第14話
イブが走り去るのを足音で確認し、シェダルは幽鬼のように立ち上がった。その顔に普段の人懐こい笑みはどこにもなく、瞳の奥で
「あなたが『始祖』の魔術師エアストですか。なんの抵抗もせずに捕まったものですから、てっきり神力がないのかと」
「無駄遣いをしなかっただけだよ。そういう君はどこの出かな。エアストの集まりで見たことはないし、『慈愛』のゼクストが使う魔術にしては乱暴だしお粗末だ」
シェダルの一言に男の表情がわずかに歪んだ。
「僕たちの妨害をしたタロスを作ったのも君だろう。不完全な作りになっていたし、本人も『どうせ嫌がらせ』って言ってたけど、意図しての不完全じゃなくて、そもそも幻獣作成自体が不慣れだったのかな」
「私を侮辱しているおつもりですか? それとも挑発の真似ごとでしょうか」
男の足元にぼこぼこと無数の亀裂が入り、おびただしい数の蔦が出現した。色も先ほどより黒々としており、触れれば間違いなく負傷するであろうトゲも確認できる。初めはゆらゆらうごめいていたが、男がこちらに向かって腕を伸ばすのに合わせて、蔦の先端も一斉にシェダルに向けられた。
「私は選ばれし特別な魔術師なのだとセインさまは仰っていました。家族の誰も持っていなかった神力を疎まれ、迫害されて居場所を失くしていた私に、セインさまは〈機関〉という居場所と希望、私の価値と生きる意味をくださった。あの方の邪魔をするおつもりなら、例え〝本家〟の魔術師であろうと凌駕してみせましょう」
「特別な魔術師? ただの先祖返りの間違いだろう」
男のこめかみに青筋が浮かぶ。直後、蔦たちがシェダルを襲った。すぐさま体の周囲に光を張って防御し、落ち着いて敵の様子をうかがう。
蔦たちの動きは荒々しい。男の激憤を表しているかのようだ。どれだけ光に阻まれ、弾き返され、傷ついても構うことなく攻撃を続けている。
「これだけの数を同時に操るだけじゃなく、正確無比に僕を狙ってくるんだ。使い慣れてるみたいだし、疲れてるわけでもない。僕を凌駕するって言っただけあって、確かに神力は膨大なんだろう」
「世代を経るごとに神力が弱まるあなた方とは違うのです。初めこそ忌々しい力だと思いましたが、セインさまのお役に立てるのならいくらでも使いましょう!」
地面が揺れ、新たな蔦が何本も出現した。今までのものより太く、トゲの鋭さも増している。シェダルは光の膜をいっそう分厚くしたが、強靭な蔦に何度も叩かれて少しずつひびが入り始めた。
シェダルは小さく息を吐いた。これ以上、身を守るのに撤するばかりではこちらの神力が尽きてしまう。ナックラヴィーに襲われた時のように倒れてしまうのは避けたかった。一刻も早く男を退け、イブと共にオリフィニアの救出に向かわなければ。
「どうしました? 反撃もせず、ただ突っ立ったばかりで何もしないとは!」
己の優位性を感じたのか、男は楽しそうに高笑いを繰り返した。
「やはり〝本家〟など恐れるに足りませんね。遊んでいるのも楽しいですが、これ以上は時間の無駄でしょう。このまま叩き潰して差し上げます」
「その言葉、そっくりそのまま返そうか」
シェダルを覆っていた光の膜が、破裂音を立てながら崩壊した。防御を維持できなくなったのだと悟り、男の目に嗜虐の光がきらめく。言葉を返すと言った時には一瞬動揺したが、なんのことはない。ただの虚勢だったのだろう。
この隙を見逃すわけにはいかない。男は蔦の全てに神力を注ぎ、一回り以上も大きくしたうえでシェダルを潰しにかかった。
だが。
「…………は?」
魔術師を潰すはずの蔦が、突然消えた。
正確に言えば、あるにはある。根元しか残っていないのだ。人間の膝丈ほどの大きさになってしまった蔦は瞬く間に萎れ、次々と地面に横たわっていく。
なにが起こったのかと男は頭上を振り仰ぎ、目を見開いた。消えたと思った蔦たちが、己の上空で漂っている。
「切断させてもらったんだよ。さすがに全て受け止めると僕が死んでしまいそうだったから」
シェダルはにっこり笑いながら男に語りかけた。彼は呆然としたまま状況がつかめていないらしい。動揺したまま炎や水を駆使した別の術も色々と行使してきたが、シェダルは跳ね除ける、あるいは相殺して全て無効化した。
「反撃もせず、突っ立ったばかりだと君は言ったね。どうしてだと思う?」
「なに?」
「防御だとか、保護だとか、僕はそういった方面の術には長けてるんだ。でも攻撃は苦手でね」
上空に漂っていた蔦たちが一つにまとまり始めた。男の術ではない。シェダルが神力を使っているのだ。一塊になったそれは、その場に浮いているのが不思議なほど巨大で、重さも計り知れない。
「使えないわけじゃない。使わないんだよ。加減が分からないから。守るべき人や幻獣まで傷つけてしまうわけにはいかないだろ? 敵だとしても無暗に傷つけるような真似はしたくなかった。話し合えるなら話し合いで終わらせたかった」
けれどこのままでは自分の身が危ない。
なにより男は、シェダルを――魔術師を軽んじた。
黙って言わせてやるほど、シェダルは寛容ではない。
蔦のかたまりを男に向かって落下させる。当然男は防御したが、紙きれほどの厚さではなんの意味もない。些細な攻防はあったが、数分後、かたまりは轟音を立てて男を押し潰した。
神力を使っていた主が倒れたことで、蔦は全て消失した。あとに残ったのは気を失って伸びている男と、彼が死ななかったことに安心しているシェダルだけだ。その顔には少しだけ疲れが滲んでいる。
「世代を経るごとに神力が弱まるって言ってたね。それは事実だ。だけど一般人や、他の魔術師に比べれば十分強い。これでもエアスト家の次期当主だからね。君と僕とじゃその差は歴然だよ」
まあ、聞こえていないだろうけど。
オォ、とティアマトの声が耳に届いた。慌てて振り返ると、ちょうどイブがオリフィニアの乗る船に辿り着いたところだった。〈機関〉の男はティアマトを見上げてなにかしら喚いているように見えたが、イブが飛び乗ってきたと気付いた途端、武器を手にイブを排除しにかかっていた。
「まずい、行かないと……!」
早く彼女たちを助けに行かなければ。シェダルは神力の消費で疲れる体に鞭打ち、風の流れに逆らって走り出した。
海中から現れた巨大な女性を見上げ、お母さんだ、とオリフィニアは呟いた。だが布で猿ぐつわをされているせいでまともな言葉にならず、目の前の男がぎゃあぎゃあと喚いているせいでか細い声は余計にかき消された。
オリフィニアを
「やっと姿を現したな、ティアマトよ! 貴様をここで倒し、俺は英雄の称号を手に入れるのだ!」
「…………」
セインが絶叫するが、ティアマトが聞いている様子はない。逆も然りだ。ティアマトは絶えず言葉を紡いでいるが、セインが理解しているとは思えない。だが娘であるオリフィニアにはしっかり届いているし、なにを訴えているのかも分かる。ティアマトはじっとポルトレガメを見下ろしている。その瞳と顔つきに母の面影を確かに見て、オリフィニアの双眸に涙が滲んだ。
本当に母はティアマトだったという驚きなのか、それとも悲しみなのか、自分でも分からない。
やがてティアマトはゆっくりと顔を下に向け始めた。息をのむほど美しいすみれ色の瞳が、オリフィニアとセインを捉えた。瞬間、ティアマトは少女のように顔を綻ばせたかと思うと、ぞっと背筋が震えるほどの怒りを口元に浮かばせた。唇の奥でぬらりとなにかが輝く。牙だと気付くのに時間はかからなかった。
海面が再びうねりを上げ始める。「まずいな」と薄ら笑いを浮かべつつ、セインはティアマトにより近づこうと櫂に手をかけた。
「母親の前で殺す」と言っていたはずだ。それが確かなら、オリフィニアは今から殺されるのだろうか。
――イブさん、シェダルさん……。
「行かせるかっ!」
がつんと音が響く。なにごとかと思う間もなく、セインが右側の櫂を振り上げた。
そこには、見覚えのあるスティレットが突き刺さっている。
「待たせてごめんね、オリフィニア!」
誰の声なのか気付いた途端、大きな音に合わせて船がぐらりと傾いた。
漁船のそばには桟橋がある。幸い〈機関〉の男はティアマトに気を取られてこちらに気付いていないようだった。イブは腰からスティレットを引き抜き、男の気を引くために勢いよく
どこか適当に当たればいいやと放り投げたが、スティレットは吸い込まれるようにして櫂に突き刺さった。男が訝しげに動きを止めた隙を見計らい、波に流されつつある船を目がけて、イブは桟橋から飛び移る。着地の瞬間に大きく船が揺らいだが、なんとか姿勢を整える。
「あんたが〈機関〉のセインって奴?」
「何者だ」
イブの問いに答えることなく、また特に動揺した様子もなく、男は威圧的な眼差しを向けてきた。
「しがない幻獣ハンターだよ。この子をどこへ連れていくつもり?」
「邪魔だ、失せろ」
「はい分かりましたって身を引くとでも?」
「愛おしむ価値のない女だな」
セインが素早く立ち上がり、かたわらに携えていた三叉槍をこちらに向かって突き出してくる。オリフィニアに当たろうが知ったことではないと言わんばかりの乱暴さだった。受け止めるのは難しいと判断し、蹴り上げて直撃を阻止する。すぐさまオリフィニアを己の背中に庇おうと手を伸ばしたが、柄がイブの腕を振り払った。
ただ払われただけなのに、骨に電撃が走ったかのように腕全体が痺れている。顔をゆがめる間もなく、槍の先端がイブを突かんと繰り出された。
まともに食らえば命を落としかねない。イブは身をよじって避けたが、ここが狭い漁船の上だということを忘れていた。しくじったと気付いた時には遅く、体全体が冷たい水に包み込まれていた。
「ぐっ……!」
「俺に無駄な時間を使わせた罪は重い。ティアマトを処分した後で、貴様も処分するとしよう」
衣服が水を吸って重たくなる。それに加えて手足の防具が重りとなり、海が荒れ始めたこともあってイブはまともな身動きが取れずにいた。セインは面倒くさそうにため息をつき、ティアマトに向かって船をこぎ始めた。
「ちょっと待て! 待ちなさいって、この……!」
ティアマトはただの幻獣ではない。オリフィニアの母親なのだ。わざわざオリフィニアを拉致してティアマトに挑むなんてなにを考えているのか。イブが制止しようと声を上げても、セインが聞き入れることはない。
こうなったら泳いで向かうしかない。体力が著しく削られるだろうが他に追いつく方法が無かった。イブは大きく息を吸い、思わぬ光景に中途半端な姿勢と表情のまま固まった。
オリフィニアが海に飛び込んだのだ。
自分の意思なのか、それともセインに突き落とされたのかは分からなかったが、彼女は今、両手足を縛られていたはずだ。イブ以上に泳げるわけがない。小さな体は波に揉まれ、息を吸おうと必死に喘ぐ姿が痛ましかった。
「オリフィニア!」
ガラスが触れあったかのような美しく清廉な響きがありながら、苛烈な雷を封じ込めているようにも思える絶叫が少女の名を呼んだ。
はっとイブが顔を上げるより早く、大きく盛り上がった波が眼前に迫り、抗う間もなく飲み込まれる。水中で揉まれるうちに肺の空気が全て押し出され、なんとか海面に顔を出そうとしても体が重くなっていく。なにが起きたのかも分からないまま視界が白み始めた時、強く腕を引かれる感覚に意識を取り戻した。
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