第8話

 青々とした山の緑と、その中や麓に立ち並ぶ家と店舗の外壁のあんず色、屋根の灰色、凪いだ海面は半透明の紺碧色、波にゆったりと揺られる小さな漁船の白色。イブはそれらに順番に目を向け、次いで隣で目をきらきらと輝かせているオリフィニアに移した。今にも走り出していきそうだが、シェダルがさり気なく肩を掴んでいるのでその心配はない。

 馬車が出ていないせいか、観光客と思しき人の姿はあまり見られない。海が平穏な今のうちに少しでも漁をと焦ったり、閑古鳥が鳴く店舗の中で机に寄りかかっていたり、物憂げに海を眺めているのはいずれも地元民だろう。活気のある町だと耳にしていたが、今はそれどころではないようだ。

 港町ポルトレガメ。徒歩で辿り着いたそこは噂ほど荒れていないように見えた。

「ねえねえシェダルさん、イブさん! 泳いだことってある? あたしはないの、だから泳いでみたいわ! とっても気持ちよさそうだもの!」

「うーん、気持ちは分からないでもないけど、海に入ったら何が起こるか分からないからなあ……でもオリフィニアが来たって分かれば多少は……うーん……よし、今は止めておこう! 漁師さんたちの邪魔になっちゃうからね!」

 シェダルが諭すように肩を叩いても、オリフィニアは頬をむうと膨らませて不満げにそっぽを向いた。

 わがままな妹とそれに振り回されるちょっと弱気な兄のようだ、と思いながら二人のやり取りを見るともなしに眺め、イブは小さくため息をついた。オリフィニアを見ていると胸にもやもやとしたものが生まれて消えてくれない。

 このまま突っ立っていても先に進まない。まずは依頼を出した人たちのところに出向かなければ。気分を切り替え、頭を軽く振った。

「悪いんだけど、私はちょっと行くところがあるから。空いてる宿とかとっておいてくれると助かるな」

「分かった。いってらっしゃい。適当に安いところでいいかな?」

「よく眠れるベッドがあればどこでもいいよ。お願い」

「じゃあ、あたしイブさんと一緒に行くわ!」手を振って別れようとする寸前で、オリフィニアがイブの腰にしがみついてきた。「だってそっちの方が楽しそうだもの!」

 だめかしらとこちらをうかがう、左右で色の違う丸い瞳に悪気は一切感じられない。

 全ての光を飲み込んでしまいそうな右の黒い瞳と、アメジストに似た輝かしい左のすみれ色の瞳。不思議な色だと思っていたが、まさか幻獣ゆえだったとは。

 ――ああ、いや、違う。「半幻獣」なんだっけ。

 イブはオリフィニアの腕をそっと腰からはがし、目線の高さまでしゃがみ込んで眉を下げた。

「ごめんね、大事な話をしに行かなきゃいけないから連れていけない。その代わり待っててくれたら、あとで一緒にどこにでも連れて行ってあげるから」

「本当?」しょんぼりとしていたオリフィニアだが、最後の提案にぱっと顔を上げた。「どこでもいいの?」

「オリフィニアが行きたいところなら」

「分かった!」

 横を通りかかった主婦と思しき二人組が、不思議なものを見るような目つきでイブたちをちらりと眺めていった。連日の客足減少と活気の低下、荒れる海と心配が尽きないのか、彼女たちの表情は疲弊しきっていた。だが陽気のかたまりのようなオリフィニアに多少元気づけられたようで、かすかに笑い声が聞こえてきた。

 確かにオリフィニアと話していると、知らず知らずのうちに顔が綻んでいる。本人が無意識で周囲に振りまいている明るさを、イブも受け取っているからだろう。少々わがままなのが玉にきず だが。

 二人と別れ、イブは近くの軒先で暇を持て余していた住人に町の集会所はどこにあるのか訊ねた。イブがハンターだと分かると住人は淀んでいた目に希望の光を灯し、ご丁寧に地図まで書いて集会所の場所を教えてくれた。

「ハンターが来たってことは、ようやく幻獣が狩られるってことだ。いやあ安心、安心」

「……そう、ですね」

 曖昧に返事をしながら別れ、地図を頼りに集会所を目指す。町の大部分を山が占めているため、平坦な道は波打ち際以外ほとんどなく、緩やかとはいえ傾斜が多い。イブは坂道を上りつつ、昨日の夜にシェダルから聞いたことを思い出していた。




「幻獣ティアマトが母親って、どういうこと?」

 オリフィニアが眠るのを待ち、イブは声を最小限に抑えて問いかけた。初めシェダルは誤魔化そうとしていたが、呟くのを聞いていたと詰め寄ったら大人しく降参した。

「そのままの意味だよ。オリフィニアの母親は幻獣ティアマトだ。先に言っておくけど、父親はごく普通の人間だよ。魔術師でもない、元漁師の普通の人間だった。だからオリフィニアは幻獣でも人間でもない、半幻獣ってところかな」

「幻獣と人間のあいだに子どもが出来るなんて聞いたことない!」

 そもそも幻獣同士でも子孫を残すことが稀なのだ。人間だの動物だのを混ぜ合わせて作られたため、生殖機能が不完全あるいは備わっていない場合が多い。幻獣生成がまだ違法でなかった頃、繁殖させるより魔術師たちが一から作った方が早かったためとも言われている。

 運よく子どもが生まれたとしても、名もなき異形の幻獣が出来上がるか、〈核〉が脆くてすぐに壊れる、またはそもそも〈核〉が無く母体から離れた時点で壊れている場合がほとんどだ。

「ティアマトはもともと多くの神々を生み出した存在だったから、幻獣にもそれが反映されて生殖機能があったんだと思う」

「オリフィニアは知ってるの? 母親が幻獣だってこと。それに父親が元漁師だったって、どうしてそんなこと知ってるの。まさか知り合いなの?」

「ちょ、ちょっと待って。そんなに一気に答えられないよ!」

 ついでに声が大きいとたしなめられ、イブは後ろで寝ているオリフィニアが起きていないか確認に振り返り、ほっと胸を撫で下ろした。時々たき火の薪が弾ける音に反応して身をよじっているが、こちらの会話に気付いた様子はない。

「まず母親が幻獣だってことを知ってるか、だよね。〝知らない〟んだ。だから自分が半幻獣だってことも当然知らない」

「なんで……」

「僕の推測でしかないけど、半幻獣なんて生い立ち、かなり複雑だからね。ある程度大きくなってから教えるつもりだったんじゃないかな。それからオリフィニアの父親と知り合いかどうか、だよね。僕は直接の面識はないけど、僕の父親が知り合いというか……」

 オリフィニアの父は名をオネストといい、何度かエアスト家を訪問していたそうだ。

 その理由を知ったのは、シェダルがオリフィニアを迎えに行けと言われた後だった。

「迎えに行け? 人身売買されそうになってたところをたまたま助けたわけじゃないってこと?」

「こんなに深くまで話すつもりなかったから嘘ついたんだよ。それはごめん」

 だって君が〈機関〉だって可能性も捨てきれなかったから、とシェダルは首を垂れた。彼なりにイブの素性を計っていたようだ。あっさり信用してしまうよりはいいだろう。今こうして話してくれているのは、ある程度イブの人となりや〈機関〉ではないと理解したからと思われる。

「オリフィニアは半幻獣ってことを知らないし、自分が神力を使えることも知らない。だから無意識のうちに力を暴走させてしまうことがあるんだけど、ただの人間であるオネスト氏に神力の制御なんて教えられるわけがない。だから一度エアスト家で保護してもらえないだろうかって頼みに来てたんだ」

「力を暴走……」

「イブも一回見てると思うよ」

 思い当たる節が無く、イブはしばらく唸りながら考え込んで「あっ」と声を上げた。

「ナックラヴィーに襲われた時のあれ? 急に嵐が起きたやつ」

「そう。あれはオリフィニアが咄嗟に身を守ろうとして神力が働いたから起きたんだよ。気絶してたから僕は見てないけど……ちゃんと見てたら記録したんだけどな……」

 ともかく保護する前に顔を合わせておくべきという父の判断で、シェダルは単身、オネスト氏とオリフィニアの家に向かった。だがなぜかオネスト氏は死んでいてオリフィニアはどこにもおらず、捜し回った末に連れ去られかけている彼女を見つけて保護したと、彼は一息に語った。

 オネスト氏の遺体はシェダルがエアスト家に連絡を入れ、すでに埋葬は済んでいるという。

「ナックラヴィーで思い出したけど、あいつらがどこから現れたのかって話してた時、なにか言いかけて結局あやふやになったよね。なにを言おうとしてたの? あれもオリフィニアに関係してたりしないの?」

 単体で現れたそれも、群れていた奴らも、どれもオリフィニアやシェダルを狙っているように思えた。シェダルは「少し不確定な考えもあるんだけど」と前置いてから話してくれた。

「制服の意匠から考えて、オリフィニアを連れ去ろうとしていたのは〈機関〉で間違いないと思う。だから僕たちを探すために、彼らはナックラヴィーを放ったんじゃないかなと考えてる」

「? でもそれっておかしくない? 〈機関〉は幻獣とか魔術師をこの世から消し去るのを目的にしてる組織じゃない。そんな人たちがナックラヴィーなんて幻獣を使うと思う?」

「……正直、僕もその点は気になってる。でもそう考えないと、ナックラヴィーが僕たちを執拗に狙ってた理由が分からないのも確かだよ」

 シェダルの説明に、イブは返す言葉もなく黙り込んだ。しかしやはり違和感も拭えない。幻獣ならば無害だろうがなんだろうが壊して回るのが〈機関〉だ。そんな彼らが暴力のかたまりともいえるナックラヴィーを作るとは思えない。

 それにしても〈機関〉の目的がさっぱり分からない。どこからかオリフィニアが半幻獣であることを嗅ぎつけ、殺しに来た可能性が今のところ一番高い。そのわりに〈機関〉の人間をここまで誰一人見かけなかったのも気になる。

「〈機関〉はあなたたちの居場所を特定できていないってこと……?」

「オリフィニアを連れて逃げた直後は神力を使ってかく乱したからね。でも効果があるのは普通の人間に対してだけだから、幻獣とか僕と同じような魔術師相手だと効果が薄い。だからナックラヴィーを放ったんじゃないかなって考えたんだよ」

 オリフィニアは自身が狙われていることや、母が幻獣だなどと夢にも思っていないはずだ。でなければナックラヴィーに追われて楽しいと言えるはずもない。

 いや、むしろ「海そのもの」ともいえるティアマトの血が流れているからこそ、凶暴な幻獣を前にしても怯まないのだろうか。なんにせよ人ならざるものの性質を受け継ぐゆえ、常人と感性が異なるのは確かだろう。

「とりあえずイブ、僕は君に聞かなきゃいけないことがある」

 姿勢を正し、シェダルに真っ向から見据えられる。いつになく真面目で改まった口調に、イブの背筋は自然と伸びた。

「君が狩ろうとしている超大型幻獣ティアマトには娘が――家族がいる。なにを理由に暴れているのか僕もまだ分からないけど、でも、問答無用で狩っていい存在じゃないのは確かだよ」

「…………」

「なにより、オリフィニアから親を奪うことになる」

 それでも君はティアマトを狩ると言うのかい?

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