第3話

 セインは人間が好きだ。愛していると言っても過言ではない。

 多くの人間は自分よりも脆く劣弱だ。人間は神の手によって泥から作られ、のちに肉の体を得たと神話に記されているが、泥の塊であったころに比べてひ弱になってしまったそうだ。肉体面ではなく、精神面が。

 泥であったころは、例え体の一部が欠けても神がすぐに土で修復してくれた。腕や足を失おうが、頭を吹き飛ばされようが、いつでもすぐに元に戻る。ゆえに恐れを知らず、向こう見ずとも言い換えられる強さを持っていた。

 けれど人間を作った神が、さらに上位の神の怒りにふれたことで状況は一変する。神が地に落とされて肉の体を得たと同時に、その神の世話係であった人間たちも同じように肉を得た。泥であった頃と違い、腕や足、頭を失えばもう二度と元には戻らない。そう気付いた時、人々は「自分は弱いのだ」と気付いてしまった。

「多くの者どもはそれを受け入れてしまった。弱いままでいることを許容し、やがて己の弱さを忘れてしまったのだ。しかし俺は違う。己の弱さを自覚したうえで強くあろうとした。その結果が現在だ」

 机の上で組んでいた手を力強く握りしめる。分厚く頑丈な手の甲に幾筋ものしわが寄った。

「弱者ほど愛おしいものはない。この世の大半の人間は俺の足元にも及ばないほどに弱い。だから愛おしいのだ。圧倒的な強者を前に、彼らは救世主が現れたと言わんばかりにすがってくる。その手をつかみ慈しむのは、強者にのみ許された特権だ。だが」

 大きくため息をつきながら立ち上がる。二メートル近い巨体を前に、部屋の扉を背に整列していた部下たちは一斉に息をのんだ。部下たちの怯える瞳に一瞬だけ愛しさが沸き上がったが、彼らの不手際を考えるとそんなものは塵のように消え去った。

「そんな俺にも愛おしめない弱者というのがいる。その中の一つが、与えられた仕事をろくにこなせない愚か者たち――お前たちのことだ。言ったはずだ。どんな手を使ってでも確実に捕えてこいと。なのにあらゆる面で失敗したうえ、見失っただと?」

「も、申し訳ございません! まさかナックラヴィーが暴走を始めるとは思わず……それに……」

「言い訳はいい。ナックラヴィーはどうした。それすら見失ったのか」

「……はい。現在、総力を尽くして捜索しておりますが、夜になってから行方が完全に分からなくなり……」

「次はない。確実に捕えて俺の前に連れてこい。また同じ報告をしようものなら、お前たちに愛す価値なしとして鉄槌を下すことになるぞ」

 セインの一言に、部下たちの顔色がいっせいに青くなった。彼らはすぐさま身を翻し、使命を全うするべく部屋から出ていった。その背を一人残らず見送り、セインは再び椅子に腰かけた。

 窓に目を向けると、怒りに満ちた自分の瞳と目が合った。白髪が混じり始めたこげ茶の髪に若かりし頃の艶はなく、眉間に刻まれた皺は年々濃くなっている。しかし頑強に鍛えた巨躯は衰えを感じさせず、猛禽類に似た眼光は年を経るごとに鋭さを増していた。

「全く。小娘一人捕まえられないとは……」

 部下たちに課した任務は決して難しいものではなかったはずだ。年端もいかない小娘を捕えてセインの前に連れてくる。それだけだ。

 自分自身で出向いても良かったのだが、「ボッチョーロ 」という立場上、他にも仕事が山ほどある。逃げ回る小娘に時間をかけられるほど余裕はない。事実、早く次の仕事をしてくれと言わんばかりに秘書が貧乏ゆすりを繰り返している。

「書類のご確認は」

「もう済んでいる。処分対象はクラーケンだったな。奴を倒せば、次こそ俺の地位は上がるだろう」

「ええ、間違いなく。あなたさまはボッチョーロで収まる器ではございません」

「世辞はいい。準備が整い次第、出発するぞ」

 声もなくうなずいた秘書が退室し、部屋にはセインただ一人が残った。机とキャビネットが一つずつと、来客用の椅子が二脚だけ。木特有の色と香りが充満する室内はそれなりに広いはずだが、セインの体では少しだけ狭く感じる。南と東に設けられた窓からは豊かな牧草地が見え、羊たちがおっとりと草を食む光景が楽しめる。中級幹部に与えられる執務室の一つで、初めは一、二年で次の部屋に移ることになると思っていた。

 予想に反し、セインはこの部屋をもう六年も使っていた。壁のあちこちには傷が残されているが、大半は鬱憤を晴らそうと暴れた際にセインが付けてしまったものだ。どの傷をいつ付けたかなど、問われればすべて答えられるだろう。

「収まる器ではない、か」

 他人に言われなくとも、自分が一番よく理解している。俺はまだ高みを目指せると。

 高みに行けば行くほど、愛おしめる人間が増える。セインの手で守る者たちが増えるのだ。今の地位では物足りない。自分は出来るだけ多くの人間たちを愛したいのだから。

「そのために、奴を確実に仕留めなければならないな」

 くく、と喉の奥から抑えきれない笑い声が漏れる。

 企みに満ちたそれを聞いた者は、誰もいなかった。



 シェダルのカバンが見つかったのは翌朝だった。オリフィニアが途中で眠気を訴えてそのまま寝入ってしまったため、結局夜明けを待って探したのだ。森に棲む動物たちに持ち去られることもなく、哀れなカバンは中身をぶちまけて地面に転がっていた。

「ペンもあるし、紙もあるし……ああ良かった! 入ってたものは全部ちゃんとあるよ」

「今回もちゃんと見つかって良かったわね! あたしも安心したわ!」

「……今回? 前も落としたの?」

「恥ずかしながらね。気を付けるようにはしてるんだけど」

「肩から提げるカバンだからダメなんじゃないの? 背負うやつに変えるとかさあ」

 本来ならば昨晩のうちに到着しておきたかった隣町だが、イブたちが辿り着いたのは太陽が南天に昇った頃だった。町に一つしかない小さな飲食店に入り、イブは鶏肉の香草焼きを、シェダルは川魚を煮込んだものを、オリフィニアは野菜の炒めものを頼んだ。代金はシェダルが支払ってくれた。

 腹ごしらえを終えて港町に向かう道すがら、先頭を歩くイブの後ろでシェダルたちは楽しそうに会話をしていた。今日は晴れていい天気だとか、道端に咲いている花の名前はなにかだとか、他愛もない会話だ。それを聞くともなく聞きながら、ふと気になったことがあってイブは振り向いた。

「シェダルってさ、この国の人じゃないよね?」

「え、うん。隣のレンフナ出身だけど……よく気付いたね」

「この辺じゃあまり聞かない言葉の抑揚があったから、もしかしてと思って。レンフナからここまでって、けっこう遠くない? そんなに長い距離をオリフィニアと歩いてきたの?」

「違うわ、シェダルさんとはこの国で会ったのよ」

 さらに詳しく聞くと、シェダルと彼女はここから三つ隣の町で初めて会ったという。近道をしようと裏道に入ったシェダルが、たまたまオリフィニアが売り飛ばされそうになっている場面を目撃し、咄嗟に助けに入って逃げてきたという。

 ということは、だ。人身売買の業者からすれば〝商品〟が奪われたわけであるし、取り返そうと追いかけてくることだろう。もしかしなくてもシェダルたちは現在進行形で、行方を捜されているのではないか。

 イブが感じた疑問をそのまま問いかけると、それまで安心しきっていた彼の表情が面白いくらいに一変した。

「どうしよう! もし見つかったら僕たちどうなるんだろう!」

「ただじゃすまないと思うけど、私といるうちは大丈夫だと思うよ。思うっていうか、大丈夫で済むようにする。こう見えても私、それなりに強いし」

「ナックラヴィー相手にあんな風に戦うんだから、強いのは一目で分かったよ。僕も一応戦おうとしたんだけど、僕ってあまり戦闘向きの能力は持ってないからさ、結局逃げるしかなくて」

「……能力?」

「ああ、いやごめん、なんでもない」

 えへへと笑って誤魔化され、執拗に追及するわけにもいかずイブは首を傾げるだけに留めた。どう考えてもなにかしら隠すようにはぐらかされた。それを問い質せるほど深い仲でもない。目的地に着けば別れる間柄なのだ。

 どこからともなく水の音が聞こえてくる。「川だわ!」と真っ先に反応したのはオリフィニアで、彼女は止める間もなく走り出した。さらさらとささやかな音に導かれるようにして三人が立ち寄ったのは小さな川だ。腹の足しにもならないような小魚が無数に泳ぎ、それを押しのけるように二回り以上も大きな魚が悠々と行きかっている。

「お父さんがね、言っていたのよ。川を辿って行けば海に行けるって。海まで行けば、お母さんに会えるって。川はお母さんのところに繋がっているからって何度も言っていたわ」

 素足を川に浸し、水面をぱしゃぱしゃと弾きながらオリフィニアが言う。

「あなたのお母さんは海の近くに住んでるの?」

「多分、そういうことなんじゃないかな」と答えたのはシェダルだ。なにを記録しているのか、いつの間にかペンと紙を携えている。「こんな小さい子を一人で行かせるわけにはいかないから、じゃあ一緒に行こうって言ったんだ。戦えないけど、守るくらいなら出来るし」

「この子のお父さんは? 時々会話に出てくるから気になって」

「それは……」

「お父さんはね、死んでしまったの」

 え、とイブが驚いたのに気にした様子もなく、オリフィニアは少しだけ寂しそうに続けた。

「お客さんが来るから少し出かけていなさいって言われて、そろそろ良いかしらと思ってお家に戻ったら、玄関で倒れていたわ」

「……そうだったんだ。ごめんね、嫌なこと思いださせちゃったよね」

 どんな死に方をしていたのかまで語らせる必要はない。詳細を喋らせるより先にイブは意図的に話を終わらせた。

 推測でしかないが、オリフィニアの父を殺したのは彼女を売り飛ばそうとしていた業者たちではないだろうか。身柄を引き渡せと詰め寄られ、断ったので殺した。あり得ない話ではない。

 シェダルが何かしら記録を終えるのを待ってから、再び歩き出す。緩やかな勾配が連続した先に、飲食店や宿屋が多い町があると聞いている。この辺りでは港町に次いで二番目に大きな町だそうだ。馬車も出ていることだろう。

「この調子で歩いたら、着くのは明日の昼くらいかな」

「じゃあ今晩も野原で寝られるのね! 楽しみだわ」

「僕は全然楽しみじゃないよ……寝ているところを襲われたらどうしよう……」

 不意にがさがさと目の前の草が揺れた。びくりとシェダルが立ち止るのに合わせ、イブとオリフィニアも念のため止まった。数秒後に草をかき分けて現れたのは、

「カーバンクル!」

 判断するやいなや、イブは腰の短剣を引き抜いた。

 顔と体つきはウサギによく似ているが、耳はキツネに似た大きさで、尻から伸びる尾はネズミのようにひょろ長い。明らかにただの動物でないと分かるのは、額から水晶と思しき六角柱状の石が生えているからだ。石の色は炎のように燃える赤で、光の当たり具合によって金色が混じるさまが美しい。

 カーバンクル――額の宝石を手に入れたものは巨万の富と名声を得ると言われている幻獣だ。言い伝えを思い出し、イブの瞳が獲物を狙う狩人の光を帯びる。

「あれ一匹掴まえたら、しばらく狩りをしなくても暮らせるだけの大金が――!」

「ダメだよ!」

 飛びかかろうと身を屈めた途端、がしっと羽交い絞めにされた。シェダルがイブを力いっぱい拘束していた。

「ちょっと、なにするの!」

「君が自分で言ったんじゃないか! 『人間に害をなした幻獣』を狩るって! カーバンクルはなにもしてない!」

「それとこれとは話が別なことくらい分かるでしょ!」

「別なもんか!」

 言いあっている間に、カーバンクルはウサギのように跳ねて遠ざかっていき、やがて見えなくなった。個体数が少なく希少価値の高い幻獣だ、この好機を逃したくない。追いかければまだ間に合うかもしれないが、どこにそんな力があるのか、シェダルの拘束力は並大抵のものではなく簡単に振りほどけない。

 追いかけないから放してと再三訴え、シェダルは渋々といった様子で解放してくれた。もがいたせいで肩が痛い。イブは恨みのこもった眼差しを彼に向けた。

「せっかく大金が手に入れられそうだったのに!」

「カーバンクルは魔術師の全盛期ですらあまり作られなかった貴重な種類なんだよ! ただでさえ数を減らしてるのに、狩られたらまた数が減る! 僕としてはこれ以上カーバンクルを減らしたくないんだよ!」

 そもそも、とシェダルが腕を組む。まだ言いたいことがあるらしい。

「いくら人間に害をなした幻獣だからといって、無暗やたらと狩るのも僕は止めてほしい。それでお金を稼いでいるのは分かるけど……」

「じゃあなに? ナックラヴィーを倒したのも反対だったっていうわけ?」

「話せば分かる個体だったかもしれないじゃないか」

 無意識のうちにイブは舌打ちをしていた。まだ会って間もない男が自分の職に対して異を唱えてきたうえに、甘っちょろい理想を語ったのだ。受け流すことなどとうてい難しい。

「あんたが今までどんな幻獣を見てきたのか知らないけど、私が倒してきた幻獣の中で話が通じるやつなんてほとんどいなかった。そもそも人間の言葉なんか理解してない奴の方が多いんだよ。なのに『話せば分かる』? そんなわけないでしょ」

「君が知らないだけだよ。もしかして君が狩ってきたのは『動物型』とか『植物型』ばかりなんじゃないの。確かに彼らを説得するのは難しいけど、でも『人型』なら僕らの言葉を理解してくれるし、話し合いだって出来るんだよ!」

 シェダルが指摘した通り、イブが狩る幻獣の大半は動物型と植物型だ。だが人型を標的にしたことが皆無なわけではない。人間がもとになっているため人型の幻獣は会話が出来なくはないが、多くは獣じみた思考を持っている。

 話し合いなんてしたところで、成立するはずがない。時間の無駄だ。少なくともイブはそう考えていた。

 どうやらシェダルはそうではないらしいが。

 情けないばかりの青年だと思っていたが、最初の印象を打ち消すような熱いともし火が瞳の奥で燃えている。信念や理想という名の焼けつくような強い炎だ。それに真っ向から見つめられ、イブはつい息をのんだ。

 二人が睨みあう中、くい、とイブの服の裾が引かれた。オリフィニアが心配そうに二人を交互に見上げている。

「どうしたの? ケンカは良くないことなのよ?」

「ごめんね、ちょっと色々あって……」

「心配させちゃったかな。ごめん、僕も柄になくムキになっちゃったから」

 シェダルが頭を撫でたことで、いくらか安心したのだろう。オリフィニアはにっこりと落ち着いた笑みを浮かべた。

「そうだわ! あのね、あれってなにかしら?」

「あれ?」

 好奇心を抑えられないのか、オリフィニアが楽しそうに跳びながら前方を指さす。イブとシェダルは揃って彼女が指した方向を見遣った。

 黒っぽいなにかが道の先から近づいてくる。一つかと思ったが、よく見ると五つほど影がある。先に気が付き、イブたちの手を掴んで走り出したのはシェダルだった。

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