溟海の乙女―彼方に集う獣たち―

小野寺かける

プロローグ

 イブが本格的に幻獣ハンターになりたいと言った時、母は渋った。ものすごく。

 当然だろう。なにせ夫――つまりイブの父も幻獣ハンターだったのだが、任務の途中で命を落としたからだ。それ以前から何度も命の危機に晒されてきたし、そのたびに母は「もうこんなこと止めてほしい」「落ち着いた生活をしてほしい」と涙ながらに頼んでいた。が、父は豪快に笑って「止めない!」と再び任務に旅立っていく。

 あなたはあんな風になっちゃダメよ、女の子なんだからと母は幼いイブに繰り返し言い聞かせてくれたものの、その願い虚しく、イブが父に抱いたのは強い憧れだった。逞しく美しい体つきをうかがわせる広い背中と、腰で揺れる何本もの短剣。泥で汚れてよれよれのブーツや短い袖から伸びる日焼けした肌など、およそハンターとは思えない軽装備ではあったが、それでも父は何度も成果を上げて家庭に恵みをもたらしてくれた。

 父の任務についていったこともある。頭や腕をいくつも持つ恐ろしい巨人や、頭は鳥なのに体が蛇のようにひょろ長い奇妙な怪物を、父は次々と討伐していた。母に内緒で父から教えを受けるようになってからは、イブ自身も幻獣を狩るようになった。

「お父さんが死んでもう四年経ったし、私も十七歳だしさ。団長も『そろそろお前自身が所属してもいい頃だろう』って言ってくれたよ」

「けどねえイブ。私は心配だしイヤなのよ。お父さんが死んだ時『これがあなたの夫です』って戻ってきたのは下半身だけ。上半身は怪物の腹の中って! あなたがそんな目にあったら、お母さんどうにかなっちゃうわよ」

「あーもう。不吉なこと言わないで。大丈夫、こう見えても団内では結構実力あるんだよ。それとも私の腕を信じられない?」

 母は唸った。イブの実力を認めているからこそだ。結局イブは母からそれ以上の反論を受けることもなく、半年に一回は帰ってくると言い残して半ば勝手に家を出てきた。呼び止められなかったし、なにを言っても無駄だと諦められている可能性が非常に高い。

 腰で揺れる武器は父から受け継いだ短剣。身にまとうのはきらびやかだけれど重苦しいドレスではなく、軽くて動きやすて地味な白いシャツと朱鷺とき 色のベスト、ねずみ色のパンツ。母によく似た小麦色の髪は首回りで適当に切り揃え、控えめなまつ毛の下では橙色の丸い瞳が燦然と輝いている。

 まずは親の了承が取れたことを報告しに行かなくては。これまでイブは正式な団員ではなく、あくまで父の代理として在籍していた。任務を受ける時も父の名前、受け取る報酬も父の名前だった。それに不満があったわけではないが、なんとなく自分を見てもらえていない気がしてもやついていた。だが正式に入団が決まれば自分の名前で任務を受けられるし、自分の名前で報酬がもらえる。

 うずうずと体の奥底で熱が渦巻いた。期待と歓喜と希望が混ざりあい、油断した途端に喉の奥からマグマに似た喜びの叫びが飛び出してしまいそうだ。ただ周辺に民家が密集しているので自重して、ウサギのように飛び跳ねながら道を往くに留めた。

 町を見下ろせる高台で立ち止まり、振り返って眼下を眺める。

 生まれ育った小さな町。閉鎖的で窮屈だけれど、人はみんな温かくて優しく、けして悪いところではなかった。けれどイブが生きるには狭すぎた。

 頭上を振り仰げばどこまでも青い大空が広がっている。ふわふわと左右に広がった雲がまるで神が両手を広げているように見えて、これからの旅路に大いなる祝福を授けられた気がした。

『いいか。人生は成功ばかりじゃない。失敗だって当然する』

『お父さんも?』

『当たり前だぞー。むしろ新人の頃は失敗続きで、何度もやめてやるって思ったさ』

 イブが父の任務についていくようになってしばらく経った頃、父は過去を恥ずかしがる様子もなく、むしろ胸を張って教えてくれた。

『でもな、お父さんは諦めなかった。絶対に出来る、成長するって信じ続けた。それを積み重ねて出来上がったのが今のお父さんだ。お前もハンターになりたいなら、間違いなくお父さんと同じことを経験する。でも折れるな、投げ出すな。思うだけならいいが、それは行動に移しちゃいけない』

『むずかしくてよく分かんない』

『結構まじめに話したつもりだったんだけどなあ!』

「――今なら分かるよ、お父さん」

 胸元でちらちらと揺れるネックレスを、服の上からそっと撫でる。父の遺品の一つだ。両親がまだ若かったころ、二人で出かけた先で購入したという三日月のネックレス。俺には似合わないからと父はあまり身に着けていなかったそうだが、おかげで今こうしてイブの首にぶら下げることが出来る。もし父がちょっとお洒落をして任務に当たっていたら、今ごろ幻獣の腹の中に収められていただろう。

 諦めない。くじけない。投げ出さない。弱い心を持ち、考えるだけなら構わないが本当に逃げ出してはいけない。父の教えを噛みしめるように、ネックレスを強く握りしめた。もうイブの目に、心に迷いはない。

 翌日、団に戻ったイブは正式に団員として認められ、証しとして月を模ったバッジを渡された。イブが男だったら太陽のバッジだったらしい。確かに父もそちらを常に身に着けていた。

 イブは積極的に任務を受け、着々とこなしていった。父が言っていた通り失敗もしたが、諦めることはなかった。むしろ自分の好戦的かつ挑戦的な導火線が燃え上がり、集団で任務に当たらなければならない下っ端という地位から始まったのに、半年後には単独行動を許される地位にまで上り詰めていた。

 約束通り母のところに帰ってそのことを報告すると、母は心の底から褒めてくれたが、でもやっぱりハンターなんてと心配してくれた。母を安心させるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

「次に帰ってくるときは、またちょっと立派になったハンターとして帰ってくるから。ね!」

「本当ね? 体には十分気を付けるのよ。それとご飯もちゃんと食べて……」

「はいはい、分かった! じゃあね、また半年後!」

 母のおろおろとした顔に見送られ、イブは次の任務を受けるべく団に戻った。

 けれど。

 次の任務を受けたがゆえに、イブが再びハンターとして帰ってくることはなかった。

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