はなかった。シャワーもあるし、最低限の身だしなみは整えられる。

 しかし、体は疲れたし、慢性的に全身の痛みに苦しめられていた。

 それに、変に腹が出て痩せていった。


 俺は新宿の西口を寝床にしていたから、昼間もあの辺にいることがあった。

 すると、恥ずかしいことに、会社の同僚に会ってしまった。


「江田さん!」

 その人はびっくりした顔をして俺の方に走って来た。

「どうしたんですか?こんなところで?家に帰ってないんですか?」

「そんなことないんだけど・・・」

「前に家族の方が会社まで尋ねて来て、家に帰って来ないって言って副部長に詰め寄ってましたよ・・・」

 俺は恥ずかしかった。

「ちょっと頭おかしいだろ?」

「いやあ・・・きっと心配なんですよ」

「ごめんね。迷惑かけて」

「江田さん、ちょっと時間ありますか?何かおごらせてください」

 俺は金がなかったから、ありがたく誘いに乗った。俺が日焼けして、薄汚い格好をしていると思ったから、ホームレスだと思ったんだろう。


「あの後、江田さんが休んでから大変だったんですよ・・・副部長が変な書類を通しちゃったせいで、3億も損しちゃったんですよ」

「あ、そうなんだ・・・まずいね」

「副部長はあまり知識がなくて、業務をよくわかってないから、みんな大変ですよ。聞いても誰もわからないっていう状況で。しっちゃかめっちゃかで。そろそろ、戻って来てもらえませんか?」

「でも、俺、うつ病になっちゃってさ・・・休職してるから」

「今もちょっとづつ良くなったりはしないんですか」

「ちょっと良くなってるけどね・・・家にいる人と顔を会わさなければね。あの人、精神病だから今どうしてるかなぁ・・・」

「僕でよかったら会ってきましょうか?」

「うん・・・でも、怖いよ。家に誰か住んでるか見て来てくれたらうれしい」

 

 俺は彼と今度の日曜日の昼に待ち合せた。昼飯を奢ってくれるそうだ。


 数日後、彼に会った時、彼はすぐに家の状況を伝えてくれた。まだ家に人がいて、エアコンの室外機が回っていたそうだ。どうやって暮らしてるんだろう。不思議だった。多分、通帳と印鑑で金を下ろしているんだろう。家を出てから、もう8か月後だった。俺は家に帰ることを諦めた。


 気ままな暮らしが一年ほど続いたが、その暮らしにも、そろそろ終わりが近付いていた。俺は病気になってしまったんだ。保険証はまだ使えたから、病院に行ったら深刻な病気が発覚した。癌だった。余命宣告されるほどの状態だった。

 ずっと体調不良が続いていたが、保健証を使うことで、居場所がバレてしまう気がして、病院に行くのを控えていた。


 俺は自分の寿命を知って、ようやく離婚することに決めた。これから、死ぬとしてもあいつに財産を残したくなかったからだ。


*** 


 久しぶりに家に帰ってみると、もう、誰も住んでいなかった。ポストに鍵が入っていた。よかった~!もう、いないんだ。俺は心の底から安堵した。これからは、家に戻って暮らすんだ。


 玄関のドアを開けた瞬間、家の中はゴミが腐ったような悪臭がしていて、フローリングの床には黒い小さな虫がたくさん死んでいた。


 俺は下駄箱からスリッパを取り出した。


 2階のリビングはさらに酷かった。ガビガビになった生ゴミがキッチンにそのまま放置されていて、床は足の踏み場もなかった。雑誌や服やコンビニ弁当の容器などのごみが散乱している。



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