第9話
「…………もう分からなくなってきた」
集会所からの帰り道、イブは坂の途中で立ち止まって海を眺めていた。
ポルトレガメはもともと寂れた漁村だったが、たまたま訪れた貴族に景観を称賛されて栄えた町だと、先ほど依頼人たちから説明を受けた。山のあちこちには小さな展望台が設けられ、イブが立ち止まっているここもその一つだ。確かに素晴らしい眺めだが、普段は日光をきらきらと反射させているであろう波間は、今は曇天を映して気味が悪いくらい静まり返っている。
夜になればどこからともなく女の泣き声が響き、なんの前触れもなく海は荒れて、いつ収まるか分からないそれを住人たちは怖々とやり過ごしている。このままでは生活が危うい、一刻も早くなんとかしてくれと切実に訴えられたが、イブはいつものように胸を張り、任せてくれと言えないまま集会所を後にした。
「シェダルがあんなこと言うから……」
団を出てくるときは威勢よく燃えていたやる気の炎が、どんどん鎮まっていくのが分かる。絶対に狩るという決意も乱れに乱れ、余計な考えごとがイブのこれからとるべき行動を迷わせた。
「こんなところにいたのね、イブさん!」下から聞こえてきた声にはっと我に返ると、展望台の真下の道でオリフィニアが手を振っていた。「とっても素敵なお部屋をとれたのよ! 早く見てほしくて迎えに来ちゃったわ!」
彼女の後ろには保護者ともいえるシェダルがきっちり付き添っている。きっとイブの邪魔をしてはいけないと何度も言い聞かせ、結局叶わずにあちこち歩き回ったのだろう。疲労をまったく感じていそうもないオリフィニアと違って、肩を忙しなく上下させていた。
「あのねイブさん、あたしそろそろお腹が空いてきたの。一緒に戻ってご飯を食べましょう! すごく美味しそうなお店もいくつか見つけたのよ。どこがいいかみんなで決めるのも楽しいと思うわ!」
「ちょっと待って。すぐに行くから」
急いで坂道を下ってオリフィニアたちに合流すると、彼女の方からイブの手を握ってきた。にっこりと無邪気な笑顔を浮かべるオリフィニアに、イブはあやふやでぎこちない笑みで応えることしか出来ない。
もしも当初の予定通りティアマトを狩ったなら。間違いなくオリフィニアの笑顔は消えるだろうし、それどころかイブは一生恨まれるだろう。では狩らずに放置すればどうなるか。ポルトレガメの住人たちの反感を買うのは避けられず、ハンターの信用は地に落ちる。
どちらも傷つかずに済む方法なんて、そんな都合のいい話があるわけがない。ティアマトは人々の生活を脅かす存在なのだ。イブが選べる道は決まっているようなものだ。
――いや、でも。
そもそもティアマトは、なぜ急に荒れ始めたのだろう。今までずっと大人しくしていたのに、ここ最近になって突然凶暴化するなんてことがあるのか。
オリフィニアの右手はイブに、左手はシェダルにそれぞれ繋がれている。イブはうきうきと歩く少女を見遣ってから、物憂げに海を見つめている彼に声をかけた。
「シェダル、今日の夜にちょっと話したいことがあるんだけど、いいかな」
「大丈夫だけど……なんの話?」
「詳しいことはまたその時に言う」
シェダルは訝しげに眉を寄せたが、分かったと小さくうなずいた。オリフィニアには聞かせられない話だと察してくれたようだ。
いつもと同じように一人で依頼をこなす状況であれば、いつまでも決めきれずに不安定な気持ちのまま討伐に挑むことになっていたかも知れない。
だが今回は専門家である魔術師の男がそばにいる。
思考を放棄し、諦めるにはまだ早い。イブは首元で揺れる三日月のネックレスにそっと触れ、己の胸に灯る炎の輝きが再燃し始めるのを自覚し、力強い眼差しで海を眺めた。
港町ポルトレガメはセインの生まれ故郷である。物心つく前に別の地へ移ってしまったため幼少期の記憶が残っているかと言われれば怪しいが、「誰もがお隣さん」ともいえるほど距離が近い住人たちの関係性や自然豊かな風景を目にすると、なんとなく懐かしさを覚える。
かつて家族で暮らした家がどれだったのかすら覚えていないけれど、きっと今は別の家族が暮らしていることだろう。男が漁の成果を報告し、女子供がそれを聞いて今度は町での様子を伝える。ごく普通の家庭の光景だ。
「だが幻獣が現れ、その普通の光景が今は失われている。誰もがうつむき嘆き、助けを求めて喘いでいる。なんとも哀れで愛おしみがいがあると思わないか」
「さすがセインさま。なんと慈悲深いお方なのでしょう」
海だけでなく町全体を見渡せる一等地の宿の一室で、セインは優雅に紅茶を楽しんでいた。普段の港町なら一等地の宿などそう簡単にとれるものではないが、幻獣出現と町の被害を聞いた宿泊者が予定を取りやめたらしく、セインは見事にこの部屋を獲得できた。
だだっ広い部屋と、大柄なセインが寝転んでもなお余裕があるベッドなど、調度品の細部に至るまでがまさに理想だ。日頃は仕事に追われている分、標的が現れるまでの束の間くらいはゆっくりしても文句は言われまい。
高級感のある安楽椅子に腰かけるセインと反対に、秘書のフェルモはなにを考えているのか分からない微笑みを浮かべ、窓のそばで起立しながらしきりに外の様子をうかがっていた。宿に入ったのは昨夜だが、彼が眠っていた様子はないし食事もとっていなかった。
セインは彼に構うことなく、部屋に運ばせてあった食事に手を伸ばした。さっぱりとした味わいのいわしの酢漬けや、ピリッと香辛料を効かせたズッキーニの魚肉詰め、まろやかなクリームがくせになる帆立のパスタなど、どれも絶品というわけではないが家庭的で安心感のある味だ。
「しかし幻獣の母と人間の父を持つ娘、か。まったく、世の中には俺の知り得ない興味深い出来事が溢れているな」
「私もそのような事例は初めて聞きました。セインさまはどのようにその情報を入手したのですか?」
「部下の一人から聞いた」セインはパスタを口に運びつつ、ナックラヴィーに踏みつぶされた部下の一人の顔を思い出そうとし、結局面倒になってやめた。「幻獣討伐の帰りに気味の悪い奴らがいると噂を耳にして調べたそうだ」
無邪気すぎる少女と、それを愛し共に暮らす奇妙な男。二人は川沿いの集落から少し離れた場所で暮らしていたが、たまにそこで突発的に竜巻が起きているのを人々が目撃し、男は魔術師で、少女は男に作られた幻獣ではないかと噂が広がっていたという。
部下は一週間にわたる調査を重ね、二人がいない隙を見計らって家にも侵入した。室内を物色する中で男の日記を確認し、そこに「幻獣ティアマトとの間に育まれた命」についての記述を見つけた。
「その話と、周辺住人からの噂も併せて考えるに、男は『幻獣との間に子どもは出来るのか』を研究し、実際に成功、その成果である子どもをティアマトから奪った狂科学者ではないか、と俺は推測した」
「なるほど。セインさまは、男はティアマトから奪取した子どもの成長過程も研究していたのではないかと、そこまで考えておられるのですね」
正直に言えば考えていなかった。そう言おうものなら彼からの視線は限りなく冷たいものになる。セインは大仰に胸を張って鼻を鳴らしておいた。
部下から話を聞き、セインはすぐさま行動に移した。両親を幻獣に殺されたセインにとって、この世に存在する全ての幻獣は復讐対象であり討伐対象だ。たとえ人間の血を引いていようが関係ない。まずは部下たちを男のもとに遣わせ、自分の前に連れてくるよう命じた。
だが男は応じなかったし、そのことくらい予想していた。
幻獣に携わる者なら〈機関〉くらい知っているだろう。男もその一人であり、娘を討伐しに来たのだと気付かないはずがない。部下たちはすげなく追い返され、セインは次の手に出た。
段階を踏むのも煩わしい。抵抗しようがしなかろうが、男を殺し、娘だけでも連れてくるよう部下たちに命じた。部下たちの中には「ただの人間を殺すのは〈機関〉やセインさまの理念に反するのでは」と異を唱える者もいたが、幻獣と関わりを持った時点でただの人間でも討伐対象になると説いた。それに狂科学者など、生かしておけば他の愛おしむべき人間の害になりかねない。
「俺が直接出向ければ良かったのだがな」
「しかしセインさまには他のお仕事が」
「だろう? だからあいつらに任せたわけだ」
部下たちの多くは〈機関〉に入ったばかりの「
「だがまさか、男が娘を逃がしていたとは。男を殺せても娘を捕まえられないのでは意味がない。そこから先はお前も知っているだろう」
「ええ存じています。家に戻ってきた娘を捕えようとしたものの逃げられ、挙句の果てに魔術師に獲物を奪われ、すごすごとセインさまの元に戻ってきた。お間違いないでしょうか?」
「一言一句なにもかも合っている」
帰還した部下たちは一様にセインの制裁に怯えていたが、優しいセインは彼らに機会を与えた。海の性質を持つ幻獣に娘を探させ、見つけて捕えてこいと。それも失敗し、彼らは揃いも揃って命を落としたわけだが。
「おや」と不意にフェルモが声を弾ませた。「お喜びくださいセインさま。標的が港町に入ったようです」
「なにをずっと見ているのかと思ったが、小娘たちが現れるのを眺めていたのか。ずいぶんと目がいいんだな」
「神力で視力を補強することくらい造作もありません」
セインは安楽椅子に別れを告げ、壁に立てかけてあった三叉槍を肩に担いだ。
標的はポルトレガメを恐怖に陥れている幻獣ティアマトと、その血を引く小娘だ。人間相手であれば慈悲のかたまりともいえるセインだが、幻獣相手にはとことん冷酷非道になる。セインは唇に凶悪な笑みを乗せ、この町のどこかにいる小娘を想った。
「俺が思うに、ティアマトは娘を奪われて暴れているのだろう。夜な夜な聞こえるという女の泣き声は、娘を返せと怒るティアマトの叫びに違いないはずだ」
娘の方は無邪気すぎると聞いているし、きっと母親と無理やり引き離されたとも思っていないに違いない。
「どういう形であれ――再会させてやるべきだと思わないか?」
セインの言葉に、秘書はまったくその通りですと微笑み、まるで神を目の当たりにしたかのような恍惚とした眼差しでセインを見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます