第6話
なぜだ。どうしてなにもかも上手くいかない。
セインはやり場のない怒りを拳にこめ、獣のような唸り声と共に廊下の壁に叩きつけた。年月の経過によって黄ばんでいた白い壁に、拳を受け止めた部分を起点としてごく細いひびが無数に走る。たまたま通りかかった「
クラーケンの処分から戻り、上級幹部に報告し終えたのが先ほどのことだ。労いの言葉と共に贈られるのは、てっきり昇格を示す書面と輝かしいバッジだとばかり思っていた。
予想に反し、実際にセインが受け取ったのは言葉の方だけだった。昇進の「しょ」の字もない、今後も励むようにというありきたりで平面的な言葉だ。その場で抗議もしたが受け入れられず、現在に至る。
「部下たちも戻っていない。一体どこでなにをしている……!」
「セイン。ボッチョーロ・セイン! やっと見つけたぞ!」
忌々しい声に名を呼ばれる。気だるく顔を上げると、かつて同僚だったエルマンノがこちらに向かってずんずんと歩いてくるところだった。部下を引き連れていないところを見るに、仕事に追われているわけではないようだ。
同僚だった、というのは、彼の方が先に「
「これはこれは、フィオーレ・エルマンノ。いかがなされた」
薄ら笑いを浮かべ、所作だけは丁寧に頭を下げる。だが声からは隠しきれない見下しと嫉妬が滲んでいることに、セイン自身は気付いていない。
「貴様に聞かねばならないことがある。重大な違反についてだ」
「違反? はて、身に覚えがありませんが」
「とぼけるな。ここ数日、貴様の部下たちの動きが不審だったため監視をさせてもらった」
「廊下で話すのもなんでしょう。私の部屋はフィオーレ・エルマンノと違ってこの階にございますし、おいでください」
いいだろうとうなずいたエルマンノを自室に案内する。部屋で待機していた秘書は突然の上級幹部の来室にいくらか驚いていたが、すぐに表情を取り繕って茶の準備をしようとした。
「茶はいい。気分じゃない」
「どうやらよほど余裕がないとみえる。ああ、俺の分だけ頼む」
茶葉はあれを使えと秘書に指示している間に、セインが普段使っている椅子にエルマンノが着席した。相変わらず硬い椅子だなと鼻で笑い、三年ぶりに階下から見渡す光景が懐かしいのか、彼は少しだけ外に目を向ける。セインは無言で来客用の椅子に腰かけた。
「それで違反とは? 私の部下たちの不審な動きとは、一体どのような」
「幻獣の作成だ」
机に両肘をつき、エルマンノは顎の下で指を組む。罪人を追い詰める神のような正義感に満ちた眼差しに、相変わらず潔癖思考は変わっていないのだなとセインは内心で呆れたが、顔には出さない。
「この間、貴様の部下の部屋から人体の一部が見つかったのは覚えているだろう。一つではない、いくつもだ」
「どうやら彼には少し変わった趣向があったようでしてね。人間の下半身の収集癖があったと。しかし彼はすでに〈機関〉を追放されましたが、なにか問題でも?」
「最後まで聞け。他にも最近、やたらと馬を購入していただろう。帳簿から意図的に省いていたらしいが、俺はごまかされなかったぞ。それだけじゃない。口にするのもおぞましい物品をいくつも集めていた。追放された奴の部屋の床から残骸だって見つけたぞ。おおかたそいつは事態が露見しそうになった時の身代わりだったんだろう」
「…………」
「極めつけは昨日だ。貴様が処分に出向いていた時、部下たちはそろってどこかへ出かけていた。悪いが尾行させてもらったぞ。近くに小さな廃村があるのは知っているな? 奴らはその地下に工房を作っていた。言うまでもない、幻獣作成のための工房だ」
「それだけで私の部下たちが禁忌に手を染めていたと? フィオーレ・エルマンノ。あなたは
秘書が茶を淹れたカップをセインに差し出した。よどみのないすっきりと甘い香りが鼻腔をくすぐる。淡い紅色の水面に目を落とすと、表情を削ぎ落した己の顔が映りこんでいた。
「白々しい。工房はまだ新しかった。開設されて間もないだろう。彼らはなにをしていたか? 何度も言っているように幻獣を作っていた。それも獰猛なナックラヴィーを! 奴らは何体もナックラヴィーを引き連れ、どこかへ出かけていった。もちろん尾行させてもらった」
「あなたにそのような時間があるとは、少々意外ですよ。フィオーレともなれば私など比べ物にならないほど仕事があるのでは?」
「俺は貴様と違って優秀なのでな」
「そうですか。それで? 彼らがどこへ向かっていたのか突き止めたのでしょうか」
「……いや、途中で諦めざるをえなかった」
よほど悔しかったのか、エルマンノは唇をきつく噛んだ。
セインの部下とてバカではない。自分たちを追跡してくる者に気付いていただろう。適当に姿をくらませたに違いないと思っていたが、
「ナックラヴィーを連れていた者たちは全員、道中で死んでいた」
ああ、なるほど。だから誰一人として戻ってこないわけだ。恐らくナックラヴィーを制御できず、踏みつぶされたか、または食われたか。どちらでもいい。セインは退屈さを少しでも紛らわせるべく、カップをゆらゆら揺らした。
「遺体の回収は俺の部下たちが進めている。ナックラヴィーの追跡は……難しそうだが……まあいい。いずれ見つけて処分すればいいだけの話だ。今の俺がすべきは貴様の断罪だ。幻獣をこの世から一つ残らず処分すべき立場にある〈機関〉の人間が、あろうことか幻獣を作っていたとはどういうことだ!」
「私が関わっていた証拠は? 部下たちが勝手にやった可能性もある」
「あり得ないな。彼らは工房や道中で何度も会話をしていたが、たびたび貴様の名が出ていた。『セインさまの指示通りに』とな。言え。材料の人間はどこから調達した。返答次第では罪がより重くなる」
「私からも一つ聞かせていただきましょう。私の悪事を突き止めておいて、それを他の幹部に報告していないのはなぜです」
エルマンノはわずかに目を見開いた。セインが諦めるそぶりを見せるでもなく、あっさりと「悪事」と言ったからだろう。
他の幹部がこの話を聞いていたなら、今ごろセインは首が刎ねられていてもおかしくないはずだ。クラーケンの処分から帰還して早々、この世に別れを告げる羽目になっていても不思議ではなかった。けれどこうして元同僚と相対し、罪を追及されている。生きている。
「情けだ。かつて肩を並べた同志だからな」エルマンノの声は苦々しく、それでいて少しばかり慈悲を感じた。「なんのために幻獣を作成していたのか、目的はなにか全て話してもらおう。それ次第で貴様の罪が軽くなるよう、多少の口添えをしてやらんこともない」
「恩を売るつもりだとはっきり言えばいいものを。相変わらずおかしなところでお優しい部分をお持ちですね、フィオーレ・エルマンノ。お優しすぎて……反吐が出る」
「!」
セインはエルマンノに向かってカップの中身をぶちまけた。急に液体をかけられるとは予想もしていなかったのだろう。彼は顔面でそれを受け止め、目を痛めたらしく大慌てで顔を拭っていた。
「セイン、貴様っ……!」
「昔からお前が嫌いだった。俺より弱いくせに、俺の庇護を受けようともせず、先へ先へと進んでいった。どれほど嫌いだったか? 殺してやりたいほどにだ」
視界が塞がっているエルマンノの首をわし掴みにし、力いっぱい絞め上げる。呼吸が出来ずにじたばたともがいているが、なんの支障もない。セインは憎しみのままに絞め続けたが、意識が完全に落ちてしまわないように多少の手加減はしてやることにした。
「お前の言う通り、ナックラヴィー作成の指示は俺が下したものだ。材料の人間をどこから調達したのか知りたがっていたな。工房がある村がなぜ廃れたのか、考えなかったのか?」
「ま、さか……」
「物事には多少の犠牲が必要だ、そうだろう」
「いったい、なんのために……!」
「全ての人間を慈しみ、愛すためだ。今の俺では難しい。ゆえに上を目指さねばならん」
ぎし、と骨が軋む音がして、エルマンノの表情がさらに歪んだ。酸素を求めて喘ぐ口からだらだらと
「ナックラヴィーを作ったのは目的を果たすための第一歩だからだ。奴らは海の気配を求めて行動するように作ってあってな、気性が荒く理性が欠片もないのは欠点だが、些細なことだ。奴らの行く道を辿れば、そこに俺の欲するものが確実にある」
「貴様の、欲する、もの、だと」
「おっと、少し喋りすぎてしまったか。これ以上は教えてやれない」
「っ、が、あ」
エルマンノが大きくのけ反り、決して細くはない首がみしみしと音を立ててより絞まっていく。セインの手をひきはがそうと抵抗はしているが、爪を立てた指先は弱々しく皮膚の上を滑るだけで、蹴り飛ばそうと脚を精一杯動かしても机が邪魔になってセインの体に届くことはない。
ひゅー、とか細い息を最後に、エルマンノがぐったりと力を失った。光の灯っていない瞳は虚空を見つめ、両腕はだらりと体の横で揺れている。それでもセインは手の力を緩めず、首が完全に折れるまで絞め続けた。
物言わぬ骸となったかつての同僚を前に、セインは狂気に満ちた笑みで語りかける。
「お前の体を無駄にはしない。まだまだ志があるのだろう? ならば生き返らせてやろう」
幻獣という、お前が最も憎むものの体で。
部屋のすみに控え、無言で成り行きを見守っていた秘書を呼ぶ。彼はいくらか不満そうな顔をしていたが、せっかく用意した茶を無駄にされたからだろう。彼から手巾を受け取り、よだれまみれになっていた手を拭った。手巾は秘書に返されることなく、ゴミ箱に捨てられた。
「エルマンノを工房に運んでおけ。
「承りました。しかしどうするのです? フィオーレ・エルマンノがいなくなったと話題になるのは避けられません。セインさまのお部屋に入られたところを目撃した者も多くはないはずです」
「さわぐ輩は殺せばいいだろう。ちょうど材料が足らなくなってきたところだ。再利用すればいい」
「まだナックラヴィーを作るのですか?」
なぜだと言いたげに秘書は首を傾げた。もう十分作ったのに、まだ足りないのだろうかと。セインは腕を組んで悩んだあと、それもそうだなとうなずいた。
「では違う幻獣を作れ。出来るだけ人に近い姿のもので、俺の言う通りに動く駒となる幻獣だ。部下の代わりにするんだ、理性的でありながら獣らしさを失わないものがいい」
「難しいことを仰いますね」
そう言いつつ、秘書は珍しく楽しげに微笑んでいた。
〈機関〉に所属しているのだ、もちろん幻獣は憎い。憎いが、人の姿に近ければ多少の愛しさが芽生えるかもしれない。セインの注文を律儀に復唱し、秘書はエルマンノの死体を、手を触れることなく持ち上げた。宙に浮いた体は徐々に透明になって見えなくなった。けれど確かに触れられる。秘書が目くらましの術をかけたのだ。彼は窓を大きく開け、虫を追い払うかのように手首を振るい、数秒後にぱたりと閉めた。
「三十分もすれば工房に着きます」
「そうか。ああ、ついでにもう一つ仕事を頼む。エルマンノが言っていた通り、証拠がいくつか残っていたようだ。俺も詰めが甘かった。痕跡を全て消しておけ」
「承りました。セインさまはこれからどうなさいます」
「仕事を放り投げる」
「……はあ、つまり?」
部下たちの大半がナックラヴィーによって殺されてしまった今、セイン自らが出向くしかない。昇格するために舞い込む仕事をすべてこなしていたが、いつまでもそればかりにかかずらっていては本来の目的がいつまでたっても果たせない。
セインは〈機関〉の象徴でもあるアザミの花模様が刺繍された上衣を羽織り、壁に立てかけてあった
「小娘を捜しに行く。小娘は一人ではないんだったな?」
「情報によれば男と共に行動しているそうです。彼が何者かは定かではありませんが、我々の存在は知っているようだったと。攻撃した際には弾かれたとも聞いています。恐らくは……」
「魔術師か」
秘書は無言でうなずいた。魔術師ならば、セインが捜し求めている小娘が何者かも勘づいているはずだ。こちらの存在を警戒しているのは間違いない。実力がいかほどか知らないが、不用意に近づいたのでは事前に察知して逃げられる可能性もある。
仮に小娘の正体に気付いていたとすれば、魔術師はどんな行動をとるだろう。
少しだけ考え込み、セインは「よし」と足を踏み出した。
「待ち伏せをするのが一番いい。このあたりにいそうな魔術師といえばエアストだろう。奴らなら確実に小娘を港町へ連れていく」
「港町、といいますと」
「決まっているだろう。ポルトレガメだ」
扉を開けようとして、セインは向こう側から聞こえてくる声に耳をそばだてた。エルマンノさまとセインさまはなにを話しておられるのか、先ほど聞こえてきた争うような声はなんだろう、と好き好きに予想を交わし合っている。
二人の仲が良好でないことは、ここの支部にいる者ならたいてい知っている。
「フェルモ」と秘書の名を呼び、セインは面倒くささ丸出しで指示を出した。「やはり騒がれると面倒くさい。少しの間だけエルマンノが生きているように見せかけておけ」
「死体を運び出してから仰いますか? 人使いの荒いお方ですね」
「今に始まったことではないだろう。で、どうなんだ。出来るのか」
「出来ないわけがありません。お任せください。一週間でしょうか、それとも半年、一年ですか?」
「お前の判断に任せる」
かしこまりましたと秘書が承諾するのを横目で確認し、セインは三叉槍を肩に担ぎ、部屋を後にした。
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