第11話
お母さんに会えるのは一年に一度だけだよ、と父から聞いた時、オリフィニアはごく単純な「どうして?」という問いとともに首を傾げたのを覚えている。
「お母さんはあたしのことが嫌いなの?」
「そんなわけない。お母さんだって、叶うならばオリフィニアや俺と一緒に暮らしたいと思ってるさ。だけどな、その……お母さんは、俺たちと暮らすのは難しいんだ」
「なんで?」
「なんで……ううん……どう言えばいいか……」
父は言葉を選ぶようにしばらくうんうんと唸っていたが、最終的に「とりあえず」と吹っ切れたようにオリフィニアの頭を撫でた。言葉にするのは諦めたらしい。
「お母さんに会えるのは一年に一回だけ。それ以上は負担になってしまうから」
「ふたんってなに?」
「苦しい思いをさせてしまうってことだ。オリフィニアだって、お母さんにそんな思いさせたくないだろ?」
「うん。イヤだわ」
「じゃあ我慢できるな?」
「我慢していい子にしていたら、お母さんは褒めてくれるのかしら」
「もちろん。当たり前だろ」
やがて月日が巡り、また母に会える日になった。
とびっきりのおしゃれをして、父と一緒にポルトレガメという港町に向かう。母はいつも海辺の砂浜でオリフィニアたちを待っていて、こちらの姿を見つけると腕を広げて名前を呼んでくれた。
お久しぶりですね、元気にしていましたか? と問うてくる母の声音は子守唄に似て安らかで、鈴が鳴るようなコロコロとした響きがある。青白く透き通るような頬は、娘に再会した喜びかうっすらと赤く染まっていた。
町の色々なところを巡ったり、食事をしながら話している時間が、オリフィニアは大好きだった。母は時々苦しげに眉を寄せたり、泣きそうな顔で俯いたりしていたが、そのたびに父が背中をさすってやり、オリフィニアもそれを真似て母の負担を軽くしようと、小刻みに震える手を握って温めてやった。
ありがとうございます。優しくいい子に育っているのですね。そう言って母はオリフィニアを抱きしめて、母娘の抱擁を微笑ましげに見守っていた父も引き寄せて、二人を幸せそうに包み込んでくれた。
その思い出を探すように、オリフィニアは夜のポルトレガメを駆けていた。その双眸からは大粒の涙が次から次に溢れ出て、頬を伝って滑り落ちては石を敷き詰めた細い道に小さな染みを作っていく。
「お母さん、お母さん……!」
しゃくり上げながら呼んでも、大丈夫ですよと抱きしめて撫でてくれる腕はそばにない。
悲しい気持ちが止まらない。裸足で走っているせいで足の裏が痛んだが、気にしていられない。自分はどこに向かうべきかも分からないまま、オリフィニアは無我夢中ででたらめに走り続けた。
「イブさんが、お母さんを、そんな……!」
聞かなければ良かったと嗚咽を漏らし、オリフィニアは乱暴に涙をぬぐった。
イブが確認した通り、オリフィニアはちゃんと眠っていた。だが決して深い眠りではなかった。母と一緒にポルトレガメを探索する夢を見ていたが、それは中途半端なところで終わりを告げた。寝ぼけ眼で起き上がったオリフィニアが捉えたのは、隣の部屋から聞こえてくる話し声だった。
声の出どころはシェダルの宿泊部屋だ。よくよく聞いてみると声はイブのもので、そういえば同じ部屋にいたはずの彼女がいないことに気づいた。二人でなんの話をしているのかしら、と気になって、オリフィニアはそろそろと床に足をつけ、靴も履かずに廊下に出る。
扉をノックしようとした時、部屋から泣き声が聞こえて手を止めた。イブが泣いていた。
彼女が泣いているところなんて見たことがない。もしかしたらオリフィニアに見られたくなくてシェダルのところに行ったのだろうか、などと考えている間に、二人の会話は再開していた。
どうやらポルトレガメにいるという幻獣についての話をしているらしかった。オリフィニアは扉に耳をぴったりとつけ、いつなら入れるだろうかと思いながら話を聞いていた。
――ポルトレガメの人たちを助けたい。だからティアマトを狩りたい。でもそうすると、オリフィニアが独りになっちゃう。
イブさんも大変なのねと思っていた時、不意に自分の名前が出てきて驚いたような、嬉しいような不思議な心地が胸を満たす。より詳しく聞こうと耳を押し付けて、
――ただでさえ父親を亡くして、その傷も癒えていないあの子から、今度は母親まで奪うのは、正しいこと?
「……え?」
途中で立ち寄った観光地シンティで、ポルトレガメを困らせている幻獣はティアマトでないかと話していたのはオリフィニアも聞いている。
「今、イブさんは、なんて」
自分の思い違いでないのであれば。
幻獣ティアマトはオリフィニアの母親であるように聞こえて。
イブはそのティアマトを狩ろうとしている。
雷に打たれたような衝撃が頭から全身に駆け巡る。理解した途端、オリフィニアは着の身着のまま、靴も履かずに外に飛び出していた。まるで追いかけてくるように後方で竜巻が起こり、オリフィニアはそれからも逃げるようにして闇雲に当てもなく走った。
ティアマトがお母さんって、どういうこと。イブさんはティアマトを狩ろうとしていて。でもティアマトはお母さんで。イブさんがお母さんを殺そうとしていて。
どういうこと、と自問自答を何度も繰り返したが、答えは出ないし誰も答えてくれない。シェダルに助けを求めればよかったのかも知れないと思い至ったのは、宿までの帰り道がさっぱり分からなくなってからだった。
竜巻に襲われ、人々が叫びながら逃げ回る。もろい家はあっけなく吹き飛ばされ、無数の破片が宙を舞った。落下してきたそれが当たったりして、さらなる混乱があちこちで発生していた。
オリフィニアは己に神力があることも、それによって竜巻を起こしている自覚もない。だから止め方も分からないし、自分を追いかけてくる竜巻からは逃れられないけれど、発生させた本人は害をこうむらないことも知らない。いつか襲われるのではと恐怖にかられ、ひたすら逃げるしかなかった。
「シェダルさんのところに、戻らないと……」
休む間もなく走り続けたものだから、息は絶え絶えになって脚にも力が入らなくなってきた。シェダルのところにと呟いたものの、彼のそばには間違いなくイブがいるはずだ。彼女に会っていつも通りに話せるほど、オリフィニアは器用ではない。
だってイブは、
「おやお嬢さん、こんなところにお一人で、どうされたのです?」
住宅が立ち並ぶ横道に入ったところで、誰かがオリフィニアの行く手をふさいだ。言葉は丁寧だが、どこかこちらを見下すような響きを含んでいる。初めはぎょっとして困惑したが、ぼそぼそと素直に答えた。
「あ、あの……帰り道が、分からなくなってしまったの……」
「帰り道ですか。どちらへお帰りで?」
「……あたしは、どこに帰ればいいのかしら?」
ポルトレガメには母がいる。会う場所こそ砂浜だったが、そこから出掛けた先は土産物屋、料理店など様々で、特定の家であった記憶はない。父と暮らした家はここから遠く、今すぐに帰るのは困難だ。
シェダルのところに戻ろうにも、母を殺そうとしているであろうイブが近くにいるので帰りにくい。けれど同時に、二人はオリフィニアがいないと気付いたら心配するに違いないとも思えたし、先ほどの話は聞き間違えただけで、本当は全く別の話をしていたのではないかと、今さら気付いた。
オリフィニアはおずおずと目の前の誰かを見上げた。港町の人なら、宿までどう戻ればいいのか教えてくれるはずだと期待して。
背丈はシェダルと同じくらいで、それほど高くない。良くも悪くも、どこにでもいそうでこれといった特徴のない三十代くらいの男だ。しかし身に着けている衣服はなんとなく目にした記憶がある。
首元に覗くシャツは白いが、それ以外は上衣もパンツも靴も黒い。袖口や襟もとは紫で縁どられ、一定間隔でぽつぽつとある凹凸は花の模様にも見える。これと似た服を、この前どこかで見たような。
「お連れの方はいらっしゃらないのですか」
「おつれ? ってなにかしら……ええと、シェダルさんとイブさんのこと?」
「……二人……?」男は訝しげに首を傾げた。「魔術師の男が一人いるはずですが、もう一人は誰でしょう」
「まじゅつし……あ、それならきっとシェダルさんのことだわ!」
「ほう。男の方はシェダルというのですね。ではもう一人は?」
男はオリフィニアの目線に合わせて少し屈んでくれた。優しげな目つきで真摯に話を聞いてくれるものだから、オリフィニアの警戒心は次第に緩んでいく。
「イブさんは幻獣ハンターだって言ってたわ! 悪いことをした幻獣を、狩るんだって……」
そうだ。イブが狩るのは悪い幻獣だけだ。ということは、ティアマトは、母はなにか悪いことをしたのだろうか? そんなわけがない。だって母は優しいのだから、悪いことなんてしない。
「いつの間に幻獣ハンターが加わっていたのやら……」
「小娘の同行人が増えたところで、どうでもいいだろう」
後ろから別の声がした。野太く、猛々しい怒りを秘めた声だ。反射的に体が竦んでしまうほどの威圧感がある。
ぎこちなく振り返ると、壁と見紛うほど大柄な男が立っていた。影になっていて表情はうかがい知れないが、ナックラヴィーとは比べ物にならないほど、強者としての風格をまとっているように思える。
こんばんは、と挨拶をしようとしたオリフィニアだったが、それよりも早く大きな手のひらで顔をわしづかみにされた。むぐ、と呻くこちらに構う様子もなく、大柄な男は三日月のように歪めた唇からくつくつと笑い声を漏らす。
「なるほど。右はただの人間の瞳、左は人ならざる異形の瞳というわけか。髪の色も不気味極まりない。フェルモ、こいつを縛り上げろ」
「かしこまりました」
「ああ、あと叫ばれては面倒だからな。口も塞いでおけ」
「いっそ殺した方が楽ではありませんか?」
――殺す? 誰を。……あたしを?
「馬鹿を言え。今殺してどうする」
大柄な男は力加減など知らないのか、オリフィニアの顔を掴む手にみしみしと力を込める。あまりの痛さに、先ほどまで流していた涙とはまた違う涙が瞳から流れ出た。
「こいつは母親の前で殺すんだよ」
フェルモと呼ばれた男がオリフィニアを縛り上げたところで、ようやく力強い手から解放された。かと思うとすぐに布を口に噛まされ、ぐんっと脚が地面から離れた。
「さあ、この俺に存分に利用されるがいい。小娘」
大柄な男はオリフィニアの細いあごを指で押し上げ、無理やり視線を合わせてきた。
「『ティアマト計画』を始めようじゃないか」
――シェダルさん、イブさん、助けて。
助けを訴える声はただの呻きになり、誰にも聞き入れられることはなかった。
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