第13話

「――――うわっ!」

 生温かいものがどっと全身に降りかかる。それがなにかと考える間もなく、男の体が急速に力を失くしてぐらりと傾いでいった。幸い下敷きになることはなく、イブは細かく痙攣する男を見下ろしながら全身を濡らすなにかのにおいをかいだ。つんと鉄くさく、しかし知らないにおいではない。

「血だよ。タロスのね」シェダルがいつの間にか隣に並んでいた。いつから持っていたのか、手には紙とペンを携えてなにごとか書き記している。「肌が青銅だっていうから、もしかしてって思ったんだ。タロスはくるぶしから首まで一本の血管でつながってるから、それを引っこ抜いたら急激に弱体化する」

 人間でいうところの失血か。イブは顔に付着した男の血を袖で乱暴に拭った。

「タロスっていう幻獣がいるの?」

「肌が青銅で、岩を投げてくる巨人がそれだよ。体を発熱させて敵を焼き殺す技も持つんだけど……この個体は色々不完全だったみたいだ」

 シェダルはいまだ痙攣を続ける男の脇にしゃがみこみ、時々手で触れて感触を確かめつつ記録を続けている。

「不完全っていうと、巨人じゃない、とか?」

「うん。この人は確かに大きいけど、巨人って言えるほどじゃない。せいぜい大柄どまりだよ。体だって熱くないし、発熱の機能もなかったのかもしれない」

「……逆らう、と、思わ、れた、から、だろう」

 ぎこちない言葉が二人の耳に届く。声の主は幻獣タロスと判明した男だった。

 真っ先に驚いたのはシェダルだ。

「君、喋れるのかい? 僕が見てきた資料じゃ、血を引き抜いたら〈核〉からの神力供給以外の機能は一切停止するって書いてあったのに」

「それすら不完全ってことだったんじゃないの?」

「かも知れないな……イブ、ちょっと手伝って」

 イブはシェダルと共にぐったりと力の抜けた男の上半身を起こした。家屋を壁にして座らせると、男は焦点の定まらない瞳でイブたちを交互に見る。

「俺は、なにをさせ、られ、て、いたのか」

「僕たちに岩を投げてたんだよ。記憶があやふやなのかな。これも不完全な影響と考えて良さそうだ」

「あのさ、忘れてるみたいだけど、こいつが着てる服って〈機関〉のだよね? なんで幻獣が〈機関〉の服着てるわけ?」

 そもそもこちらは殺されかけたのだ。つまり害を被っている。イブとしてはさっさと〈核〉を見つけて処分して、オリフィニアを捜しに行きたい。だがシェダルは幻獣として不完全な男の様子を気にしている。

 イブの問いに答えたのは当の本人だった。

「〈機関〉だ、から、な」

「……どういうこと?」

「構成員がそのまま材料に使われたってことかな。ずいぶん荒い作り方をされたみたいだね。自分が〈機関〉の人間だったって分かってる。ってことは、幻獣になる前の記憶があるんだね?」

 男は一度、瞼を閉じた。うなずく代わりだろう。

 シェダルによると、材料となった人間は基本的にそれとして生きていた頃の記憶はなくしている場合がほとんどだという。下手に記憶を残していると自ら〈核〉を破壊して幻獣としての生から逃れてしまう場合や、作り手に恨みを抱いて襲ってくる可能性があるからだと。

 けれど男には、あえて記憶が残されている。なぜだろうとシェダルは首をひねったが、男は「どうせ嫌がらせだろう」と吐き捨てた。

「どうして私たちを襲ったわけ」

「魔術師を、狙って潰せと、命令が、されていた。魔術師、は、男の、ほうだな」

「ああ、僕だよ。エアスト家だ」

「なんでシェダルだって分かったの」

「神力を源とする幻獣はその気配に敏感なんだよ。だからだろうね。そして僕を狙えってことは、君を作ったのはオリフィニアを追ってる奴かな?」

 男の唇がわずかに上がった。笑っているのかも知れない。

「俺は、奴に殺、され、幻獣に」

「その〝奴〟の名前はなんなの」

「セイン、だ。……この、身が忌まわ、しい幻獣、など、吐き気がする」

 壊してくれと最後に懇願を呟き、男は口を閉ざした。血液が抜けた影響か、男の肌は青銅ではなく普通の人間のそれになっている。イブはシェダルと目を合わせ、男の服と肌を切り裂き、胸に埋め込まれていた〈核〉を露出させた。

 イブが今までに見てきた〈核〉は、虹に似た七色の光を内包した宝石とも言えるほど美しかった。だが男の〈核〉は光が鈍り、たまにどす黒いもやが混じって苦しげだ。なにからなにまで不完全に作られていたのだろう。

 ダガーを突き立てて破壊すると、男はようやく自由を得た囚人のような満ち足りた笑みを浮かべ、やがて砂の城のように崩れ去った。イブの全身を濡らしていた血液さえ跡形もなく消える。彼がまとっていた〈機関〉の服だけがその場に残された。

「……名前を聞いておけばよかったかな。そうしたら弔ってやれたのに」

「セインとかいう奴に聞けばいい」イブは道の先を見つめた。男が消滅したことで港までの一本道が開けている。「オリフィニアを攫ったのも、そいつなんじゃないかな」

「だと思う。急ごう。どこにいるのか見当もつかないっていうのが痛いけど……」

 ――――…………オォ。

 不意にうめき声のようなものが聞こえた。初めはかすかだったが、徐々に看過できないほど大きなものになっていく。付近を通りかかった住人たちの多くが怯える様子も見てとれた。

 まさか、これか。イブが察すると同時にシェダルも気付いたようだ。

 声は女の泣き声に聞こえなくもない。それに比例するように、海もだんだんと荒れていく。波が海岸に叩きつけられる音まで聞こえてきた。

 間違いないと確信を言葉にしたのはどちらだったろう。二人同時だったかもしれない。

「ティアマトの泣き声だ」

 次の瞬間、爆発に似た音に続いて水柱が上がった。イブはシェダルよりも早く駆け出し、海がよく見える場所まで走った。

 水柱はまるで生物のようにぐるぐると渦を巻き、その場に留まっている。よく聞くと女は泣き声だけでなくなにか喋っているようにも聞こえるが、ぼんやりとしていて上手く聞き取れない。

 イブが港に到着するのを待っていたかのように、雲が完全に晴れ、月が姿を見せた。シェダルが遅れて到着したころ、唐突に水柱が弾けて消えた。そこにあったものに、二人は一瞬息を忘れて見入っていた。

 海の中から、天に届きそうなほど巨大な女が現れていた。

 それは幻獣だというには、あまりに美しい。

 衣服は一切まとっておらず、無駄な肉のないしなやかな身体が月明りに照らされていた。水色をした肌は、その奥で波がうねっているように絶えず色の濃淡を変えている。腰から下は海に潜っているが、たまに魚のヒレと思しきものが見え隠れしている。緩やかに風に揺られる髪は、珊瑚から削りだしたかのような黄味がかった赤色で、水に濡れて艶やかに輝いて見えた。

 ほっそりとした顔つきは、穢れを知らない少女のようにも、この世の全てを愛おしむ寛厚かんこう な母のようにも思える。額からは一対の角が伸び、その下で瞬く瞳は思わず息をのむほど美しいすみれ色だ。だが同時に激しい怒りを秘めた勇ましさも秘めている。

「あれが、ティアマト……!」

 自分に言い聞かせるように呟いたイブの隣で、シェダルはただ絶句して幻獣を見つめている。イブも気を抜けばあまりの大きさと美しさに圧倒され、言葉を失くしてしまいそうだ。

 いったいどれほどの大きさだろう。人差し指の長さすらイブの身長より遥かに大きい。両腕を広げれば、ポルトレガメすら抱きしめられそうだ。

「――――……――――……」

「な、なにか、喋ってる……?」

「みたいだね……」

 薄く開いた唇は言葉を紡いでいるようだが、波の音にかき消されて聞こえない。だが弦楽器のごとき凛と澄んだ声ということだけは分かる。聞いているだけで癒されそうなのに、やはり言い知れぬ激情を秘めているようにも思えて、なにを言っているか分からないのに胸が締め付けられて苦しくなる。

 ティアマトはなにかを探しているのか、しきりに顔や目を動かしてポルトレガメを見下ろしている。イブたちはようやく我に返り、少しでもティアマトに近づこうと走った。

「シェダル、あれ!」イブは前方を指さした。そこには今にも出港しそうな一艘の漁船がある。こんな状況なのにどうしてと思ったのもつかの間、乗船している二つの人影に目を見開いた。「あそこにいるのオリフィニアじゃないの!」

「はっ……? な、なんで!」

 初めは半信半疑だったようだが、シェダルもオリフィニアだと気付いた途端に声を荒らげた。

 オリフィニアはイブたちが名前を呼んでも気付く様子はなく、突如現れた巨大な幻獣に呆然と目を瞠っているように見えるが、遠すぎていまいち分かりにくい。彼女と一緒にいるのは誰なのだろう。夜に紛れるかのような黒い衣服をまとっていることと、なにやら武器を携えているのは分かる。

「あいつがまさかオリフィニアを攫った奴じゃないの! セインとかいう!」

「〈機関〉……! でもなんで船に!」

「ティアマトの眼前に娘を連れていくためですよ」

 背後から声が聞こえたと思った直後、イブたちはそろって転倒した。足首を見ると蔦と思しき細いものがいくえにも絡みつき、次から次に地面を抉るように伸びてきたそれはイブたちの腕や首まで縛り上げていく。

 うつ伏せに倒れたシェダルと違い、イブは仰向けになっていたため声の主をしっかりと見ることが出来た。愉悦の微笑みを浮かべ、こちらに近づいてくる一人の若い男がいる。黒衣を縁どる紫のアザミの花の刺繍。

〈機関〉の男だ。

「あなた方が魔術師と、いつの間にかくっついていた幻獣ハンターですね?」

 男はイブの足元に立ち、年齢のうかがえない顔に笑みを浮かべたまま問いかけてきた。だがこちらの返答など最初から聞くつもりなど無いらしく、「困るんですよ」と話を続ける。

「セインさまは全ての人々を愛そうとしておられるのに、その邪魔をしようとしている自覚がおありですか?」

「はあ? なに言ってんの? ていうか、このワケの分かんない蔦はなんなの!?」

「魔術だよイブ!」

 シェダルはなんとか体勢を変えようとしているが、思っている以上に拘束は激しい。無暗に動けば動くほど締め付けられ、体に食い込んでいく。

「こんな芸当が出来るの魔術師以外にいない!」

「察していただけでなによりです。無駄な抵抗はご遠慮ください。あなた方への措置を判断なさるのはセインさまですので、私が殺してしまうわけにはいかないのです」

「さっきからセイン、セインって……! オリフィニアを攫ったのはあんたたちね! 卑怯な真似を……!」

「攫った? 保護したと仰っていただきたいですね」

「イブ、海が落ち着き始めてる。このままじゃ船が出てしまう!」

「そんなこと言ったって、蔦が取れなくて……くっ……!」

 腕を地面に縫い止められているせいで、ダガーを駆使して拘束から逃れることも出来ない。仮にダガーを使ったとて易々と切り裂けるわけでも無さそうだ。なにせ表面が異様なほど硬い。明らかに普通の植物ではなかった。イブはどうにか束縛から逃れようと身をよじったが、状況は一変しない。自由なのは口だけだ。

「部屋で寝ていたところに侵入していくのは、保護したとは言えないと思うけど!」

「部屋?」と男は目を瞬き、体の横に垂らしていた指を細かく動かした。瞬間、二人を締め上げる蔦が爆発的に増えた。すぐに縛りに来るのではなく、まるでタコの足のように動きながら体の横で揺れている。イブたちの反応を楽しんでいるかのようだ。

「娘は風が荒れ狂う町に一人でいるところをセインさまが見つけたのですよ」

「……なに?」

「これを保護でなくてなんといいます。それにあなた方はなにを勘違いしておられるのか知りませんが、心優しいセインさまは娘の親もとに帰そうとしているだけです」

「親もとに帰す? そっちこそ馬鹿を言うな」

 不意にシェダルが鼻で笑った。横目で彼の顔を見やると、見たことのない忌々しげな表情を浮かべているのが分かった。

「お前らはオリフィニアを利用してティアマトを壊すつもりなんだろう。最後には彼女だって殺すつもりだ」

「その証拠は?」

「幻獣と関わったという理由でオリフィニアの父親を殺したのはお前らだ。それ以外に必要か?」

 ばつん、と音が耳元で響いた。急な音に反射的に目を閉じて身を屈め、イブははっとした。体の拘束が解けている。どうしてと思う間もなく、かたわらのシェダルに「間に合うはずだから走って!」と促された。

 彼の拘束もきれいさっぱり消えている。魔術を使っていた男は愕然と目を見開いたまま硬直しており、奴の意思で術が解除されたわけでないことが分かる。となると、シェダルが自分たちの蔦を消したのか。

「すぐに僕も追いつくから、早く!」

「わ、分かった」

 絶叫にも似た声に背中を押され、イブは立ち上がって駆けた。男はイブを捕えようとしていたが、シェダルが例の光の膜で阻んでくれる。

 ティアマトが落ち着いたのか、海も徐々に穏やかになりつつある。急がなければ、シェダルが言っていた通り〈機関〉とオリフィニアは幻獣の元へ出港してしまう。

 ――娘は風が荒れ狂う町に一人でいるところをセインさまが見つけたのですよ。

「オリフィニア、あなた自分の意思で出ていったっていうの……?」

 どうして一人でなんか。イブたちになにも告げずに。いや、告げられない事情があったのか? シェダルが言っていたようにティアマトに呼ばれたのか?

〈機関〉に攫われたのは事実だが、その場所が予想外すぎた。イブの考えがまとまることはなかったが、今はそれに集中すべきではないと頭を振る。

「待ってて、オリフィニア……!」

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