第15話

「イブ、大丈夫? 生きてるね!」

「……シェダル……」

「岸に打ちあがってた船を拝借してきた」

 水やら防具やらで重みが増したイブの体を、シェダルは小さな漁船の中にずるずると引きずり込んだ。海は大荒れなのに船の周りだけやけに静かだなと思っていると、疑問を察したのか「神力って便利だよね」と彼は口だけで笑う。例の光を張っているというわけか。

 飲み込んでしまった水を吐き出しながら、イブはティアマトを見上げた。彼女はなにかをすくうように両手を胸の前で掲げ、手のひらに向かって微笑みを落としている。

「ああ、オリフィニア。少し見ない間にまた大きくなりましたね」

 もしかして、とイブは海面に目を移した。溺れていたはずのオリフィニアの姿がない。

 ティアマトが助け出したのだ。オリフィニアは今、母の手の中にいるのだろう。

「かわいそうに。こんなに縛られて。すぐに解いてあげます」

 するすると細い水の柱が伸びあがり、ティアマトの手に吸い込まれていく。数秒後、柱が消えると同時に縄が落下してきた。

「ティアマト!」自分の存在を無視されていると感じたのか、セインが三叉槍を構えながら叫んでいる。「貴様が人間に与えた損害は大きいぞ。もはや処分するほかないほどにな!」

「オリフィニア。教えてください。母は今、とても深い悲しみの中にいるのです」

 世界には今、自分と娘の二人しかいないとでも言うように、ティアマトはセインどころか、イブたちにも目を向けない。

「オネストは……お父さまはどうしたのですか?」

「神力などなくても人は強い。たとえ貴様がいくら強大であろうと、俺は易々と対抗し上回るほどの実力を備えている!」

「川の流れはいずれ海へ到達するでしょう? その時、数多の情報も水に溶け込み、同時に母の元へもたらされるのです。オリフィニア、あなたたちの暮らしは、遠く離れた母も常に知っていました。けれどある日、信じがたい情報が流れてきました」

 オリフィニアはなにか喋っているのだろうか。ここまでは聞こえてこないし、ここからは口の動きすら見えない。

「オネストが死んだというのは事実ですか?」

 少しだけ間があった。やがてティアマトは長い睫毛を伏せ、一粒だけ涙をこぼした。

「そうか、『夜な夜な聞こえる女の泣き声』っていうのは『夫が死んだと知ったが、信じたくなかった』からなのか……」

「だから海も荒れたってこと?」

「恐らく。きっと自分で真実を確かめたかっただろうけど、オリフィニアは『お母さんとは一年に一度しか会えない』って言ってたように、ティアマトは陸に上がるのになにかしら制限があるのかもしれない。行きたいのに行けないもどかしさから、暴れてたのかも……」

 一人で喚いているセインを置き去りに、ティアマトはオリフィニアの話に耳を傾けているようだ。母娘の再会を邪魔しないようにと、イブとシェダルは静かに成り行きを見守る。その間にイブは水を吸ったベストを脱いで体を休めておいた。セインの三叉槍を受けた部分が痣になっているが、これくらいならどうということはない。

「予定が狂ったが、まあいい。動かないのなら好都合だ」

 喚き続けるのに虚しさを感じたのか、セインが面倒くさそうに首を振った。その直後、セインは恐ろしい速さでティアマトに船を近づけ、背後に回り込んだかと思うと、三叉槍を担ぐように構えて勢いよく投擲した。

 まるで糸でたぐり寄せているのかと思うほど、槍はティアマトの背中に向かって一直線に吸い込まれていく。右の肩甲骨の少し下あたりに突き刺さると、勢いを失うことなくティアマトの体内に入り込んだ。

「例え海そのものだろうが〈核〉を破壊すればどんな幻獣でもたちまち崩壊する! 貴様も同じだろう?」

 勝利を確信したのか、セインは高笑いを発しながら背中をのけ反らせた。

 なんてことを。無防備な背中を狙い、娘と会話している隙を突くなんて卑怯以外のなにものでもない。背丈ほどの大きさの槍を正確に放り投げる技術と力量は素晴らしいが、発揮する場面が絶対に違う。一発殴らなければ気が済まない。イブは怒りに任せて船を下りようとしたが、ダメだよとシェダルに首根っこを掴まれた。

 ぴくりとティアマトの肩が揺れた。三叉槍の先端が〈核〉に到達したのだろうか。幻獣の崩壊をセインは待ちわびているようだが、しかし、いっこうにその気配はない。なにかおかしいとイブたちも思いはじめた頃、ざばりと轟音を立てて海からなにかが飛び出してきた。

 それはまるでクジラの尾びれのようだった。けれど大きさが明らかにけた違いだし、色も目が覚めるような瑠璃色だ。しゃらしゃらと涼やかな響きは鱗の音だ。水に濡れ、月光を帯びて幻想的な色合いを放っている。

「な、にあれ……」

「ティアマトの尾だよ! 初めて見た……!」

 あまりの威圧感に、清々しいほどの傲慢さを湛えていたセインすら閉口している。

「オネストを殺したのは、この男ですね?」

 疑問形をとってはいるが、ティアマトの言葉には確信が満ちていた。

 オリフィニアがうなずいたのが見えた。直後、大きく振り上げられた尾びれがセインを叩きつける。彼が乗っていた船も木っ端みじんに粉砕され、大小の破片が天高く舞い、雨のように次々に水面へ落下していく。

 二人は口をぽかんと開けたまま、なにも言えなかった。

 巨大な尾びれに押しつぶされ、無事でいられるはずがない。海底深くに沈んでしまったのか、セインが浮かび上がってくる様子はない。

「……ど、どうする……?」と先に口を開いたのはシェダルだった。

「どうするって……話し合いをするんでしょ。港町の人たちから討伐依頼も出てるんだし、なんとかしないと……」

「さあオリフィニア。もう一度教えてください」

 ティアマトはためらいもなく己の胸に指を突っ込んだ。かと思うと、体内に埋まっていたであろう三叉槍を引きずり出し、はるか遠くに放り投げる。いくらか気分が晴れたと言いたげに口の端をわずかに緩ませ、顔の前まで手のひらを上げた。

「あそこにいる人間たちも、あなたに害を加えたのですね?」

「――――えっ」

 不穏な響きに、シェダルの表情が岩のように固まった。

 イブは静かに腰からダガーを引き抜いた。

「怖い思いをしたでしょう、オリフィニア。もう大丈夫です」

 あなたを苦しめる全て、お母さんが排除してあげますから。

 ティアマトの瞳が黄金色に光り輝く。ヘビの目のように細長くなった瞳孔が、イブとシェダルを鋭く睨みつけていた。

「ちょ――――ちょっと待ってほしいの!」

 今にも殺し合いが始まりそうな危うい雰囲気の中、ティアマトを制したのは他ならぬオリフィニアだった。涙と懇願に染まった幼い声は、母親だけでなくイブにも届くよう、限界まで張り上げられている。

「シェダルさんはあたしを助けてくれたのよ! お母さんに会いたいって言った時、『じゃあ一緒に行こうか』って言ってくれたの。お父さんが死んでしまったって言った時も、お母さんみたいに頭を優しく撫でてくれたのよ? 『もう大丈夫。心配しなくていいよ』って!」

 オリフィニアは手のひらで立ち上がり、身振り手振りを交えながら必死に説明している。だがティアマトに話を信じた様子はなく、色彩を変えた瞳は怪しく輝いたままだ。

「騙されてはいませんか、オリフィニア。シェダルというのはどちらですか」

「えっと、男の人の方よ。背はお父さんよりも低くて、ボサボサで茶色い髪の、追いかけっこが好きだけど、その最中によく物を落とす人なの」

「……あれって僕のこと?」

 オリフィニアの言葉に悪気は無さそうだが、シェダルは微妙に傷ついた顔でイブに問いかけてくる。他に誰がいるんだとしか言えず、イブはひょいと肩をすくめた。

「では女の方は何者ですか。あなたを苦しめているのは、あの女でしょう? 分かりますよ、オリフィニア。あなたには私の血が、そして神力が流れているのですから。あなたが感じる喜び、悲しみ、恐怖、戸惑い。全ての感情が私に伝わるのです」

「イブさん……イブさんは……」

 手のひらのはしからオリフィニアの顔が覗き、イブを見下ろした。高く離れていて表情はよくうかがえないが、目が合っていると確かに分かる。敵意がないと示すべく、イブは一度ダガーを鞘に戻し、彼女に向かって両手を高く上げ、左右に振った。

 オリフィニアは手を振り返してこない。悩むように顔を伏せ、しばらくしてからようやく口を開いた。

「イブさんは……お母さんを殺すって、言ってたわ」

「な……」

「ほう?」

 すうっとティアマトの目が細められ、豊かな髪が竜巻のように逆巻いた。一方のイブは絶句したまま、なかなか言葉を継げないでいた。やっと絞り出した声は、喉が渇いてかさかさになっていた。

「オリフィニア、気付いてたの? 私があなたのお母さんを――ティアマトを狩ろうとしているって」

「シェダルさんのお部屋で話していたのを、聞いてしまったの。ごめんなさい、そんなつもりじゃなかったのよ。でも……」

「謝るのはむしろ私の方だよ。隣から声が聞こえてきたら、誰だって聞きたくなる。私こそごめんなさい。もっと早くに言っておくべきだった。部屋を出ていったのは自分の意思だね? 混乱して、思わず飛び出しちゃったんだよね」

「だってお母さんが幻獣だなんて、あたし知らなかったんだもの。狩るっていうのは、殺すって意味でしょう? だからあたし、びっくりして怖くて……」

 でも、とオリフィニアは母の親指にしがみつき、イブとティアマトに交互に目を向けた。

「イブさんはとっても優しくて、強い人なのよ。あたしたちを助けてくれたし、お話していても楽しいの。よく分からないけれど、お姉ちゃんっていう人がいたら、イブさんみたいな人なのかと思うのよ」

「オリフィニア……」

「けれど私を狩ろうとしているのでしょう。先ほど喚いていた男の同類です。あなたを苦しめているのはイブという女に違いありません」

 ず、とティアマトの尾びれが高く上がった。しゃらりと響く鱗の音が、まるで死刑までの時を刻む音に聞こえてくる。

 ここでダガーをとったら確実に敵とみなされ、イブはセインと同じ運命を辿るだろう。敵対の意思はないとはっきり示すためにはどうすればいいのか。オリフィニアは必死に違うと言い募っているが、ティアマトは一度これと決めたら決して揺るがないようだ。

 ティアマトを作った魔術師は『破壊』の異名をもっていたとシェダルが言っていた。ティアマトもその気質を持っているとも。恐らく彼女は仮にイブを叩き潰したとしても、次はなにかしら理由を付けてシェダルを、さらにはポルトレガメまで襲いかねない。

 自分が取るべき行動はどれか。イブは今にも振り下ろされそうな巨大な尾びれを見上げ、考えを巡らせた。

 その視界に、いるはずのないものが映りこんだ。

「〈機関〉の……?」

 尾にしがみ付いているのは、潰されたはずのセインだった。どうやら生きていたらしいが、傷一つないというわけでも無さそうだ。片目は潰れ、左腕もおかしな方向に折れ曲がっている。内臓も無事ではないに違いない。

「ティアマトぉぉぉ!」

 セインは口から血と唾を飛ばし、最後の力を振り絞るかのように尾から飛び降りた。

 尾びれはティアマトの肩より高く掲げられている。セインが着地したのはうなじのあたりだ。髪が竜巻と化している今、彼女の艶やかな肌は無防備に露出している。しかし彼の得物であった三叉槍は遠くに投げ捨てられており、満身創痍の体に出来ることなど噛みつくか、引っかくか、いずれにせよ体内のどこにあるか分からない〈核〉を傷つけるには不十分な攻撃しか出来ないと思われた。

 だが。

「ここで! 終わるわけにいかんのだ! 俺はまだ、多くの弱い人々を守ってやらねばならないのだから!」

 セインが右手を振り上げた。その手の先でなにかがきらりと月光を受け止める。

 見間違えるはずがない。あれはイブのスティレットだ。櫂に突き刺さったまま放置され、漁船が破壊されるとともに行方知れずになっていた。

 スティレットがうなじに深く突き刺さる。途端、これまでの美しい声とは正反対のおぞましい絶叫がティアマトの喉からほとばしった。巨体が大きく振られるにしたがって、力を使い果たしたのか、セインは人形のように海に落下する。

「あ、あぁ、ああ…………!」

 苦しみから逃れようとするように、ティアマトが何度も首を振る。明らかに様子がおかしい。

「まさかティアマトの〈核〉はあそこにあったの?」

「あの苦しみ方から察するに、そうなんだと思う! あぁくそっ、家にある資料に〈核〉の位置までは書いてなかった!」

 痛みを逃がすようにティアマトは何度も尾びれやヒレで海面を叩く。シェダルが神力で守ってくれていなければ、小さな漁船など瞬く間に転覆してイブたちは海の藻屑となっていただろう。それでも揺れからは逃れられず、イブは必死に船の縁にしがみついた。

「あっ――――イブ!」なにを思いついたのか、シェダルの声に少しばかりの希望が混じっている。「僕が君を飛ばすから、取り除いてくれるかな!」

「はあ? ちょっと待って、詳しく説明して! 飛ばすってどこに! 取り除くってなにを!」

「この状況で飛ばす場所と取り除くものなんて、一つしかないでしょ!」

 有無を言わさぬ勢いに押されるまま、イブは生まれたての小鹿のように脚を震わせながら立ち上がった。どうするのかと思った直後、ぐんっとイブの体が上に向かって押し出された。

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