第10話

 オリフィニアが寝静まったのを注意深く確認してから、イブはそっと隣の部屋に移動した。物音を立てないように慎重に扉を閉めると、ベッドに腰かけていたシェダルが出迎える。すっかりくつろいでいたのか、襟付きの黄色いシャツと青いパンツに素足という、かなり楽そうな格好をしている。対するイブはいつなにが起こるか分からないし、すぐに討伐へ出向けるよう、防具も武器も身に着けた状態だ。

 オリフィニアが「素敵な部屋をとれた」と言っていた通り、窓からはどこまでも広がる大海原を望めるのだが、今はカーテンが閉めきられ、明かりはロウソクが一本だけという薄暗さである。

 イブはベッドのそばに丸椅子を移動させ、言葉少なに腰を下ろした。素朴だが脚の部分に魚や海藻のモチーフが彫られ、普段は休暇に訪れた多くの人々を楽しませているのだろうことがうかがえた。イブだっていつもと同じ気分なら「すごいなあ」くらい言ったかもしれないが、今は軽口を交わす余裕さえない。

「そんなに思いつめた顔しなくても。今にも死にそうだよ」

 頭に軽い感触が乗る。シェダルに頭を撫でられていた。不安を和らげようとするかのような優しい手つきで、触れられた場所から安心感が広がっていく。けれどシェダルに撫でられたのは初めてで、思わず固まってしまったのを、彼は不快に感じたと受け取ったらしい。

「あ、ごめん。いやだった? つい妹にするみたいに……」

「別にいやじゃない――妹がいるんだね」

「うん。ちょっとだけ年が離れてるから、時々両親の代わりに世話をしてた。子どもの頃は泣くたびにこうやって落ち着かせてたから、癖になったみたいで」

 オリフィニアのこともよく撫でると思っていたが、そういうわけだったのか。

 シェダルに流れる神力が作用でもしているのか、不思議と気分は落ち着いていった。しばらくされるがままで、「もう大丈夫?」と手が離れていった時にはなんとも言えない寂しさが胸に去来する。その理由が分からず、イブは眉を曇らせて胸をさすった。

「シェダルはずいぶん余裕そうだね」

「君が来るまで、ちょっとだけ寝てたから」

 くあ、と大きなあくびをしているところを見るに、まだ寝たりないのだろうか。余裕というより、精神が図太いのかも知れない。

 口や喉が渇いて仕方がない。イブは持参していた水入れを開け、適度に喉を湿らせた。

「オリフィニアはぐっすり寝てる?」

「あれだけご飯食べればね。お腹ってあんなに膨らむものなんだって思った」

「君が集会所に行ってる間、ポルトレガメに来るの久しぶりだわってはしゃいで走り回ってたから、その分お腹が空いてたんじゃないかな」

「泳ぎたいわって言った時、ちょっとびっくりしたんだ。お母さんがティアマトなんだから、一年に一回会うって決めた日は、てっきり海の中で会っていたのかと思ったのに」

「それだと普通の人間であるお父さんが溺れちゃうからなあ……で、話っていうのは、やっぱりティアマトに関することかな」

 イブがなかなか切り出さないので、シェダルが水を向けてくれた。

「……ティアマトのことで、聞きたいことと相談したいことがあって」

「いいよ、僕が答えられそうなことなら教える。難しそうなことは一緒に考えよう」

 ね、と微笑みかけられ、イブはこっくりうなずいた。難しそうなことは分からないと放り投げるのではなく、一緒に行くべき方向を探してくれるのだと知り、なんだか胸の奥がほっこりと温もりを帯びる。

「まずはシェダルの話を聞きたい」

「僕の?」

「あなたはオリフィニアを、ティアマトのところに帰してあげたいって思ってる?」

「うーん……出来ればそれが一番いいなあって考えてるよ。ただ、何回も言ってる通りティアマトは『海そのもの』だ。一日のほとんどの時間を海中で過ごしてるはずだけど、オリフィニアはその血が流れてるとはいえ人間だから、ティアマトと同じように四六時中ずっと海中にいるわけにいかないと思う」

 けれど「泳いだことがない」と言っていたから、実際に海に入った時に変化が起こるのか、起きないのか、オリフィニアも知らないのだろう。

「とりあえず一度会わせるべきだなあって。そこから先はティアマトやオリフィニアと話して決められたらと思う。ティアマトと海で暮らすか、それが難しそうならエアスト家で保護して、今まで通り一年に一回会うのでもいいし」

 シェダルの中で、ティアマトは話し合いを出来る部類に入るようだ。人との間に子を儲けているのだから、話し合いが出来ないとは考えにくい。最低限の意思疎通が出来なければそこに至らないはずだ。

「でもさ、重要なこと忘れてない?」とイブが指摘すると、シェダルはなにかあったっけと言いたげに首を傾げた。「オリフィニアは母親がティアマトだって知らないんでしょ? いつ教えるつもりなの?」

「……ああ、それもそうだ……」

「いくら能天気なあの子でも、片親が幻獣だって聞いたらそれなりに衝撃を受けると思うよ。しかも超危険な幻獣だなんて、衝撃を受けるどころか受けすぎて気絶してもおかしくないと思う」

「いや、さすがにオリフィニアも気絶はしないと思うけど」

 なんにせよ伝えなければいけないが、時機と彼女の様子を見極めるのが重要になる。その上で伝える本人イブ たちも冷静さを保たなければ、こちらが焦ればオリフィニアの動揺を招く可能性がある。

「じゃあ次だ。相談したいことっていうのは、なに?」

「分からなくなってきたんだ」

 イブはカーテンの向こうに広がっているであろう大海原を見やった。

「今まで幻獣に、家族がいるなんて考えたことなかったの」

「群れを作ったりして疑似家族を形成する種類もいるけど、幻獣は基本的に子孫を残さないし、イブがそう考えるのも仕方ないことだと思うよ」

「だけど私が狩ろうとしてる幻獣には……ティアマトには、確実に血のつながった家族が……オリフィニアがいる……」

 分からない、とイブはもう一度呟き、がしがしと頭をかいた。

「私がこれからやろうとしてることは、正しいことなのかな」

「…………」

 シェダルはなにも言わず、イブが話すに任せてくれている。

「今まで迷ったことなんてなかった。無害な幻獣と、人にとって危険でしかない幻獣の二種類がいて、私は依頼を受けて後者を狩ってきた。だって、それが正しいことだと思ってたから。幻獣に苦しめられている人たちを助けるのが、私の仕事だと信じてた。ううん、今でも信じてる。だけど……」

 優秀なハンターだった父の背中を思い出し、イブは唇をかみしめて三日月のネックレスに触れた。

 いつか父の背中に追いついて、さらに追い越してやろうと思っていた。そのためには経験と実績を積むのが一番の近道で、次から次に依頼を受けては幻獣を狩ってきた。十体や二十体ではない。大型や中型なら少なくとも百体、小型にいたっては数えきれないほどの〈核〉を破壊してきた。

 いったい、そのなかの何体が。

 例え疑似的なものであっても、家族を築いていたのだろうか。

 膝の上で痛いほどに拳を握りしめる。ふとそこに温かな指が触れた。顔を上げると、間近にシェダルの群青色の瞳があった。深い青色の中に金の星が散ったような魅力的な瞳に思わずどきりとした直後、強く、それでいて穏やかな感触に上半身が包まれた。

 抱きしめられていた。

 母や仲間たちと抱擁を交わしたことはあるし、別に初めてのことではない。なのに妙な緊張で全身がうずうずする。先ほど頭を撫でられた時と似た感覚だ。

「あ、あの、シェダル」

「我慢しなくていい」

「なにが…………」

「泣いてたから」とシェダルの声が耳元をかすめ、後頭部を優しく撫でられる。

 言われて初めて、頬が涙で濡れていると気付いた。次々に溢れたそれは、シェダルの肩を静かに染めていく。

「堪えるのは体にも精神にもよくない。好きなだけ泣くといい。誰も責めないよ」

「で、でも、あなたの服が……」

「気にしなくていいってば」

 他人の前で泣くなんて、と初めこそちょっとした抵抗があったが、彼の声と手つきがあまりにも優しくて、イブはシェダルの背に腕を回して「ちょっとだけ」と胸に顔を押しつけた。薄っぺらい胸板の奥から、とくとくと規則正しい鼓動が聞こえてくる。

 堪えるつもりだったのに、強く引き結んだ唇から少しずつ声が漏れてしまう。情けない泣き声を聞いてほしくなくて、より強く胸に顔を埋めた。彼は拒絶せず、なにも言わずに頭や背中を撫で続けている。

「人に害を与えてるんだから、狩られて当然、私も狩って当然だと疑ってなかった」

 嗚咽に声を詰まらせながら、イブは言葉を絞り出した。

「だけど人がそうであるように、幻獣だって仲間が消えたら、悲しんだりしたはず……」

「そうだね。幻獣の中でも、最盛期に作られた個体のほとんどには、知能と知識の向上を理由に人間が材料に使われてる。そういう個体だったら、今イブが言ったような感情を持ち合わせている場合が多い。例え動物型であろうと、植物型であろうとね」

 団の仲間の中には、討伐した幻獣と同じ種類の別の個体から復讐のようなものを受け、命を落とした者もいる。あれはきっと、復讐のようなものではなく、復讐そのものだったのだろう。

 親しい者の奪い去ったものへの、怒りと悲しみに満ちた報復だったのだ。

「私の父は、私と同じ幻獣ハンターだった。だけど幻獣に食べられて死んだ」

 シェダルの手が一瞬だけ止まった。

「その時は悲しかったし、憎みもした。絶対狩ってやるって思った」

「そこで〈機関〉には行かなかったんだね」

「私が憎かったのはあくまでも父を殺した幻獣だけ。……もしもティアマトを狩ったら、オリフィニアが私と同じように思わないわけ、ないよね?」

「……それは」

「あの子に『あなたの母親はティアマトだよ』って言わずにいれば良いのかもしれない。でもオリフィニアは二度と会えない母親を想わないわけがないし、仮に私とはここで別れてもう会わないとしても、あの子の保護者は多分、シェダルのエアスト家になるでしょ?」

「うん。神力の暴走も考えうる状態で、どこかの孤児院だとかに預けるわけにはいかないから」

「その場合シェダルがあの子に寄りそうと仮定して、あなたはあの子に隠し通せる自信ある?」

 君の母親はティアマトだ。でも今はいないんだよ。昔ちょっとだけ一緒にいたイブって人を覚えてるかな。あの人が君の母親を殺したんだ、なんて。

 シェダルは考え込む間もなく「無理かな」と答えた。

「一、二回なら誤魔化せるかも知れないけど、それ以上は難しい。成長すればオリフィニアだってなにかおかしいって気付くはずだよ」

「私は……どうすればいいんだろう」

 集会所では依頼を出してくれたポルトレガメの人々と会い、言葉を交わした。誰もがもとの平穏な生活を望み、幻獣が討伐されるのを願っていた。以前のイブなら発破をかけられて、絶対にやり遂げてみせると意気込むところだ。けれど今は、そんな気持ちも揺らぎに揺らいで、自分の足元さえ覚束ない。

 幻獣ハンターとしての生きざますら、風に煽られて儚く揺れる灯火のように不安定になって。挙句の果てに自信すら失いかけている。

「ポルトレガメの人たちを助けたい。だからティアマトを狩りたい。でもそうすると、オリフィニアが独りになっちゃう。ただでさえ父親を亡くして、その傷も癒えていないあの子から、今度は母親まで奪うのは、正しいこと?」

「……板挟みになって、苦しいんだね」

 イブは無言でうなずいた。

 考え始めてからずっと、鎖で縛りつけられているように思考の身動きが取れず、肺を握りしめられているかの如く呼吸も苦しい。どちらかを立てればどちらかを蔑ろにするしかなく、打開策を考えようとしても堂々巡りばかりで進むべき道筋は闇に閉ざされたまま見えてこない。

「あのね、イブ」

 シェダルの腕がするりとイブを解放した。頬を指でなぞると、涙はもう止まっている。先ほどまで自分を閉じ込めていた温もりは無くなったが、充足感のようなものが全身を温めていた。

「君は大事なことを忘れてるよ」

 シェダルの手がイブの肩に触れ、腕、手の甲と順に伝っていく。イブが目で追っていると、彼は指先を手のひらで包み込んでひざまずいた。己の思考でがんじがらめにされたイブの心を柔らかくほどいていくような、陽だまりのような微笑みを浮かべて。

「話し合いっていう手段が抜け落ちてるんだ」

「あ……」

 不意に一筋の光が差し込んだかのように思えた。

 そうだ。感じたばかりではないか。

 シェダルはティアマトと話し合う気でいるのだと。

「君は今、狩るか狩らないかの二択で悩んでるんだよね? そこに『話し合い』っていうのを加えてほしいな。ティアマトが暴れてる理由だってまだ分からないんだ。もしかしたらオリフィニアに会いたくて叫んでいるのかも知れない」

「そうなの?」

「あくまでも僕の予想だよ。ただ不思議なのは、今まで一年に一回オリフィニアに会うと決めていたのに急に暴れるかな? ってところなんだけど、全ては明日、ティアマトと話してからだ」

「明日……明日ティアマトに会いに行くの?」

「うん」

 君も一緒に、とシェダルが指先を軽く握ってくる。イブはしばらく自分よりも大きな手を見つめたあと、強く握り返した。

「決めた。狩るか、狩らないか」

 イブの瞳に、もう迷いの色はない。

「話し合ってみて、問題なさそうなら狩らない。その時はちゃんと依頼をくれた人たちに事情を説明して、納得してもらう。時間がかかっても、必ず。もし問題があると判断した場合は、狩る。人々の生活を守るためにも」

「オリフィニアには、どう説明するつもり?」

「……嘘偽りなく、正直に話すよ。あなたを頼らず、きちんと自分の口で話す。あなたの母親はティアマトで、それを殺したのは、他の誰でもない私だって」

「出来れば母親の正体を話すあたりは口を出させてほしいし、出すと思うけど」

「そこだけじゃなくて、私の説明だと不十分だと感じた時には口出しして。お願い」

「分かった」

 シェダルは立ち上がると、またイブの頭を撫でた。最初とは違う、励ますような撫で方だった。

「……さっきはごめん。無様なとこ見せて」

「無様なんて思ってないよ。あと、謝るよりお礼の方がいいな」

「――ありがとう。泣かせてくれて」

「どういたしまして」

 シェダルの胸元を見ると、イブが泣いた形跡がありありと残っていた。汚してしまった申し訳なさと、人前で涙を流した恥ずかしさに頬が赤くなる。

「もう気分は大丈夫?」

「あ、うん。なんでかな、シェダルに撫でられたり、だ――抱きしめられると、少し安心する。これも神力の影響なの?」

「いや、そんなことはないと思」

 思うけど、と言いかけたシェダルの言葉が不自然に途切れた。

 激しい風の音と、人々の悲鳴が外から聞こえてきたからだ。

 なにごとかと二人は窓を開けた。その瞬間、なにかに掴まっていなければ立っていられないほどの強風が室内に入り込んで渦巻いた。あまりの勢いに窓ガラスが音を立てて砕け散る。二人はなんとか無傷でそれをやり過ごし、そろって身を乗り出した。

 曇り空で月明りのない深夜であることと、部屋が海に面しているためにはっきりとは分からないが、落雷に似た轟音と暴風がポルトレガメを襲っている。ティアマトが現れたのかと思ったが、幻獣が現れるたびに聞こえてくるという泣き声は今のところ聞こえていないし、海面にも荒れた様子はない。

「まさか……!」

 先に部屋を飛び出したのはシェダルだった。イブも慌てて後を追うと、彼は隣の部屋に突入していった。

 オリフィニアが眠っているんだから静かに、と言いかけて、イブは言葉をのみこんだ。

 ベッドにいたはずのオリフィニアの姿が、どこにもなかった。

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