第2話
初めて幻獣を見たのは五歳の頃だったように思う。些細なことで母と喧嘩して泣きじゃくり、家を飛び出してあちこち走り回った果てに迷子になった時だ。夜も遅く、帰り道も分からない。うずくまって鼻水を拭っていたら、なにかが横から腕に触れた。
驚いて顔を上げると、黒猫が隣に座って不思議そうにイブを見上げていた。腕をさわさわと撫でていたのは猫のひげだ。泣いているイブを慰めてくれているのかと思ったが、そうではないと次の瞬間に分かった。
「なんだい、可愛くて小さな君」と猫が喋り出したからだ。それも、からかうような口調で。
問われるがままに事情をおどおどと説明すると、猫はハンッと笑う。
「母君と喧嘩して、勝手に飛び出して道に迷って? バカだねえ」
「ば、バカって……」
「全く。仕方がない。見てしまった以上、放っておくと、紳士ならば案内せよと同胞たちに怒られるからね。行こう、可愛くて小さな君。君の家まで送っていくよ」
イブがきょとんとしている間に、猫は後ろの二本足で立ち上がって歩き出した。振り返った猫の胸には白いまだら模様がある。彼はそれを見せつけるように胸を張り、イブの手を引いて歩き出した。ものの数分でイブは自宅に帰り、猫は「それじゃあ僕は国に帰るよ。職務がまだまだ残っているからね」と言って夜の闇に消えた。
あれはきっと、ケット・シーと呼ばれる幻獣だったのだろう。猫というよりも犬に近い大きさで、人の言葉を話していたし二本足で歩いた。あれで普通の猫なわけがない。
幻獣というのは〈核〉を原動力として生きる人工生命体だ。ケルベロスやドラゴンなど、多くは伝説や伝承の生物を模っている。彼らを作り出したのは
しかし今から二百年ほど前、魔術師たちはとある事情で処刑、あるいは一家離散し、現在は少ししか残っていないらしい。イブも詳しくは知らない。全て父からの受け売りだし、その父もあまり細かいことは知らないようだった。
ひとまず分かっているのは、幻獣は〈核〉を破壊あるいは摘出されない限り半永久的に動き続けることと、慈雨や病の治癒など人に恵みをもたらしてくれる個体もいるということだ。イブや他のハンターが標的とするのは幻獣の中でも「人に害をもたらした」と判断された個体だ。
今回の標的もそうだ。イブは乗り合い馬車に揺られながら、一体どんな幻獣なのだろうと想像した。海を荒らし、船を転覆させて破壊する超大型幻獣。海を住処とする幻獣ならいくつか知っているが、そのどれも近隣の海には生息していないはずだ。となると全くの別種だろうか。
「どんなのが相手でも、絶対に討伐するけど」
自信を常に胸に抱き、けれど決して慢心はしない。少しの気の緩みが取り返しのつかない事態を招くこともある。
イブは適当なところで馬車を降り、ついでに受けていた依頼をこなした。農作物を荒らす動物系の幻獣が出るという話だったので、息を潜めて見張り、のん気に現れたところを狩る。後ろから襲うような卑怯な真似はしない。正々堂々真っ向から〈核〉の位置を的確に抉る。〈核〉を破壊された幻獣は、砂の城が崩れ落ちるかのごとく壊れて無数の欠片となり、風に吹かれて散っていくのだ。
ひとまず報酬は貰えたが、せいぜい一日分の宿代だ。食事のことを考えると足りない気もする。次の依頼では多く貰えるかもしれないし、今回と同等かそれ以下かも知れない。
「今日は野宿かなあ……」
太陽は山の向こうに消えかけ、夜の訪れを知らせるように東の空には薄ぼんやりと月が輝いている。安い宿が隣町にあると聞いたのでここまで歩いてきたが、辿り着くより先にあたりが暗くなりそうだ。月明りを頼りに進めないことはないが、もし人を襲う類の幻獣が現れれば夜目の利かないこちらが不利だ。下手に進むのは避けた方がいい。
ふとなにか聞こえた気がして、イブは周囲を見回した。緩やかな傾斜が連続する草原に民家はない。爽やかで心地いい風を受け、背の低い草の群れがいっせいにざあっと音を立てている。
「おかしいな。女の子の声だった気がするんだけど」
ひゃーと楽しんでいるような声だった。今から向かおうとしている町か、先ほど依頼を終えた町の子どもの声が風に乗って届いたのだろうか。
聞き間違いだと判断して再び歩き出したところで、また同じ声が聞こえた。少し前に比べて大きくなっている。前方から聞こえた気がして、イブはじっと目を凝らした。
「――ルさ――のしい――――かけっ――」
「にげ――――べられて――はや――――」
「……二人?」
隣町からやってきた何者かだろうか。初めの声は少し幼い女の子。あとから聞こえた声は男のものだった。こちらに近づいてきているようで、二人の声は徐々に大きくなっていく。それにつれ、なんと言っているかはっきり分かるようになってきた。
「あははっ、楽しいわシェダルさん! 追いかけっこなんて、あたし初めてなの! 追いつかれたら今度はあたしが追いかける番なんでしょう? それも楽しそうだわ!」
「いいからっ、早く逃げないとっ! そんな生易しいものじゃないよ、現状は! 食べられるか踏みつぶされるか……うわーもう追いつかれてるしー!」
「な――」
その時、イブの目は確かに捉えた。強靭な馬の四肢と、それに追いかけられる少女と青年の姿を。
イブは咄嗟に腰の短剣を引き抜いて身構えた。逃げる二人はこちらに気が付いたようだ。長い髪を踊らせて駆けていた少女は、イブを見てきょとんと首を傾げた。対して青年の方は、助かったと言っていいのか警戒していいのか分からない複雑な表情を浮かべて、「逃げて!」と叫んでいた。
二人を追いかけているのはどこからどう見ても幻獣だろう。下半身は馬なのに、上半身は筋肉をむき出しにした人間だからだ。首が無く、鼻が潰れた凶悪な顔が肩の上に直接乗っている。顔の中央には赤く巨大な目玉が一つ輝き、体躯に不釣り合いな長い腕を振り回し、今にも二人を食べようと地面を蹴っていた。
人を襲わんとしている幻獣を前に、黙って見過ごすことは出来ない。イブは勢いよく駆け出した。驚いたように青年は立ち止まったが、イブはその前を疾風のごとく通り過ぎた。その際、青年が「ナックラヴィーだよ、危ないから君も早く逃げて!」と叫んだのが聞こえた。
ナックラヴィー――半人半馬の幻獣だ。毒の息を吐き、不作をもたらすと言われている。海を住処としているはずだが、なぜこんな草原に。疑問に感じつつ、イブは腰にぶら下げていた革製の水入れに手をかけた。にいっと口の端を釣り上げて袋状のそれに切れこみを入れ、突っ込んできたナックラヴィーに勢いよく叩きつける。水を浴びた瞬間、怒号のようないななきを上げて幻獣が停止した。
隙を見逃すことなく、イブは飛び上がってナックラヴィーの瞳を突き刺す。長い腕を振り回されたが、軽い身のこなしであっさりと避けると間をおかずに胸に短剣を突き立てた。ごり、と硬いものが刃に当たる。――これだ。
さらに刃を押し進める。ばきんと亀裂が入る音がした途端、暴れ回っていたナックラヴィーがぴたりと動きを止めた。水がだんだんと氷に変化していくような音が続き、一分足らずで幻獣の全身は石と化した。表面を覆うヒビを刃先で軽くつつけば、つい数分前まで暴れていたのが嘘のようにガラガラと崩れ落ちた。
「新しい水入れ調達しなきゃなあ……」
この場で最適な判断だったとはいえ、水分補給する
背後からおずおずとした足音が近づいてくる。振り返ると、ナックラヴィーに追いかけられていた青年が立っていた。背はそれほど高くないように見えるが、やや猫背気味のせいだろう。群青色の瞳は星空をそのまま閉じ込めたと言われても信じそうなほどきれいで純粋だ。寝癖なのか元からなのか、琥珀色の髪がひょこひょこと四方八方に跳ねている。彼はホッと落ち着いた緩い笑みを浮かべ、「ありがとう」と軽く頭を下げてきた。
「助かったよ。どれだけ逃げても僕の脚力じゃすぐに追いつかれてね……」
「気にしないで。こっちに向かってきたから倒しただけ。あのままじゃ私も危なかったしね。一緒にいた女の子は無事?」
「ああ、ちょっと転んで擦りむいたりはしたけど、大きな怪我はないよ。いやーまさかこんな所まで追いかけてくるなんて思ってなかった」
よほど長い距離を追いかけられたらしい。青年は安堵して緊張がほぐれたのか、気の抜けた声を上げながら地面に座り込んだ。かと思うと、「ぐふっ」と苦しげな悲鳴を上げて顔から地面に突っ込んだので、イブは思わず目を丸くした。彼の背中に少女が突撃してきたのだ。
「遅いわシェダルさん! あたしだけ走っていてもつまらないのよ。それに追いかけてくれたお馬さんもいなくなっちゃったの。追いかけっこはもうおしまいってことなの?」
「追いかけっこじゃなくて、さっきのは逃げてただけで……あと急に抱きついてくるのはちょっとやめてほしい……」
「あら、お姉さん、だぁれ?」
青年の訴えを完全に無視し、少女はくるりとした丸い瞳をイブに向けた。不思議な瞳だ。右は全ての光を飲み込んでしまいそうな黒色なのに、左はアメジストに似た輝かしいすみれ色をしている。無造作に伸びた髪も毛先だけが
少女と同じ疑問を抱いたのか、青年も「そういえば」と顔を上げる。わずかに表情が強張っているのはなぜだろう。
「……もしかして、君、〈機関〉の人?」
「あんな奴らと一緒にしないでよ」同一視されるのを最も嫌っている組織の名を上げられ、イブは眉間に皺を寄せた。「私は幻獣ハンター。『アポストロ』に所属してるの」
「ハンター?」
「あたし知ってるわ! 狩人って意味なんでしょう!」
「お嬢さん、よく知ってるねー。幻獣ならなんでもかんでも壊す〈機関〉と違って、私は『人間に害をなした幻獣』だけを狩るの」
「害をなす? その言葉は知らないわ」
「悪いことをしたって意味。さっきのナックラヴィーの場合、お嬢さんたちを追いかけて、殺そうとしていたように見えたから、狩ったの」
まさか水入れを失うと思っていなかったが、と内心で付け足した。
海水に棲息するナックラヴィーは淡水を嫌う。イブの水入れに入っていたのは団の近くに流れる川の水だった。それをかけたことで幻獣の足止めに成功した。報酬金の出ない狩りはあまり積極的にしないのだが、襲われている人間が目の前にいたのなら話は別である。ひとまず二人が助かって良かったと思うことにしよう。
「それにしても、闇雲に走り回ってたら全然知らない場所に来ちゃったな。君はこの辺りの人かい?」
「期待に応えられなくて悪いけど、私は依頼を受けて町に向かってる途中。見たところあなたたちは旅人? 二人とも旅装だもんね」
「ええ、ええ、そうよ! 悪い人? に連れて行かれそうになったところをシェダルさんが助けてくれて、お母さんに会いたいって言ったら一緒に行くよって言ってくれたの!」
「はい?」
「ああ、いや、えっと……その、人身売買みたいな……」
察した、とイブは一つうなずいた。少女の瞳と髪はかなり珍しいし〝商品〟にされかけたところを青年が助けた、ということだろう。そして保護者のもとに帰してやる道中で幻獣に襲われたと。
「ひとまず助けてくれたお礼を――」するよ、と言いたかったのだろう。青年はなにやら腰回りをまさぐり、あっと引きつった声を上げて固まった。「……カバンが、ない……」
「逃げてる途中に落としたとか?」
「そんな気がするよ! どうしようどうしよう、お金とか干し肉とか記録用紙とか、色々入ってるのに!」
「あらシェダルさん、落とし物をしたの? そういう時は取りに戻ればいいのよ! お父さんからそう教わったわ!」
「取りに戻るって言っても……」
「この暗さじゃ今日は無理だと思うけど。カバンを落としたってことは、あなたたち二人とも灯りになるようなもの持ってないでしょ」
そういうイブ自身もこれから調達予定で、今は持っていないことはこの際黙っておく。
青年はしばらく渋り、腕を組んで悩んでいた。朝まで待ってから探そうというのかと思いきや、意外にも「うーん、取りに行くしかないかあ」と諦め気味に呟いた。
「あなた正気? 止めた方がいいって」
「でも貴重品が入ってるんだよ!」
「そもそも闇雲に走ったって言ってなかった? 戻るもなにも、道分かるの?」
「う……」
「大丈夫よ、あたしが分かるもの!」
すごいでしょうと言いたげに少女が胸を張る。彼女はここまで走ってきた道をしっかり覚えているという。さらに夜目も利くと言い張った。信じられずにイブは疑りの眼差しを向けてしまったが、青年は少女の言い分をあっさり信じた。
「うーん、じゃあ戻ろうか。じゃなきゃハンターの君へお礼も出来ないし」
「まあ道すがらとはいえ働いた報酬が欲しいのは確かだけど、でも、大丈夫?」
あまり度胸の無さそうな青年と、危機感が限りなく薄そうな少女。また先ほどのように幻獣に襲われたら、多分というかほぼ間違いなく死ぬ気がする。ものすごく心配だが、同時に自分が受けた依頼が頭を過ぎり、二人のことを気にしている場合ではないと考え直した。
報酬は欲しいが、二人についていくと時間を確実に浪費する。ここは辞退して別れた方が得策だ。イブがそう申し出ようとした時、「そうだ」と青年が救いを求めるような眼差しをこちらに向けてきた。
「ナックラヴィーから助けてもらった上でさらに申し訳ないんだけど、君、ポルトレガメはどっちの方向か分かる?」
「ポルトレガメ? それならこの道を真っ直ぐ行って……っていうか、あなたたちもそこに行くの?」
「うん、そうだけど……あなたたち『も』? 君も?」
「依頼を出してきたのがそこの人たちだったから」
「お姉さんもあたしたちと同じところに行くの? じゃあ一緒に行きましょうよ!」
「えっ」
「旅の人数は多い方がきっと楽しいわ。そう思わない?」
戸惑ってイブが黙っているのを、少女は肯定と受け取ってしまったようだ。嬉しいわと言いながらくるくる踊りだしてしまった。青年が「いや、違うんだよ」と説得しようとしてくれているが、見事に無視されている。
――あんな無邪気な笑顔を見せられると、断りづらい。
はー、と長いため息とともに頭を抱え、イブは腹をくくった。「いいよ、一緒に行こう」
「えっ、いいの? でも君、依頼があるんじゃ」
「あなたたち二人だけで行くのを黙って見送るのも心配だし、行き先が同じなんだから途中で会うかもしれない。道もあまり分からないみたいだし、だったら用心棒代わりに一緒に行った方がいいかなって思っただけ」
――それに。
イブは改めて青年の身なりに目を向けた。髪はボサボサだがそれ以外はきちんとしているし、ブーツ一つとっても上品だ。使い込んでいると思しきベストやシャツにも擦れているところはなく、青年が用意したであろう少女の可愛らしいワンピースも全くみすぼらしくない。
――この人、そこそこお金を持っているに違いない。
具体的な代金は交渉次第だが、上手くいけば幻獣を一、二体狩るよりも多くの報酬金が手に入る。我ながら最低な考えだとは思うが、それで生活を送っているのだから仕方ないよねと自分自身を納得させた。
イブの内心を知る由もなく、青年は思わぬ提案を素直に受け入れて喜んでいた。少女もひまわりに似た満開の笑顔で飛び跳ねている。
「じゃあ改めて自己紹介。私は幻獣ハンター、『アポストロ』のイブ・ジェメッリ。イブでいいよ」
「よろしくね。こっちの女の子はオリフィニア。で、僕はシェダル・エアストだ」
「エアスト……?」
はてどこかで聞いたようなと思ったものの、結局思い出せず、きっといつか受けた依頼で似たような名前を見かけたのだろうと思うことにした。イブがシェダルと握手を交わすと、オリフィニアが繋がりあった二人の手を、己のそれで上から包み込んだ。
かと思うと、
「じゃあ早速、シェダルさんのカバンを探しに行きましょう!」
オリフィニアはそれぞれの手を引っ張り、跳ねるように駆け出した。本当に探しに行くのか。止めても彼女は全く聞く耳を持ってくれない。イブはシェダルに良いのかと目で訊ねたが、彼は諦めたように苦笑するだけだった。
もしかしなくても、目的地にたどり着くまでこんな調子なのだろうか。
報酬金に目がくらんだ己の選択を、イブは密かに呪った。
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