第7話
当初の予定よりも野宿が多くなり、馬車を使うことも無かったため懐に多少の余裕はある。でもなあ、とイブは金を入れた革袋を覗き込み、次いで美味そうなにおいを漂わせる目の前の肉をじっと見つめた。
串に刺して秘伝のソースに浸し、じっくり丁寧に焼き上げた羊肉。一本一ロチャ。イブが道中での小遣い稼ぎにと引き受けた依頼の報酬とだいたい同額だ。ちなみに今朝まで泊まっていた格安の宿の代金は一レツィなので羊肉はその十倍の値段である。
「さすが観光地シンティ……物価が違う……」
「僕が買おうか?」
見かねたシェダルの提案にイブの表情が一瞬晴れやかになったが、すぐに元の思案顔に戻った。迷った末にイブは丁重に断り、自分の革袋もパンツのポケットにしまい込んだ。無駄遣いはしない主義だと何度も自分に言い聞かせ、すでに羊肉を頬張っているオリフィニアから視線をそらした。
観光地シンティ。この近辺に限っていえば港町ポルトレガメに次いで二番目に大きな町だ。町の南には光の神、北には闇の神をそれぞれ奉る教会が建ち、二つのそれをつなぐように大きな一本道が走っている。道の両脇には宿屋や飲食店、土産物の露店が立ち並び、教会を一目見ようと訪れた観光客や信徒たちで賑々しい。
「でもどうしてわざわざ教会を二つに分けたのかな。光の神と闇の神って夫婦なんでしょ。一緒に奉るのが普通じゃないの?」
「それぞれの方角から町を守ってもらってるんだよ。一緒の場所で奉るより、二ヵ所から見守ってもらった方が安心するだろ?」
「そういうものなのかな」
噂で聞いた限りだと、二つの教会は外観も内装も大変美しいらしい。南の教会は白を、北の教会は黒を基調とし、中に入れば二柱の神に連なる下位の神々の像や壁画が人々を迎え入れるという。装飾一つ一つからかもし出される荘厳な気配に、たとえ信徒でなくても圧巻されるとか。
ちょっと観てみたいなあと思わなくもないが、そんな時間があるわけもない。予定が大幅に遅れているからだ。港町は今も超大型幻獣の脅威にさらされているのに、肝心のイブがここで水を売っているわけにはいかない。イブとしては誘惑の多いここからさっさと去りたいところだが、「あれはなにかしら」「これはどう使うのかしら」「美味しそうなにおいはどこからしてくるのかしら」と目に映るもの、耳に入るもの、鼻がかぎとったもの全てに興味を示すオリフィニアを置いていけなかった。
もちろんシェダルがさり気なく興味を反らそうとしているが、あまり効果があるようには見えない。たった十数歩進むのに三十分を要してしまった。
「早くポルトレガメに行かないと怒られそうだなあ……どんな幻獣がいるか調べたいし」
「ハンターだし、依頼って言ってたからなんとなく予想はついてたけど、やっぱり君の目的は幻獣の討伐、なんだよね」
オリフィニアが肉を食べきるのにもうしばらくかかるだろう。三人は人の往来の邪魔にならない道端に腰を下ろした。
「部外者が言うのもなんだけど、僕としては幻獣を狩ってほしくないなあ」
「なに言ってんの。現地の人たちの生活が危うくなるくらいの被害が出てるんだよ。幻獣だって超大型って聞いてるし、話し合いなんて出来ると思えない。あ、でも、そうだ。シェダルって幻獣のこと詳しいでしょ」
「魔術師だしね」とシェダルは自信満々にうなずいた。
「海に現れる超大型幻獣って、どんなのを思いつく? 依頼書には幻獣の種類が書かれてなくてさ、そもそも幻獣かすら怪しいとは言われたけど」
「うーん……有名どころだとクラーケンかなあ。でも大きいとはいえ見た目はほとんどイカだし、幻獣かどうか分からないなんてことないだろうな。あとはリヴァイアサンとか」
「リヴァイアサン? 聞いたことあるわ!」と声を上げたのはオリフィニアだ。なんでも父から教えてもらったことがあるという。「海にすむ大きなヘビなんでしょう? 口から火も吐くのよね! 海にいるのに変なのって思ったわ」
だがリヴァイアサンも一目で幻獣と分かる巨大さと風貌をしている。イブは実際に見たことはないが、資料をまとめた書物にどのような姿かを記した絵があった。オリフィニアはヘビと言ったが、どちらかというと脚の代わりにバカみたいに大きな魚のヒレがついた凶悪なトカゲっぽいなとイブは感じたのを覚えている。
他にもあれこれとシェダルは候補を上げていたが、どれも名前を口にしては「でもなあ」と首を横に振る。思っていたよりも海を住処とする幻獣は多いようだ。
「どういう見た目だとかは聞いてないの?」
「あんまり詳しくは……」
けれどよくよく思い返してみると、依頼受付の少年が見た目に関する重要なことを言っていたような。
「そうだ、『上半身は女』だって聞いた」
「……女?」
「うん。そういう幻獣っているの?」
なぜだろう。イブが辛うじて聞いた幻獣の姿を話した途端、シェダルの表情がくもった。思い当たる種類がいなくて必死に考えているのだろうか。
「……やっぱりその幻獣、狩らないって考えはない?」
「さっきも言ったはずだよ、話し合いなんて出来ると思えないって。放っておいたら現地の人たちが暮らせなくなっちゃう。というか、思い当たる幻獣がいたの?」
「いるよ、いるけど……」
なにをそんなに悩んでいるのか、シェダルは言いにくそうに口先をもごもごと動かした後、指を三本立てた。
「海で暮らす幻獣で、かつ女の人の姿をしているものは、僕が知る限りだと三種類いる。まず一つ目が『カリュブディス』。でも彼女はどっちかっていうと『時々女の人っぽく見える海の渦そのもの』っていうか、要するに材料に人が使われているけど、人の姿でいることはほとんどない。二つ目が『スキュラ』。カリュブディスと違って上半身はちゃんと女の人だけど腰から下は化け物。作り手によって下半身の造形は異なるけど、一番多いのは腰回りに犬の頭が六つあって下半身は魚っていう型だな」
だがスキュラの大きさは超大型とまではいかず、いくら大きくてもせいぜい中型に分類される程度だという。
カリュブディスでもスキュラでもない。では最後の一つはなんだろう。イブが黙って続きを待っていると、シェダルはうっとうしいため息を繰り返してからようやく話してくれた。
「三つ目が『ティアマト』。聞いたことは?」
初めてだ、とイブは首を横に振った。
「原型は何千年も前の神話に登場する海の女神なんだ。幻獣の方は魔術師の最盛期に一体だけ作られたって言われてるんだけど、それが『破壊』の異名をとるズィプト家で……あ、ちなみに僕のエアスト家は『始祖』って異名を」
「それはいいから、話の続き」
イブが容赦なく言うと、シェダルはほんの少しだけ悲しげに肩を落とした。
「ズィプト家は敵味方関係なく、快楽の赴くままに破壊を楽しむ凶悪な家系だった。彼らに造られたティアマトもその気質を持ってて、超危険な幻獣だって聞いてるよ。僕もまだ実際に見たことはない」
「超大型っていうのはどうして? 海の女神だから?」
「さっきカリュブディスの説明をするときに『海の渦そのもの』って言ったけど、ティアマトは『海そのもの』なんだよ。僕が読んだ記録だとティアマトが落ち着いている時には海も平穏だし、その逆もまた
「海そのものだから……」
そういうこと、とシェダルがこっくりうなずく。
海は広大だ。どこまでも広く、そこに満ちる水は限りない。海を枯らすことが難しいように、ティアマトを倒すのもまた難しいのだろう。機嫌さえ損ねなければ平穏なのだから、扱いに気を払えば何ごともなく過ごせるとも言える。
シェダルによると、ズィプト家は多くの魔術師同様、二百年前に途絶えた。彼らの作ったティアマトが今も残っているとすれば、二百年近く倒されることなく生き続けていることになる。だがこれまで大規模に海が荒れたという記録もなく、ティアマトが人々に危害を加えた話も聞かないことから、シェダルは幻獣調査の旅に出るまでてっきり消滅したものだと思っていたと言った。
「今はそう思ってないってこと?」
「『いると思う』なんて曖昧なものじゃない。『いる』んだよ、今も、海に」
まだ実際に見たことはないと言っていた割に、ずいぶん断定的な言い方をする。シェダルの口調は確信に満ちたそれだ。
「じゃあポルトレガメにいる超大型幻獣はティアマトって考えていい?」
多分、とシェダルがうなずく。イブは眉間に皺を寄せて頭を抱えた。
団を出てきた時は未知の幻獣に出会える、倒せたら功績を上げられると気持ちが昂っていた。しかしいざ幻獣の専門家ともいえる魔術師エアスト家の人間から幻獣の種類と性質を聞いて、倒せるのか心配になってきた。
決して心に灯った幻獣討伐に対する熱が消えたわけではないし、むしろ少しわくわくもしている。が、それ以上に難しさの壁が大きすぎる。海そのものなんて倒せるのか。
「でも仮にポルトレガメ沖にいるのがティアマトだとして、なんでずっと大人しくしてたのに急に荒れ始めたのかな」
「……さあ。ティアマトにしか分からない事情があるのかも」
むぐむぐとオリフィニアが最後の一口を頬張った。口の周りにべったりとソースがついて大変なことになっている。シェダルは手巾でそれを拭ってやっていた。
二人がポルトレガメへ向かうのは、オリフィニアの母に会うためだと言っていた。
「オリフィニアはお母さんに会ったことあるの?」
「あるわ。でも毎日じゃないの」とオリフィニアはつんと唇を尖らせる。「お母さんと会えるのは一年に一回だけってお父さんに言われたのよ。それ以上はお母さんの……なんだったかしら、
「負担? お母さんはなにか病気だったりしたの?」
どうかしら、とオリフィニアが首を傾げた。
「お母さんはとっても優しいのよ。会うといつもぎゅーって抱きしめてくれるの。お父さんとも仲良しでね、お父さんもぎゅーって抱きしめてもらっていたわ」
家族仲は良好だったようだ。望んで離れて暮らしていたわけでもないとみえる。
休憩はここまでだ。そろそろ歩き出さなくてはならない。肉を食べてオリフィニアも多少満足したのか、他の店に目を向けることはあったが立ち止まることはなかった。さくさくと進めることにイブは内心ほっとしていた。
シンティから庶民向けの幌馬車に乗り、隣の村まで一気に進む。到着したころ、時刻はすでに夜の七時になっていた。今日は村で宿泊し、明日は朝一でポルトレガメまで向かう予定だった。
が、
「馬車が運休?」
翌朝、イブは宿泊部屋でダガーの手入れをしながら素っ頓狂な声を上げ、慌てて口をふさいだ。後ろではまだオリフィニアが眠っているからだ。幸い少し身じろぎしただけで目は覚まさなかった。
「なんで?」
「ポルトレガメの状況が悪化してるんだって」とシェダルが肩を落とす。何時ごろ向こうに到着するかと訊ねに行き、運休を知らされたという。
「魚は全く獲れないし、これまで海だけが荒れてたのに天候まで不安定になり始めた。いつ嵐が来るか分からないって」
「だからって運休しなくても……」
「今の状況じゃ仕方ないかもね。謎の幻獣がすぐ近くにいて、いつ襲い掛かってくるか分からないんだもん」
金をちらつかせれば無理にでも馬車を出してくれるかも知れないが、経済的にそんな余裕はない。大人しくまた徒歩で向かうしかなかった。
ここから先は他の依頼は受けていない。現地の状況が悪化しているのであれば急いだほうが良い。これ以上待たせてはイブの、そして狩人全体の信用にも関わる。のんびりと寝ているオリフィニアを起こし、支度を手伝って早々に宿を出た。
「この調子で歩いていけば、港町に着くのはだいたい夕方くらい、かな」
「向こうについたらすぐに幻獣の討伐をするの?」
「最初は様子を見る。前情報もなしにいきなり挑んだら高確率でこっちが負けるから」
ナックラヴィーの時はいきなり倒したのに、とシェダルは意外そうに目を瞬いたが、単純に倒した経験があり、弱点も把握していたからだ。
「港町についたらイブさんとはお別れなの?」
「そうだね。オリフィニアはお母さんに会いに行くんでしょ? 私はお仕事があるから一緒に行けないんだ」
そもそもイブは現地に着くまでの用心棒替わりで共に行動しているだけだ。オリフィニアは残念そうにうつむき、「一緒に来たらいいのに」と足元に転がっていた石を蹴飛ばした。
「ごめんね、オリフィニア」
「分かったわ、じゃあお手伝いすればいいのよ!」
名案だとばかりに満面の笑みで手を叩き、オリフィニアはイブの手を掴んで上下に振った。
「あたしとシェダルさんがイブさんのお手伝いをするわ! そうしたらお仕事が早く終わって、一緒にあたしのお母さんに会いに行けるもの!」
「えっ、ちょ、ちょっと待って。手伝いって」
「あたしお母さんに二人のことをお話したいの。一緒に来てくれたらきっとお母さんも喜ぶわ!」
イブが返事をする間もなく、オリフィニアは楽しみだわと繰り返して飛び跳ねながら走っていってしまった。危険だろうから手伝わなくていいと言いたいのに、びっくりするくらい聞く耳を持ってくれない。
どうしようとシェダルに助けを求めると、彼は彼でしきりにうなずいていた。
嫌な予感がする。
「さすがにオリフィニアは巻き込めないけど、僕だけなら君を手伝えるよ」
「なんで!」
「なんでって……僕は魔術師だし、幻獣のことなら君より詳しい自信がある。話し合える可能性だって捨てたくないから、迷惑にならない範囲で手伝わせてほしいな」
「『手伝う』っていうか、シェダルの場合『見張る』の間違いじゃないの。私が問答無用で幻獣を倒しちゃわないように!」
「僕が近くにいたらナックラヴィーの時みたいにちょっとは守れるよ」
ナックラヴィーの群れと戦っていた時のことを思い出し、イブはぐっと言葉に詰まった。
シェダルが神力で光の膜を出していなければ、命を落としていたかも知れない。それは事実だ。未知の幻獣と戦う以上ナックラヴィーに勝る危険が付きまとうのだから、身を守る手段があるに越したことはない。
ないのだが、どうしても見張られている感覚が拭えない。
考えあぐねていると、シェダルがぽつりと呟いた。
「もしもポルトレガメを荒らしている幻獣がティアマトだった場合、本当に倒してほしくないんだよ。話し合う道を探してほしい」
だって、と続けられた一言は、聞かなかったふりなど到底出来そうもないものだった。
「幻獣ティアマトは、オリフィニアの母親なんだから」
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