3
朱華は部屋という部屋をくまなく確認して回った。真幌が何処にいても良いようにと、身構えながら。
茜色の空は夜闇を孕み、段々と紫色に変わりつつあった。もう間もなく、未だ残り続けている赤みも消えてしまうのだろう。
光がなければそれだけ捜索も困難になる。朱華としては、早いところ真幌を捜し出して聴取に回りたかった。
辺りに飛び散った過去の血飛沫も、今となっては風景のひとつとしてしか認識されない。ぎしりぎしりと鳴る床を踏みしめながら、朱華は一人嘆息する。
「……厭な慣れだな」
朱華とて血を見ることが極めて苦手、という訳ではない。しかし、飛び散った血痕を異常なものとして忌避する心はあった。
余程恵まれた生まれでもなければ、血を見ずに生きることなど──いや、それこそ盲目でもない限り人間は血の鉄錆びた赤を見ずには生きていけない。
だが熾野宮邸のそれは日常のうちに流れるものではない。それゆえに、知らず知らずのうちに慣れてしまった己が恨めしかった。
朱華は雑念を振り払う。今は余計なことを考えている時ではない。
まずは真幌を見つけることが先決だ。諸々の回顧はその後にでもすれば良い。
これまでと同じように、朱華は躊躇なく襖を開ける。真幌がいることを願いながら、閉ざされた部屋を開いていく。
「此処は……」
襖の閉まった状態ではわからなかったが、其処は昨日に真幌が一同を集めた大広間だった。面積が広い故に、がらんどうであると他の部屋よりも物寂しく思える。
しんと静まり返った其処を、朱華は一歩一歩進んでいく。奥に進むにつれて、必然的に入る光も弱くなる。
「……真幌君、いるかい」
薄暗い室内に、朱華は声をかける。この時点では、室内に誰がいるかはっきりとはわからない。
一歩。大広間に足を踏み入れる。
「真幌君」
再度呼び掛ける。返事はない。
何度か呼び掛けても返事がないということは、この大広間に真幌がいないことを意味すると考えて間違いはない。
しかし、朱華は其処まで短絡的ではなかった。もしかしたら、真幌は何処かに隠れているのかもしれない。自分から逃げているのかもしれない。裏の裏まで読まなくては、彼を見つけることなど不可能だ。
──それゆえに、朱華は返事も何もない大広間を去らなかった。四方に注意を払いながら、人の隠れられそうな場所がないか見回していく。
「真幌君」
返事が返ってくることはない。それでも、満足がいくまで朱華は真幌の名を呼ぶ。
──此処にはいないか。そんな考えが朱華の脳裏を僅かに掠めた。
大広間は広さこそあれど、隠れられるような場所はほとんどない。強いて言うなら、押し入れと屏風の後ろくらいのものだ。押し入れは現在確認したばかりだが、中には家財道具が押し込められているだけだった。とてもではないが、人間が隠れられるだけの余裕などない。
此処を確認したら終わりにしよう。そう思いながら、朱華は一段高くなった場所に置かれている屏風を退かす。
其処には、一人の青年が転がっていた。
「──っ!」
朱華は思わず身構える。
屏風と壁の隙間に挟まるようにして転がっている青年。彼の顔には見覚えがあった。
「和比古君──!」
目を閉じたままぴくりとも動かない青年。それは、共に熾野宮邸へやって来た一人──富ノ森和比古に間違いなかった。
朱華は慌てて和比古の胸に耳を押し付ける。規則正しい心音が、押し付けた耳を通じて感じられた。息はしている。
──と、なれば。和比古は気を失っているだけと見て差し支えはないだろう。朱華は一先ずほっと胸を撫で下ろすが、まだ安堵してはいられなかった。
(目立った外傷はないようだが……それでもただ眠っているだけとは思えない。このような場所に隠されるようにして転がっていたことも違和感がある。和比古君はこんな場所で呑気に居眠り出来るような人物には見えないし……)
朱華は和比古の人となりを詳しく知っているという訳ではない。むしろ他の面々に比べたらからきしといったところだ。
しかし、それでも納得いかないことに変わりはない。和比古は特に神経質で、熾野宮邸からも出たがっているような素振りが多かった。そんな彼が、この場で気を抜くとは到底考えられない。
とにもかくにも、息があるのならそれに越したことはない。朱華は和比古をゆさゆさと揺さぶる。
「和比古君、和比古君。僕だ、斯波朱華だ。わかるかい」
「……う……」
暫し声をかけ続けていると、和比古は怠そうな呻き声を上げながら目を開けた。
右手で片目を擦りながら、彼はおもむろに起き上がる。──そして、朱華の姿を目にして顔をしかめた。
「……ち、お前か。何をしている」
「それは此方の
皮肉混じりに朱華が答えるや否や、和比古の顔色がみるみるうちに変わっていった。具体的に言うと、一瞬にして青ざめたのだ。
朱華が言葉をつぐ前に、和比古はがたがたと震え始めた。尋常でないことは明らかである。
これには朱華も皮肉ばかり突っ返している訳にもいかない。和比古の側に寄り、出来るだけ怯えさせないようにと心掛けながら声をかける。
「ど、どうしたんだい、和比古君」
「あ、あ、あの女、あの女だ。あの、山で出会った──あの女が、俺を──」
「女──というのは、平太君を介抱していた彼女のことかい?」
和比古が美代の名前を知っているかはわからなかったので、朱華は確実に共有しているとわかる情報を提示する。
朱華の言葉を受けた和比古は、わなわな震えながら首を縦に振った。あの女というのは、美代で間違いないようだ。
「そ、そうだ、その女だ。名前は知らんが、ともかく奴が俺の前に現れたのだ」
「それは、何時、何処でだい?」
「確かな時間はわからないが──だが、まだ太陽が真上に昇っていた頃だったと思う。俺はあれからずっと書庫で文献を漁っていたんだ。その時に、あの女が現れて──」
「現れて?」
ずい、と朱華は身を乗り出す。美代が関わっているというのなら、関係者として看過は出来ない。
和比古は荒い呼吸を繰り返した。朱華以外の誰かに聞かれることを恐れているのか、頻りに視線を移ろわせている。
あまりに可哀想なので、朱華は和比古の背中を擦ってやった。彼が生意気なお坊ちゃんであることに変わりはないが、だからといって狼狽えている様を見て心が動かされない程憎んでいる訳でもない。彼に同情するだけの情は持ち合わせているつもりだ。
しばらく和比古は黙ったままだった。余程切迫しているのだろう。朱華も何となく察しがついたので、急かすような真似はしなかった。
(和比古君の言葉に嘘偽りがないのであれば……彼は美代に何らかの干渉を受けたということになる)
震える和比古を見遣りながら、朱華は一人黙考する。
これまで、美代は干渉してくることはあれど此方に実害をもたらすような存在ではなかった。むしろ、倒れていた平太を介抱し、この屋敷で休ませていたくらいなのだ。積極的に他者へ危害を加えるような存在とは思えない。
しかし、彼女が時折浮かべる負の感情は、朱華でさえもぞっとするような薄ら寒さを帯びていた。
彼女の過去を朱華は知らない。知っているはずがない。だが、あのような表情を前にしては想像せずにはいられない。
他者の過去を想像し、憶測でものを考えるなど無作法に尽きる。それは朱華もよくよく理解していることだ。
(だが、それでも)
それでも、朱華は考えてしまう。美代という少女の思惑を。
彼女は何をもって自分たちに干渉するのだろうか。美代は、己のことを熾野宮の関係者ではないと言った。ならば何故、彼女は熾野宮邸にいるのだろうか。
「……言ったんだ、俺に」
ぽつり。
和比古の唇から溢れた言葉。それは、思案の内にあった朱華の意識を現へ引き戻した。
暫しの沈黙を経て、和比古はだいぶ落ち着きを取り戻したようだった。まだ顔色は悪く二の腕を抱き締めてはいるが、呼吸は先程よりも安定している。
朱華は何も言わず、黙って和比古の紡ぐ言葉に耳を傾ける。此処は聞き役に徹するのが常道だろう。
和比古は一度ちらりと朱華を横目で見た。すぐに視線を下方に戻してから、彼は告げる。
「……このまま時が過ぎれば、次に死ぬのは俺だろう──と」
そう言うと、和比古は膝を抱えてうつむいてしまった。自信家な彼ばかり見てきた朱華としては、驚かざるを得ない光景である。
──次に死ぬのはお前だ、と。そう美代は言ったのか。
朱華はごくりと唾を飲む。何とか平静を装いながら、和比古に問いかける。
「……彼女は、他に何か言っていたかい」
「いいや、何も……。彼奴は人でなしだ、人の血など通ってはいない。それだけ告げると、踵を返して立ち去ろうとした。勿論、俺は死にたくない、何故死なねばならんとあの女を追いかけて抗議したさ。だが、彼奴は──あの女は、何も言わずに振り返っただけだった。その顔は、とても──とてつもなく、冷たく凍てついていた」
思い出して恐怖がぶり返してきたのか、和比古の声音に震えが混じる。
「大の男が小娘一人に気圧されるとは情けない話と思うやもしれんが、あれはそれだけ恐ろしかったのだ。きっとお前も怯えるだろうよ。嗚呼、思い出すだけでも寒気がする! あれは化け物だ、人ではない! 人であるならば、あのような顔など出来るはずがない!」
「……わかった。しかし、何故君は此処で気を失っていたのだい? 今の話では、君が此処に至った経緯がわからないんだが」
「そんなものは俺が聞きたい! 俺だって、何故己が此処にいたのかなどわからない! あの女の顔に気圧されて、後ずさって……嗚呼、そうだ、あの女にやられたのだ! あの女、一瞬で俺の間合いに入り込んだかと思うと、凄まじい力で腹部を殴り付けてきた!」
頭を抱えて、和比古は今にも泣き出しそうな声で叫ぶ。それだけの傷を心に残すだけの出来事だったのだろう。
和比古が嘘を言っているようには見えない。彼が相当な演技派であるならば話は別だが──此処で和比古を疑うのは野暮である。
「……和比古君。では、君は件の少女に攻撃されて気を失い、目を覚ましたら此処にいた──ということで良いのだね?」
「さ、先程からそう言っているだろう! は、早く逃げねば、またあの女に襲われる……!」
「わかった、わかったからまずは落ち着いて。此処にあの子はいない。今此処にいるのは僕と君だけだ。いないものをいちいち怖がっていては、君の心が死んでしまうよ」
へっぴり腰で逃げ出そうとする和比古を、朱華はやんわりと宥める。このまま彼を放置しておいては本当に命を落としかねない。
しかし、美代は何故に和比古に接触したのだろうか。朱華はこれまでの彼女の言動を思い返してみる。
たしかに、美代は何かを凄烈に恨んでいるように見える。しかし、その対象は果たして和比古なのだろうか。むしろ、彼女は攻撃するのではなく和比古に何か宣告しただけなのではなかろうか──。
がたり。
多少距離を感じさせる物音が朱華の耳に入る。
ひっ、と悲鳴を上げる和比古を背中側に庇いつつ、朱華は振り返る。音の方向からして、朱華が開けた襖の辺りだろう。
「──誰か、いるの……?」
「……君は」
弱々しく、か細い声。その声の主を、朱華は知っている。
「あ、あ、お前は……!」
朱華の背中から顔を覗かせた和比古が、驚愕を隠そうともせずに声を震わせた。朱華からは見えないが、彼の顔は再び青ざめていることだろう。
其処に立っていたのは、太刀を抱き締めた真幌だった。
彼はよろよろと、覚束ない足取りで此方に近付いてくる。相変わらず太刀は抜けていないようだった。
いや──今は太刀などどうでも良い。
「真幌君──どうしたんだい、その怪我は」
「…………」
真幌の腹部。其処は暗がりでもわかる程赤く染まっていた。
夕日を受けただけではあるまい。真幌の着物を濡らすそれは、たしかに彼の血潮である。真幌が動く度に、ぽたりぽたりと床に赤い染みを作っていく。
軽傷でないことは確かだった。朱華は真幌に駆け寄りたい気持ちを抑えながら、彼の答えを待つ。
「……ボクは、救世主ではなかったみたいだ」
一歩一歩、踏みしめながら。真幌は朱華たちに歩み寄る。
「救世主であったなら──そう。ボクは誰も恨めないはずだった。だって、救世主は万人を救うべくして生まれるものだからね」
「……真幌君」
「でも、ボクは──ボクには、無理だ。とても痛くて、苦しくて──。救世主なら、こんな怪我などに気を取られることなどないというのに──。ボクは、ボクを傷付けた者を恨めしいと思っている」
「だ、誰に、誰にやられたのだ白木院! あの女か? あの女に、傷付けられたのか⁉」
真幌の目は和比古を捉えない。ただ、歩を進めるためだけに身体を動かしている。
「嗚呼──ボクは、愚かだった。朱華の言う通り、ボクは救世主の器などではなかったんだ。こんなことにならなければそれがわからないなんて──ボクは相当な愚か者だ」
「真幌君、君は──」
「──朱華。お前に、頼みたいことがある」
やっと朱華の眼前までやって来た真幌は、彼に向けて力なく微笑んだ。時折咳き込む彼の唇からは、赤い液体が唾液に混じってだらりと垂れる。
真幌は正気だ。血に濡れて初めて、彼は正気を取り戻したのだ。救世主という熱に浮かされていた真幌の意識を覚醒させたのは、ただただ純粋な痛みだけだった。
真幌の細い腕が伸びる。血のこびりついた手に握られたそれを、朱華に手渡そうとする。
「朱華。ボクを殺してくれないか」
真幌の声はか細くこそあったが、一切の迷いを含んではいなかった。
本気だ。本気で、この少年は殺されたがっているのだ。彼は、朱華に介錯せよと頼んでいる。
「ばっ、馬鹿を言うな!」
真っ先に叫んだのは和比古だった。彼は血相を変えて、真幌の前へと飛び出した。
「こ、こ、殺せ、など……! お前っ、ふざけるのも大概にしろ! その前に、誰にやられたのかを──いや、まず医者だ! 医者に診てもらわなくては! 今から村へ下りれば……!」
「無理だよ。きっと間に合わない。それに、ボクを傷付けた者は、恐らくお前たちのことも抹殺するつもりだろう。朱華のことをどう思っているかはわからないけれど……。でも、和比古。このままじゃ、お前は絶対に殺される。彼奴はお前のことを邪魔だと思っているようだから」
「しかし……!」
「別に、見たくなければ目を背けていれば良いさ。お前は臆病者だからね。知り合いが殺されるのを見たくはないのだろう? 大丈夫、お前が目を逸らそうとそうでなかろうと、ボクはお前に対してどうとも思わない。ただ単に、暇そうだったからという理由で誘った相手だ。彼是と複雑に考える理由はないよ」
追い縋ろうとしてくる和比古を、真幌は冷徹に一蹴する。大怪我を負った人間とは思えない程冷えた響きであった。
へなへなとその場にへたりこむ和比古を通り過ぎて、朱華は無言で真幌の側へと進み出る。そして、彼が突き出した掌にあった太刀を確かに受け取った。
真幌は居住まいを正す。背筋を伸ばした彼の後ろに立った朱華は、小さく深呼吸をしてから真幌に問いかけた。
「……ひとつ、聞いても良いかい?」
「……何かな?」
「──どうして、僕に頼んだ?」
朱華からの問いかけに、真幌は暫し口をつぐんだ。
数秒間の沈黙。その後に、真幌は口を開く。
「知り合いを人殺しにしたくはなかったし、和比古には出来ないと思ったから。彼奴は臆病だし、生き物を殺したことなんてない。それに、命を奪うという重責に耐えられそうもなかったからね」
「おや、では僕は耐えられると?」
「そうだね。少なくとも、和比古よりはましだと思う。それに、此処での一件を除けば、お前とは全くの他人……関わる機会なんてないにも等しい。お前は何とでも言い訳をして、責任から逃れられる。そうだろう?」
振り返ることなく、真幌は朱華に同意を促す。その声は痛みからか、さらにか細く消え入りそうだった。
朱華は何も言わない。無言なまま、彼は鯉口を切った。
刀の扱い方すら知らなかったこの少年を、自分は斬ろうとしている。それに対して後ろめたさがない訳ではない。
しかし、素人目に見ても真幌の怪我は尋常ではなかった。和比古は医者に診せようとしているようだったが、仮にそうしたところで手遅れであることは目に見えている。それならば、少しでも苦しませずに死なせた方が真幌のためだ。真幌自身も、それを望んでいる。
白刃が煌めく。暗さを増した室内に、白銀の光が閃いた。
あまりにも呆気なく、真幌の首は胴体から離れた。そう時間を置かずに、ごとり、と重みのある音が響く。
「あ、ああ──」
和比古が悲鳴とも吐息ともつかない声を上げる。彼は学友の死から目を背けなかったのだろう。真っ青になって震えている姿が容易に思い浮かぶ。
朱華は軽く太刀を振るって血を落とす。所々血痕がこびりついていた畳に、真新しい染みが生まれた。
細く長く、朱華は息を吐く。そして、つい、と視線をずらした。
「……もう隠れていなくても良いんじゃないのかい」
「え……?」
いまいち状況が飲み込めていないらしい和比古が、間の抜けた声を上げる。
それとほぼ同時に、朱華や真幌が入ってきたのと同じ場所で、ゆらりとひとつの人影が揺れた。その人影は、朱華や和比古に比べると小柄で、何処と無く頼りない印象を受けた。
「し、斯波、様」
上擦った声を出しながら、その人影は大広間へと足を踏み入れる。朱華がその姿を見るのは久方ぶりであった。
朱華は無表情のまま、『彼』に視線を送る。抜き身の太刀を鞘に戻すこともせず、視線の先にいる人物に向けて口を開く。
「……平太君。随分と間が悪いものだね、君は」
「斯波様、ど、どうして……。どうして、そのようなことを」
朱華の目線の先にいる少年──平太は、わなわな震えながら首のなくなった真幌の体を凝視していた。朱華たちのいる場所からは、薄暗いこともあってか平太の表情を窺い知ることは出来ない。
きっと、平太は真幌がこのような最期を迎えることになるとはわかっていなかったはずだ。まさか朱華の手で真幌が死ぬことになるなど、思ってもいなかったのだろう。
ゆらり、と朱華の体が動く。
緩慢に、ゆっくりと。朱華は悠然とした足取りで、平太に近付いていく。その手に太刀を握ったまま。
「平太君」
呼び掛ける声に温度はない。無機質で、抑揚のない──一切の感情を感じさせない声音。
がちがちと歯を鳴らす音が朱華の耳に入った。それは平太のものか、はたまた彼の主人である和比古のものか──。どちらにせよ、やるべきことは変わらない。
朱華の歩が止まる。それすなわち、彼が平太の目の前にまで到着したことを意味する。
「どうして、と君は問うたね」
朱華の目が細められる。その視線は、平太を上から下まで舐め回すように移ろう。
平太は何も言わない。──否、言えないのだ。彼は、朱華が醸し出す圧に耐えることで精一杯なのだから。
真幌の首を刎ね、その返り血を浴びた朱華の姿はさぞ凄絶なことであろう。血痕だらけのこの屋敷にいるが故に、彼はその身に言い様もないおぞましさと血生臭さを纏っている。
「ならば、僕からもひとつ問おう」
穏やかでゆかしく、花鳥風月を愛でる若者はもういない。其処にいるのは、血に濡れた一人の男のみ。
彼は問う。従者の少年に、容赦なく糾問する。
「何故、真幌君を傷付けた?」
暗がりに立つ平太の着物や両手は、べったりと赤い血に汚れていた。それはもう、少し怪我をした、などというものではないくらいに。
平太は目を見開く。そして、数秒間沈黙した後に重々しく口を開いた。
「そ、それは……斯波様だって、同じではありませんか」
「そうだね。僕も血で汚れている。だが、これは真幌君を介錯したが故だ。それは僕だけが知っている訳ではなく、其処にいる君の主人──和比古君も理解している」
「だったら──!」
「──しかし、君が血に濡れる理由を僕は知らない。憶測でしか、君の被っている返り血について考えられないんだよ。だから僕は真実を見抜けていないかもしれない。もしそうだったのなら、どうか謝罪をさせてくれ」
真っ直ぐ過ぎて最早鋭く尖った朱華の言葉は、たしかに平太の精神を穿った。
う、とかぐ、とか言う音が、平太の唇から漏れる。彼は苦しげに顔を覆い、そして──。
「──黙れッ!」
ひゅ、と空を切る音が朱華の耳に入る。
何が起こったのか、瞬時に理解することは不可能だった。ただ、このまま突っ立っていては何らかの害を被ることになると判断した朱華は、直ぐ様身を捻って回避の動きを取った。
「へ、平太!」
未だ屏風の側でへたりこんでいる和比古が、上擦った声で叫んだ。
朱華はすぐに体勢を立て直し、太刀を構える。この長さのものを室内で振り回すのは危険だが、丸腰でいるよりかはずっと良い。
眼前に立つ平太は、はあっ、はあっ、と荒い息で此方を睨み付けていた。その手には血のこびりついた、小ぶりな包丁が握られている。大方、主人の荷物の中に紛れ込ませていたのだろう。
「お、お、お前に、何がわかる!」
回らぬ舌で、平太は聞き手によっては悲痛とも取れる声を上げた。震えながら刃物を持つ手がそれを助長している。
朱華は平太の目を見つめる。彼の目には、今の自分が鬼のように映っているかもしれない。
「……平太君。君に同情するか否かは人によりけりだと思うがね。君が真幌君を傷付けた──そう仮定して、良いのだね?」
「う、あ、あ──」
「
「……っ!」
朱華としては、あまり平太を刺激したくはなかった。それゆえに、太刀を構えたまま、微動だにせずに言葉を紡いだ。
しかし、それが平太にとっては恐ろしかったのかもしれない。
彼は唇を引き結ぶと、朱華に背を向けて駆け出してしまった。どたどた、と平太が駆けていく足音が遠ざかっていく。
「…………」
朱華は平太を追いかけなかった。単独であったのなら彼を追いかけて首根っこを掴んでいたかもしれないが、此処にはまだ一人生者がいる。
「な──平太、が」
情けなく座り込んだまま、和比古は目を見開いて朱華──そして先程まで平太がいた方向──を凝視していた。
真幌の死を前にした彼にとって、それは追い討ちとも言える出来事だったのだろう。己が従者が真幌を傷付けた。確実にそうと決まった訳ではないが、和比古はそれ以外に考えられなかったのだろう。さらに顔を青くさせて、虚空を見つめる他なかった。
朱華は何も言わず、黙って刀身を鞘に戻す。そして、ゆっくりと和比古のもとまで歩を進めると、彼に向かって右手を差し伸べた。
「立てるかい」
朱華の問いかけに、和比古は答えない。ただ黙ったまま、彼の手を借りて立ち上がった。
和比古が地を踏み締めることが出来ると確認してから、朱華は改めて彼に視線を向ける。初対面では酷く勝ち気で高慢な印象を受けた良家の子息の顔は、今ではすっかり憔悴して青ざめていた。
「……場所を変えよう。真幌君には悪いけれど、今は平太君を追いかける方が先決だ」
そんな和比古を気遣うように、朱華は声をかける。これ以上彼を真幌の死体と同席させるのが気の毒でならなかったのだ。
和比古は相変わらず口を開かない。言の葉を紡ぐこともなく、彼はこくりと小さく首を縦に振った。
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