vs 完全の天使マノアエル3
どうして止めなかったのだろうか。
遥加はそう考える。ダメージは深刻で、意識を繋ぎ止めるのに必死だ。そんな中、孤軍奮闘する黒の少女。彼女に戦う理由はないはずだった。
それでも、彼女自身がそうしたかった。
それが分かってしまった。
終わりのあやかの
遥加は彼女の勇姿を見届ける。右目を貫かれて、それでも決して倒れない執念の獣を。
――――えんまちゃんは、そんな風に戦えるんだね
いつも覇気がなく、自信がなく。自分の後を静かについてくる老犬のような少女。彼女が傍にいてくれるだけで、どれほど救われたことか。
果たして、自分は彼女にどれほどのものをあげられたのだろうか。
「がんばれ」
小さな声は、きっと届かない。それでもきっと伝わってくれる。
「がんばれ、
彼女の想いは報われる。そのためになら、戦える。立ち上がれる。
マノアエルの表情が初めて崩れた。カンタービレを引き抜くも、執念の獣は倒れない。
そして、穿たれた右目から蠢く心臓に、魔法の呪文を放つのだ。
「フェアヴァイレドッホ――――
即ち、ネガ堕ち。
♪
妄執の『トロイメライ・ハート』
このネガは「共振」の性質を持つ。
欲を震わせ、周囲の感情を湧き立たせる。
揺られ、肥大化した情念は、やがて魂を喰い破る。
このネガは使い魔も結界も持たず、全てを自己完結する。
決して動かず、ただただ脈動する。
想いの限りを震わせる。それがこのネガの全て。
♪
抉り取った右目は、歪なハート型に膨張した。そのあまりにもおぞましい光景に、完全の天使は表情を崩したのだ。少女の右眼窩に繋ぎ止められた心臓が、揺れる。
「冒涜的だ――なんなんだ、ソレはッ!?」
マノアエルはカンタービレの切っ先を濡らした肉片を払い除ける。
「震えろ」
ジョーカーの言葉が、異形の心臓を震わせる。マノアエルは胸を抑えながら膝をついた。
心が、ざわつく。
一刻の猶予もない。そんな妙な焦燥が完全の天使を焦がす。握った聖槍を一切の躊躇なく突き出す。
「させ、ない――――!」
「はは、焦ってやがんな」
光の矢がその切っ先をズラし、割り込んだあやかが右脇で突きを抑え込む。
「その、腕は、潰したはず……!」
「リペア」
外見だけ再生させたハッタリではあったが、効果は絶大だった。マノアエルの精神状態がまともではないことを、あやかは知っている。
(存分に震わせろ! ここにまともな心配が必要な奴なんていねえぜ!!)
激痛は噛み殺す。容易だ。ジョーカーのネガが震わす心臓は、その情念を狂気的に膨れ上がらせる。
彼女らが失った情念を、発狂させるほどの情動で取り戻す。それこそが、高月あやかの、輪廻のネガが放った切り札だった。
「は! な! せ!」
「存分にやりやがれ!! 舎弟皆伝女!!」
「その言い方! 後で! とことん! ぶちのめすからね! あやかちゃん!!」
あらゆる情念が強制的に膨れ上がらせる旋律。それでも、冷静にその仕組を理解したマノアエルの観察眼は確かに完璧だった。
「ぶち、のめす――――ッ!!」
(違う。そうじゃない)
言動とは裏腹に、まだ思考は正常だ。トロイメライ・ハート。あの異形の心臓から仲間たちを遠ざけようとする真由美の姿が目に入る。彼女の様子は、明らかに常軌を逸している目前の二人とは異なっている。
(距離か。離れれば離れるほどあの汚物からの影響は小さくなる。しかも、その影響範囲はそこまでと見受けられるね)
その洞察はまさに完全なる正解だった。完全の天使がその翼に力を漲らせる。その推進力は圧倒的で、満身創痍な相手しかいないこの戦場からの離脱は容易だろう。
「誰がそんなクソみたいな根比べにつきやってやるものか! 勝手に発狂してろ!」
「いいえ、逃さないわ」
血反吐を吐きながら、真由美は確固と言い放った。距離は決して離させない。そのための秘策は、この場で、真由美ただ一人だけが持っていた。
「フェアヴァイレドッホ――――
空間を隔てるもの。誰よりもネガの情念暴動の影響を受けているジョーカーは、もはや『時空』の
「逃がすわけ、ないでしょ。ドイツもコイツも、私のこと侮り過ぎなのよ。あの根暗女は――――私の、宿敵、なんだから」
そう、ネガ結界だ。
クレヨンで描いた稚拙な世界がすべてを覆う。巨大な魔本に屹立する水色のマネキン。童話の女王が配下の紙の騎士共を呼び寄せる。
逃げ切れない。卓越した処理能力を持つが故に、大天使は全てを察してしまった。ここは、隔絶された異界にほかならない。しかも、目前に聳えるマネキンのネガはさして強力な力は持たないように見受けられる。故に、その世界の範囲もたかが知れてしまう。
「じゃあ! もう! 蹂躙しかないじゃないかあ!!」
狂ったようにテンションを上げるマノアエルが聖槍の振り回した。異界も、情動暴走も、全てはネガという異形の怪物が引き起こす現象だ。
故に、その元凶をその手で屠る。それで全てに片がつく。あまりにも乱暴なその読みは、これ以上ないほどの完答だった。
そして。
その結論に至ることは、この場の全ての戦士たちが理解している。
「勝負」
妄執の旋律。
ジョーカーが確固たる覚悟とともに心臓を震わせる。
「「勝負」」
遥加とあやかが、必死の死闘を奏でる黒の少女に抱きついた。少しでもその情念暴動の影響下に入るために。常軌を逸して膨れ上がらせた情念は、彼女らの魔法を取り戻させると信じて。
「勝負」
聖槍カンタービレと制裁の飛礫。マノアエルのありったけの攻め手が襲いかかる。それでも、不敵な笑みを浮かべる真由美は受けて立つのだ。
「「「「勝負」」」」
そんな真由美を援護するのは、マルシャンス、バッドデイ、シンイチロウ、レダ。彼らは正しく理解している。ここが戦いの分水嶺だ。ジョーカーとメルヒェン、彼女らを守り切る。マノアエルを決してネガ結界から逃さない。
遥加とあやかが魔法を取り戻し、窮地を打開する。そんな根拠の欠片もない希望を、不思議と誰も疑いはしなかった。
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