第1話
穏やかな波に揺られながら、漁師たちは漁船のうえで揃ってため息をついた。海上には何艘ものそれが浮かんでいるが、どの船も成果は芳しくない。いつもの漁獲量に到底及ばない、その日一日の生活を送れるか送れないか程度の魚しか獲れていないのだ。
「ったく、ここ最近めっきり魚が減っちまった。去年のこの時期もこんなんだったか?」
「いや。今年は異常だよ。獲れたとしても、なんだこの指くらいの大きさしかないちっぽけなのは。腹の足しにもなりゃしない」
漁師たちの多くは家庭を持っている。彼らは浮かない瞳で遠くに見える港町を見つめた。
波打ち際から歩いて間もなく緩やかな山が広がり、緑豊かなそこや麓に民家や飲食店がずらりと並んでいる。外壁はいずれもあんず色、屋根は形こそ様々だが色は灰色に統一されている。山の上にぽつぽつと建つのは宿屋か、貴族の別荘だ。数年前は今にも潰れそうな漁村に過ぎなかったが、たまたまやってきた貴族に山からの風景を絶賛され、それから一気に観光地と化した。
海に出ない妻や娘、幼い子どもたちは観光客相手に稼いでいる。飲食店や宿屋で提供される食事に使われる魚は全て漁師が獲ったものだ。当然魚が獲れなければ食事が提供できなくなる。そうなれば観光客は町から離れていき、あそこはまともな食事も出ないと噂が広がれば――考えたくはないが、町は寂れた漁村に元通りだ。
「まるで魚がこの辺りから逃げちまったみてぇだ。海が荒れてるってわけでもねえのに」
「……なんだお前、知らないのか?」壮年の漁師のぼやきに、幼馴染の漁師がひょっと眉を上げた。「この前の夜に息子が見たって言うんだよ。『海の怪物』を」
「怪物ぅ?」
「息子だけじゃない。他にも何人か見たって話だ。お前のところでは?」
共に暮らしている両親や妻、二人の娘からも特に聞いていないと首を振る。もちろん自分もだ。どういう話だと訊ねると、幼馴染はおっかなびっくり語り始めた。
「眠れない夜に海を眺めていると、女のすすり泣く声が聞こえるらしい。初めは小さいが、だんだん大きくなっていく。不思議に感じてじーっと目を凝らすと、波がうねうねと不規則に動き始めたそうだ。まるで巨大な何かが泳いでるみたいにな」
「入り江に迷い込んだクジラじゃねえのか」
「俺もそう思った。けど息子が言うには……」
――波の動きに合わせて、泣き声がだんだん大きくなっていくんだ。怖くなって目をそらそうとした瞬間に、出てきたんだよ。
「出てきたって、なにが。もったいぶらねえでさっさと言えよ」
「だから怪物だよ。バカみたいな大きさで、上半身は裸の女なのに、腰から下はそうじゃなかったってよ。薄暗くてちゃんと見えたわけじゃないし、寝ぼけていたのかもって息子も半信半疑だったが、怪物の話が出回り始めたのと魚がいなくなったのはほぼ同時期だ」
「お前は信じてんのか。この海には怪物がいて、そいつが魚を食っちまったり追い払っちまったって?」
「正直、信じざるを得ないだろ。海も荒れてない、天候も去年と変わりない。なのに魚が獲れない。どう考えてもおかしい……」
「なあ、あれなんだ?」
不意に別の船から訝しむ声が上がった。一人ではない、何人もが同時に港町と反対方向に目をやり、首を傾げている。壮年の漁師も幼馴染と共に視線を投げた。
初めは小さな波だった。ぱしゃんと小魚が跳ねたような軽い音がして、ちらりと覗いた背びれかなにかがゆっくりとこちらに向かい、すうっと音もなく水面下に消える。けれど確実に近づいてきている。波が押し寄せ、船体に当たって泡沫を弾けさせた。
徐々に波は大きくなり、それに揺られて船体もぐらぐらと傾ぐ。風もないのになにごとか。その時「うわあ!」と誰かの情けない叫び声が聞こえた。
「みんな下を見てくれ!」
そんなに慌ててどうしたのかと漁師と幼馴染も海を覗き込む。先に気付いたのは幼馴染だ。
「なにかが船の下を通ってる……?」
「なにかってなんだよ」怪物の話をしたばかりで怯えているのではないかと疑りつつ、壮年の漁師は目を凝らした。数秒後、口から出たのは幼馴染と同じ感想だ。「確かに通っちゃいるが……やっぱりクジラじゃねえか?」
「それにしてはデカすぎるし、長すぎる。……待て、こいつ俺たちの船を、」
取り囲むように、と幼馴染が続けるより早く、別の船で悲鳴が上がった。
落雷に似た轟音を立てて水柱が上がっている。直撃を受けて転覆したようだ。海に投げ出された仲間たちは必死に泳いで近くの船に助けられ、その中の何人かは水中でなにを見たのか、口々に「怪物だ、怪物がいる」と怯えつつそれの大きさを身振り手振りで懸命に伝えている。
二撃目が来て、次は自分たちが同じ目に遭うかもしれない。察した者から船を港に向かわせるが、先ほどまでの静寂が嘘のように海が荒れ、漁師たちを行かせまいとするかのごとくあちこちで波が渦巻いている。
オオ、と水中から声が響く。なるほど女の泣き声に聞こえなくもないが、すすり泣くというよりも、
「これは恨みのこもった叫び声じゃねえのか……!」
「分からんが、今はとにかく逃げ、」
別の船が転覆した。今度は水柱ではなく、別のなにかに上から叩きつけられたようだ。壮年の漁師も仲間を助けつつ、その場から必死に退避した。幸い襲われることもなく無事に帰港出来たものの、現場はひどい騒ぎになった。あれだけの水柱が上がったのだ。当然家々からも見えただろう。港には家族や観光客が押し寄せ、一体なにがあったのだと口々に声をかけてくるが、漁師たちにも分からないのだから答えようがない。混然としている間に海は元通りの静けさを取り戻し、すすり泣く声も聞こえなくなった。幻だとからかう気丈な若者もいたが、そうだと断じるには難しいほど、あまりに大勢が一連の騒動を目撃していた。
翌日、また翌日も同じような現象が起こり、誰もが海に出るのを恐れるようになった。この間は誰も死ななかったが、あれは運が良かっただけだ。なにかに叩きつけられた船は木っ端微塵に大破している。人が直撃を受ければどうなるか、想像に難くない。
このままでは生活が立ち行かなくなる。皆の意見が一致するのは早かった。
漁師たちは一枚の紙を用意し、文言をしたためた。
「『超大型幻獣討伐』? なにこれ?」
掲示板に張り出されていた一枚の依頼書を見て、イブは思いきり首を傾げた。依頼人は近くの港町、そこの大勢の住人たちだ。現地に行くまでの宿代や移動費は自腹だが、報酬金も悪くないし赤字にはならなさそうだ。それだけなら一般的な依頼だが、「超大型」というのが気になる。大型と呼ばれるものの代表例はドラゴンだが、それより大きいとなるとかなりの大物ではないだろうか。
「最近、近くの海が荒れている話を聞いたことは?」イブの疑問に答えるように、近くの椅子に腰かけていた少年が言う。依頼受付の担当者だ。
「数日前から風もないのに波が荒れ狂い、いくつもの船が被害にあっているそうです。幸い今のところ死者は出ていませんが、観光地ということもあり客足が激減していると。恐らく幻獣の仕業ではないか、と依頼書を持ってきた者たちは口をそろえて言っていました」
「恐らく? 不確定なの?」
「なにせ姿をはっきりと見たものは誰もいませんので」
それは「見た者は全員死んでしまったのだ」というオチだろうかと思ったが、そういうわけではないらしく、今のところ怪我人はいるが死者はいないという。
海に投げ出された漁師たち数人は幻獣と思しきなにかを目撃したそうだが、ぼんやりとした姿なら目の当たりにしたものの、具体的な特徴までは掴めなかったという。水中では視界も濁るし、当然といえば当然で仕方がない。
「超大型とつけたのも、どちらかというと『どれくらいの大きさか分からないし、そもそも幻獣かすらも怪しいから』です」
「実際に現地に行ってみて肩透かしを食らう可能性は」
「大いにあります。自然現象という線も消えたわけではありませんし、全員が幻覚を見たという選択肢も捨てきれません。まあ証言で『上半身は女だった』とありますし、同じ幻覚を何日にも渡って複数人が見るとは考えにくいですから、幻獣とみて間違いないと僕は思っていますが」
そして現地の住人たちは幻獣ハンターに討伐依頼を出した。とにかく助けてほしいと懇願していたそうだが、まだ依頼書が張り付けてあるということは、まだ誰も依頼を引き受けていないということに他ならない。
超大型という未知のくくりだし、本当に幻獣か分からない。実際に足を運んで単なる自然現象なら無駄足になる。その場合、幻獣を討伐したわけではないので報酬金が支払われることはない。だったら確実に幻獣がいて、ちゃんと報酬を受け取れる依頼を先にこなした方が懐は潤う。
「どうします、イブ。他のハンターと協力しても構いませんよ」
「いやです。そんなことしたら報酬を独り占め出来ないし。……待って、なんか私が引き受ける前提に話進んでない?」
「あなたなら喜んで受けるのかと。まだ誰も見たこともない、倒したこともない幻獣かも知れないんですよ。イブが張り切らないわけがないと思っていたんですが」
「……お見通しってわけか」
少年が指摘した通り、イブは先ほどからずっとわくわくして堪らなかった。
例え肩透かしでも構わない。未知の幻獣がいるのならこの目で見てみたいし、自分の手で討伐して功績を上げたい。今すぐにでも依頼を受けて、団に戻ったばかりだというのに飛び出していきたいくらいだ。
ついでにここ最近は小物の討伐依頼が続いてむしゃくしゃしていた。久しぶりに大暴れしてみたい気分でもある。
――そうしていればいつか、お父さんみたいなハンターになれる。
――いや違う。お父さんを追い越せる。
「決めた! 受ける!」
依頼書をひきはがし、イブは勢いそのままに少年に押し付けた。討伐にかかる期間は何日でも構わないが出来るだけ早めが好ましい。現地に辿り着いたら自己紹介を忘れないこと。依頼の撤回は三日以内なら可能なこと。その他もろもろ必要事項を確認し、道中で遭遇しそうな幻獣の討伐依頼もいくつか一緒に引き受けた。小遣い稼ぎにちょうどいい。
「こんなに受けて、大丈夫ですか?」
「いいの。もしかして到着するまでに体力が尽きたらどうするんだって心配してる?」
少年はなにも言わなかったが、無言は肯定ととらえていいだろう。
「これくらい平気だよ、問題ない! 体だって動かさないと腕や勘も鈍っちゃうしね」
最低限の荷物を手に、イブは団を出た。すれ違った団員たちからは驚かれたり冷やかされたり様々な反応をもらったが、みな最後には応援してくれた。
幻獣ハンターの数は世界的に見ても多くない。ハンターたちが集まった団も、イブが所属する「アポストロ」を含めて三つしか存在しない。だからこそ団員同士の結束力は強く、家族同然の温かさと厳しさで接してくれる。
依頼のあった港町まで、徒歩だけなら一週間はかかるだろう。山を二つほど越えなければならないからだ。少年は言っていなかったが、同様の依頼が他の団にも提出されている可能性も捨てきれない。出来るだけ急がないと先を越されてしまう。乗馬能力があれば良かったのだが、残念ながらイブは普通の動物には怖がられる
「仕方ない。ちょっとずつ馬車も使うか……」
そのためには、まず人の往来の多いところまで出なくては。アポストロがあるのは辺境の田舎町といっても過言ではなく、馬車の通りなんて一週間に一度あるかないかだ。それを待つのも時間の無駄だし、大きな町まで出た方が早い。
大きく伸びをして気合を入れ、イブは颯爽と歩き出した。
商売道具でもある武器の短剣を忘れていたことに気付き、戻ってきたのは数分後だった。
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