vs『人事の悪魔』エルト・シェイド

 強気の態度と打って変わって、エルトが取ったのは『逃げ』の一手だった。


(アレが噂の剣鬼か……確かにアレに睨まれるってのは割に合わねぇな。ニュクスももう出涸らしだし、適当に身を潜ましてから次のカモを探すか)


 悪魔千里を走る。マントを大きなカラスの羽に変形させ、音速に近い速度で通路を飛んでいた。剣鬼と魔法少女どもにけしかけた理想郷の蛇は、弱い攻撃でも即座に消滅してしまう。あの三人の誰もが広域殲滅の手段を有しているはずだ。突破は容易いだろう。


(すべての責任は現場の奴らに負わせりゃいい。ただ逃げ切れさえすればどうにもなる。だからこその目くらまし。初速で抜いちまえば誰も追いつけやしな――――)

「嘘だろおい!!?」


 仕込み杖の刃で剣鬼の一撃をしのいだのは、純粋に彼の技量だった。だが、空中で、しかも音速挙動中に不意をつかれて姿勢の制御なんてできるはずもない。そのまま壁に叩きつけられて転がった。


「私は刀を持った置物――――置いておくだけで効果があるのよ」

「速っ、しかも音もなくッ!!?」


 セントラルが誇る最強戦力の名は伊達ではなかった。

 音速の摺り足で音を殺しながら迫り、20歩以内の距離であれば瞬時に移動可能な縮地を組み合わせる。音速を超えた速度域。エルトは苦し紛れに無数の黒蛇をけしかけた。


「やるの? そこはもう間合いなのだけど」


 全方位から迫る毒の牙に欠片も臆さず、立ち止まって集中する。


「ぐぅおおおおおお――――ッッ!!!?」


 瞬きする間もなく、理想郷の蛇が全滅している。それだけではない。袈裟に斬られたエルトが傷口を押さえていた。

 十歩必殺。その表情に一切の揺らぎなく、ホノカは悪魔の動きに目を見張らす。


「――はっ!? なぁにが治安維持だ。こんなんただの暴君じゃねぇか!?」


 ホノカが剣を振るった。びくりと身を震わせたエルトだが、傷は増えていない。


「なんのつもりだ!? そうやって力でねじ伏せて、そんなものが正義と言えんのかよ!!?」


 また一閃。

 だが、傷は増えていない。


「まさか」


 一閃。

 エルトの声には魔力が宿っている。悪魔のささやき。『人事の悪魔』としては、相手を揺さぶる程度の力でしか使用していない。それを、今は相手を魅了・洗脳するレベルまで引き上げて使用している。


「おい」


 一閃。


「まさか」


 一閃。


「てめぇ――――音を斬ってやがんのかッ!!?」


 一閃。そしてホノカは静かに頷いた。手玉に取られている。そう気付いたエルトは仕込み杖の刃を前にホノカに突撃する。その刃には魔力が纏われ、切れ味と地球性が大幅に強化されていた。

 ホノカは鍔迫り合いに受ける。


「逃げきれねぇ……ならこうして刀を止めるしかねぇ。此度のスカウトは『ご縁がなかったということで』――――てめぇごと縁を切る!」


 ホノカは大きく下がって、その間にも魔力が籠った声を斬り伏せていた。


(普通の人なら、私の一太刀ですぐに血塗れになるのに。でも、人外の頑強さまでは持ち合わせていない……)


 惨殺の太刀。3回同時の斬撃。だが、顔を引き攣らせながらもエルトは受けきっていた。剣術の腕もかなりのものだ。不肖の弟子ではすぐに打ち負けてしまうだろう。


(捕らえて色々と口を割らせたかったけど――――もう斬っちゃうかな、首)

「……丸聞こえだぜ」


 黒い蛇が大量にホノカの後ろに放たれる。ホノカはちらりと背後を覗き見る。


「やい、エルトさん! 私に犯罪の片棒を担がせようとしてたなんてね! 許さないよ!」

「いや予想はついちゃいたが、恩を完全に仇で返しに来たな」

「リロードロード!」


 黒蛇の壁を、水色の少女が強引にぶち抜いていた。その背におぶさるニュクスが『黒光杖ダークサクレクール』を構える。

 理想郷の蛇の毒は、明らかに効果を失っていた。メルヒェンがニュクス戦で使用していた『治癒』の魔法はエルトも中継で見ていた。そして、その魔法に解毒作用がある可能性も。


「お荷物到着感謝するぜ。コイツら庇いながら俺の攻撃凌げるのかよ、剣鬼さんよぉ」


 ニュクスの魔法には発動までの隙が大きいことを彼は知っている。壁を蹴ったジグザグ軌道で惑わす。ニュクスが狙いを定めるまでの僅か数瞬。音速に近い速度域の飛び蹴りで手首を痛めつけ、杖を取りこぼさせる。


(ニュクスの方は流石に庇わねぇか)


 ホノカは悪魔のささやきを斬り伏せただけだった。その気になればどちらも止められたはずだ。だが、彼女は、真由美と悪魔を挟み撃ちにする陣形に縮地で移動している。


「んん?」

「あの子の器用さ、あまり舐めない方がいいよ」

(こんな雑魚に何を、いやまさか揺さぶってんのか……?)


 ホノカの何気ない言葉に、エルトはほんの一瞬動きを止めてしまった。結論から言うと、その一瞬が致命的になった。しかも彼女は本当に何気なく呟いただけでそんな意図など全くなかったのだ。


(泡……目くらましか)


 光の屈折率を歪める魔法の泡。メルヒェンには剣鬼ほど音を殺して動く技量はない。だから、視界を封じられる意味はなかった。悪魔の地獄耳はその動きを逃さない。


「セット」


 エルトが刀を振るう直前、周囲に滞空する泡が一斉に弾けた。嫌な振動が耳に響く。気を取られ、少女の魔法を聞き逃した。その右手に巻き付く水色のリボンを。


施錠ロック

「なん、だこれ……?」


 音が遠のいた。黒い蛇も召喚出来ない。能力までも封じる『束縛』の魔法。ニュクス戦では不発だったために、彼はその魔法の効果を把握できていない。

 動きが鈍った刃が、少女の太刀筋に絡め取られた。仕込み杖が飛ばされ、ホノカが縮地で回収する。


「さあ、『人事の悪魔』。交渉の時間だ。分かっていると思うけどお前の能力はもう使えないよ」

「……なんだ。何が望みだ?」


 エルトは両手を上げた。


「ウチに来ない? スカウトするよ。三食昼寝付きで」

「……条件は?」

「情報を吐き出すだけの簡単なお仕事だよ。それ以外の時間は、敷地内であれば好きに時間を使ってくれて限らない」


 エルトの額に、異様な冷や汗が浮かんだ。剣鬼の殺気に膝が笑っている。少し視線を上げると、位置的にモロに当てられたメルヒェンとニュクスが抱き合いながら震えている。


(抱き合わせ商品……その手があったか)

「安全は、確保してくれんだろうな?」


 もう逃げられない。エルトにははっきりと分かっていた。それに、闇のリクルート業で集まった情報の価値は彼自身がよく理解していた。少なくとも、彼の管轄内の分野においては、セントラル内に潜む闇業者は一掃されてしまうだろう。そして、この世界においては『人事の悪魔』が関わっている占有率シェアはかなり大きいものと自負している。

 顧客情報が漏れたら間違いなく殺される。


にならなければ、ね」

「あ、やっぱご縁があったわ。よろしゃーす!」


 諸々を天秤にかけ、エルトは軽いノリで了承した。


「ちなみにどんな分野に配属されるん、だ……?」


 縮地。真ん前に現れた剣鬼の顔に、エルトは不穏なものを感じた。


「ろ、う、や」


 耳元で囁かれたその声がスローモーションのように聞こえ、同時に鳩尾に叩きつけられた柄に意識を落とす。

 ホノカは軽い調子で彼の身体を肩に担ぐ。


「ニュクスさんだっけ? 君は同行だけど――――断らないよね?」


 真由美に抱き着きながら、ニュクスは首を勢いよく上下に振った。

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