第4話
「ちょっと、いきなりなに?」
「ナックラヴィーだよ! とにかく逃げないと!」
「はあ? そんな――」
そんな馬鹿な、見間違いではないかと振り返ると、五つの影は猛烈な勢いでこちらに迫っている。シェダルが言った通り、黒い影は全てナックラヴィーだった。
「話せば分かるって言ったのはどこの誰だったっけ!」
「一体だけで現れた場合だよ、それは! あんなにいっぱいいたら話し合ってる間に別の個体に襲われる!」
「なになに? また追いかけっこかしら? いいわね、楽しそうだわ!」
「この状況を楽しめるってすごいなあ、もう!」
喋っている暇など無い。一刻も早く、出来るだけ遠くに逃げなければ。
しかしナックラヴィーたちは恐ろしいくらいに速かった。初めは点でしかなかった影が、今や四肢の筋肉をしっかり目視できるほど近づいている。
このままではいずれ走り疲れて追いつかれ、情け容赦なく踏みつぶされるだろう。イブはシェダルの手を振り払い、素早く短剣を引き抜いて身構えた。
「無茶だよ、五体とも相手にするなんて!」
「あなたたち二人だけでも遠くに逃げて。早く!」
躊躇うシェダルの背を肘で押すついでに荷物を預け、イブは乾ききっていた唇をなめて呼吸を整える。それと同時にオオ、とくぐもった咆哮が耳に届いた。ナックラヴィーの威嚇だ。
――大丈夫。私なら出来る。倒せる。倒してみせる。
ちり、と首元で三日月のネックレスが揺れる。まるで父が応援してくれているようだ。
それに応えるように、イブは力強く地面を蹴った。
父がそうだったように、イブも短剣を複数本、腰にぶら下げている。父の遺品でもある諸刃のダガーが二本と、刃は付いていないが非常に鋭利な先端のスティレットを一本。腕と脚にはそれぞれ防具も身に着けている。
ナックラヴィーたちに統率がとれている様子はない。目の前に現れた獲物を手に入れようと、互いに邪魔をしながらこちらに向かっていた。イブはまず先頭のナックラヴィーに向かってスティレットを投げた。ずぶりと目玉に先端が埋まり、視界を奪われて動揺している隙をついて素早く胸の〈核〉を破壊する。崩壊し始める体を力いっぱい蹴り飛ばし、高く跳び上がりながら次の個体に狙いを定めた。
イブの体を掴もうと長い腕がいっせいに伸ばされる。四本指の先には鋭い爪が備わっており、まともに食らえば簡単に命を落とすに違いない。身をよじってそれを避け、着地して間をおかず目の間にいた個体の胴を下から上に向かって切り裂いた。
「けどっ……!」
幻獣相手に大して効果がないことは知っている。〈核〉がある限り、幻獣はたとえ四肢を引き千切られようが首を刎ねられようが、時間の経過と共に元通りに治るのだ。イブが切りつけた個体は治癒が異常に速く、瞬く間に傷がふさがった。
やはり〈核〉を破壊しなければ意味がない。考えている間にもナックラヴィーの腕がイブに掴みかかり、そのたびに腕で受け止めたり蹴り飛ばして身を守った。こういうとき短剣の不利さを実感する。長剣であれば簡単に腕を切り落とすなり出来るのに、と思わなくもない。
それでも父に近づこうと短剣を選んだのは自分自身だ。イブは素早くナックラヴィーの下に潜り込み、勢いよく馬の部分の胴を突き刺した。どぼりと紫色の血が噴き出してくるが、それも一瞬だ。血は傷口に吸い上げられるように体内に戻っていき、あっという間に治癒してしまう。
――この程度じゃ隙も作れないか。
視界を奪うか、昨日と同じように淡水をかけるかしなければ明らかな動揺は誘えない。しかしスティレットは真っ先に投げてしまったし、新調したばかりの水入れはシェダルに預けてしまった。
「……淡水。川!」
そうだ、先ほど立ち寄ったばかりではないか。幸いそれほど遠くはないし、ナックラヴィーたちを川まで誘導すれば勝機はある。
けれど、とイブはナックラヴィーの下から滑り出て、ちらりと背後を振り返った。視界の端にシェダルたちの姿が映る。遠くに逃げろと言ったのに、なぜまだ近くにいるのか。どうやらオリフィニアがこちらに近づこうとしているのを、シェダルが必死に引き止めているらしい。
すぐにナックラヴィーに意識を戻し、近くに転がっていたスティレットを拾い上げる。叩き潰さんと伸ばされた腕を引っ掴み、イブは体を大きく振って敵の肩に飛び乗った。先ほどと同じようにスティレットで視界を奪うと、ダガーで〈核〉を破壊する。これで残り三体だ。
「イブ!」
「っ!」
シェダルの声が耳に届く。彼はイブの後ろを指さしていた。別の個体が腕を振り上げ、イブに掴みかかろうとしていた。
咄嗟に腕で防御しようとした、その時だった。
「――――な……に?」
ばちんと雷に似た音が上がった。それと同時にナックラヴィーの腕が弾かれる。
イブと腕を遮るように、淡い黄金色の光が輝いていた。光は膜のように広がっていたが、やがてすうっと空気に溶けて消えた。
今のは、なんだ。考えるより先に、イブの土台にされていた個体がガラガラと崩れ始めた。慌てて地面に飛び降り、他の三体から距離をとった。
「イブ、こっち!」シェダルが手招きをしている。なぜ逃げていないと文句を訴えるより早く、彼は辿ってきた道を指さした。「川だよ、川までその子たちを誘導しよう!」
「分かってる!」
急いで二人のもとに駆けよる。オリフィリニアはいまだにただの追いかけっこだと思っているのか、色の違う左右の瞳がわくわくと好奇心に満ちている。ナックラヴィーたちはすぐに追ってきて、イブは二人を守りながら走って逃げた。
先ほどイブを守ったのと同じ光はたびたび現れた。光はナックラヴィーたちを数秒間だけ足止めし、その間にイブたちは離れられる。しかしそれも慰み程度で、少しでも気を抜けば追いつかれて餌食になる。
なんとか川まで戻り、イブは三体のナックラヴィーを待ち受けた。念のため武器全てを川に潜らせ、刃をしっとりと水で濡らしておく。ぎりぎりまで三体を引きつけ、真っ先に飛び出してきた一体の胸にダガーを突き立てた。刃の水滴がむき出しの筋肉に触れ、じゅっと蒸発する音が断続的に響く。
先ほど倒した二体と同じく、この位置に〈核〉があるはずだ。しかし、なにかおかしい。イブは限界までダガーを差し込んだが、一向に〈核〉らしきものが見つからないし破壊された音も聞こえない。
「まさか……!」
幻獣の〈核〉は基本的に本来なら心臓があるはずの位置に埋め込まれていることが多い。けれど稀に違う部分に存在することもある。このナックラヴィーはどうやらその稀な個体だったようだ。気付いた直後、イブは勢いよく地面に叩きつけられた。不安定な体勢で掴みかかっていたために振り落とされたのだ。全身をしたたかに打ち付け、目の前がちかちかと明滅する。
すぐさま呼吸を整えたが、一瞬だけ意識がとんだ隙に他の二体がシェダルたちに向かっていた。だが二人はいつの間にか川に入り、向こう岸に行こうとしていた。オリフィリニアはつまらなそうに頬を膨らませ、シェダルは彼女を抱き上げてしきりにイブにも目を向けている。
淡水を嫌うナックラヴィーなら、いくら流れが非常に緩やかで、水深も浅い方とはいえ川に入れないだろう。シェダルはそう見越して対岸に渡ろうとしているようだった。
だが。
「なっ――――」
イブから受けた傷を完全に回復させたナックラヴィーが、急に走り出した。かと思うと地面を力強く蹴って跳躍した。川に向かって、だ。
さすがに予想外だったのか、シェダルもぽかんと固まっている。オリフィニアだけが「すごいわ!」などと嬉しそうに手を叩いている。助けに行くべくイブは立ち上がるが、左足がひどく痛んだ。骨は折れていないだろうが、捻挫くらいはしているかも知れなかった。
ナックラヴィーの巨躯が川の半ばにいるシェダルたちに向かって下降する。無防備なイブではなく二人が狙われているということは、奴らの標的はシェダルかオリフィニアのどちらかなのか。とにかく、このままでは踏みつぶされて確実に死ぬ。
その時、シェダルが右腕を胸の前で真横に薙いだ。瞬間、あの光の膜がどこからともなく現れる。光は繭のように二人をすっぽりと覆い、ナックラヴィーはそれに直撃して弾かれた。ばしゃんと大きな水柱が上がり、聞くに堪えないおぞましい絶叫が上がる。
――シェダルが、あの光を出した?
頭が疑問で埋め尽くされるより早く、他のナックラヴィーも次々に二人に向かって飛びかかり始めた。しかし結果は同じで、二人を包む光の繭に阻まれては川の中に転落して叫ぶ。
なにがなんだか分からないが、とにかく今が好機だ。イブは痛みを堪えて川に入り、じたばたと暴れる一体の眼球にスティレットを突き立てた。間を開けずに胸を抉ると、ばきりと破砕音がして体が壊れていく。これで残り二体だ。そのうちの一体はどこに〈核〉があるか分からない。
衣服が水を吸って重くなる。痛みも全く引いていないし、むしろ強まっている気さえする。それでも懸命に体を動かし、闇雲に振り回される腕を防ぎながら別の一体も始末した。
「あとは……!」
残るナックラヴィーに目を向けると、筋肉が爛れていく音をあげながら水底に四肢をしっかりとつけて立ち上がっていた。勢いよく何度も光の繭を叩き、その中でシェダルが歯を食いしばって耐えている。
ぴし、と亀裂が光に刻まれる。それをきっかけに繭は形を失くして霧散し、同時にシェダルがオリフィニアを抱きかかえたまま倒れ込んだ。ずっと笑顔を浮かべていたオリフィニアもさすがに驚いたらしい。目を丸く見開いて何度も彼の体を揺すっていた。
まずい。イブはすぐに駆け寄りたかったが、衣服の重さと足の痛みが邪魔をする。その間にもナックラヴィーは腕を振り上げ、今にもシェダルたちを叩き潰そうとしていた。
――くそっ、このままじゃ……!
なんとか痛みを堪えて短剣を構えたイブの頬に、ぱたりとなにかが当たった。いつの間にか辺りが暗くなっているし、雨でも降ってきたのだろう。大して気にも留めていなかった。
その直後、びゅうっと鋭い風が吹いた。あまりの勢いにイブが身を屈めると、突風に煽られたナックラヴィーの体も大きく傾いでいた。耐えきれなくなり倒れたところへ追い打ちをかけるように、大粒の雨が勢いよく降りだして川面とナックラヴィー、イブたちを激しく叩く。
嵐だ。そんな前兆はなかったのに、急に気候が激変したのだ。風は凍てつくほどに冷たく、風に巻き上げられて水しぶきが渦を巻く。やがて渦はナックラヴィーだけを囲い込み、浮きそうもなかった巨体が簡単に空中に連れ去られた。
「なにが起こってるの……?」
イブの呆然とした呟きに対する答えはない。
大きな物音にハッと我に返ると、ナックラヴィーが川底に沈んでいた。竜巻から解放されて落下したのだ。気絶しているのか、びくびくと四肢がたまに動くだけでうめき声も聞こえない。イブは水の滴る前髪をかき上げ、急いで近づき〈核〉を探した。
人部分の胴にはなかった。ならば馬の部分は。ずぶずぶと突き刺しながら探り、ようやく見つけ出した。ちょうど胃の辺りに埋め込まれている。躊躇なく破壊して体が崩れていくのを見届けてから、やっと終わったと息をついて空を見上げる。
先ほどの大荒れの天気は幻だったのかと思いたくなるほど、雲一つない青空が広がっていた。
「イブさん!」と呼ぶオリフィニアの声に振り向くと、彼女は川につかりながら懸命にシェダルの頭を支えていた。「シェダルさんが起きないの、これって眠っているのかしら?」
「ちょっと待って、今行くから」
ざぶざぶと水をかき分けてそばに寄り、二人の状態を確認する。シェダルにもオリフィニアにも怪我は無さそうだ。ホッとしたのもつかの間、シェダルの頬がリンゴのように赤くなっていることに気付いた。額に触れると信じられないくらい熱い。イブの冷え切った手が心地よかったのか、彼の表情は少しだけ緩む。
名前を呼びながら頬を軽く叩いてみたが、一向に起きる気配がない。完全に気を失っている。
「いつまでも川に浸かってたら体が冷えちゃう。とりあえず岸に上がろう。シェダルの熱もひどい」
オリフィニアの手を借りながら、シェダルを岸に引き上げる。彼がいつ目を覚ますかも分からないし、イブも負傷している。今日はここから動けないだろう。まずは体を温めるためにも火を起こさなければ。
「シェダルが起きたら、さっきの光とか嵐とか、いろいろ聞かないとね」
イブの呟きに、オリフィニアはよく分からないと言いたげにきょとんと首を傾げるだけだった。
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