2
息を切らしながら、朱華は辺りを見回す。
真幌の姿は一向に見えない。見失ってしまったことは明らかであった。
「……っ、一体何をするつもりなんだ、あの子は……」
壁に手を付いて、朱華はずるずるとその場にへたりこむ。此処までずっと走ってきたことによる疲労感が、雪崩れ込むようにして彼に襲い掛かった。
真幌は救世主になろうとしている。それゆえに、彼はあれほど錯乱しているのだろう。
救世主になったところで何を得られるのか、朱華にはわからない。わかるはずもない。
真幌に天からの──いわば人智を超えたモノになるなど不可能だ。歴史に名を残した英雄は、人の生まれでありながら神の名を得ることもあるようだが、それはあくまでも死後の話。生きているうちに救世主として崇められることはない。
ならば、真幌は死にたがっているのだろうか。死んで救世主になれるというのならば、彼は命すら惜しくはないと微笑むだろうか。
(……やめよう。単純な生き死にだけの問題ではない)
朱華は頭を振る。考えれば考える程深みに嵌まっていく。難儀なものだ。
真幌の目指す先が何処なのかはさておき、まずはこの熾野宮邸から出なければならない。何せ雪乃丞が死んだのだ。このまま放っておこうものなら、必然的に雪乃丞以外の者たちが手を組んで彼を殺したことになってしまう。それだけは勘弁願いたい。
しばらく立ち止まっていたからか、荒かった呼吸も幾らかは収まった。どくどくと跳ねる心臓──のあるであろう位置を押さえながら、朱華は片膝を立てる。
まずは真幌を捜そう。彼には様々なことを聞かなければならないが──いや、まずは聞き出せるだけの状態にしなければならないか。何にせよ、骨の折れる仕事に変わりはない。
朱華はよろよろと立ち上がる。先程のように走れは出来なさそうだが、動く分に支障はない。
いつの間にか、日が沈みかけている。つい先程まで昼間のつもりでいたというのに、時の流れとは早いものだ。
「夜が来るわね」
ぞわり。
密やかな囁きが、すぐ後ろから朱華を弄ぶ。幼子が蝶を
「……何だい。僕にまだ言いたいことがあるのかな」
上擦りそうな声を抑えてから、朱華は後方を見ることなく問いかけた。
くすくす、と控えめな笑い声が朱華の耳を撫でていく。この美代という少女は、他人の背筋を凍らせる天才である。
さらり、と眼前で黒髪が揺れる。美代が朱華の前に回り込んできたのだ。
「あなたが何処までもお人好しなものだから、放っておけなかっただけよ。まったく、どうして其処まで首を突っ込もうとするのかしら。此処からあなただけ逃げても、きっと誰にも咎められないのに」
「逃げるなんて真似はしたくないんだ。たしかに僕は巻き込まれた身だが、それでも彼らを──年若い少年たちを見捨てて良い理由などひとつも持ち合わせてはいない。一度紡いだ縁なんだ、我が身可愛さに放り出すのは無粋に尽きる」
「あら、そうなの。それはとても殊勝な心意気ね」
美代はころころと鈴を転がすように笑う。気分が良くなる笑いではなかった。
「ねぇ、朱華。あなたが求めていたものは見つけられた?」
「……? それは……」
「私、助言してあげたでしょう? もしかして忘れてしまったのかしら」
拗ねるような口振りとは対照的に、美代の目は細められ、唇は弧を描いていた。明らかに楽しんでいる表情であった。
朱華は暫し思考を巡らせて──知らず知らずのうちに、最北の部屋から巻物を持ち出していたことに気付いた。
はっとして懐に手を突っ込み、持ち出した巻物を取り出す。美代はそれを見て、ますます楽しそうに微笑んだ。
「慌てん坊さんなのね、朱華は。意外だわ」
「──意外?」
「ええ、意外よ。せっかちで短気なところがあるとは思っていたけれど、こうもわかりやすく狼狽えているところを見るのは初めて。だからとても嬉しいわ」
「……趣味が悪いな」
「ふふ、何とでもおっしゃいな。あなたの新たな顔を見つけられたのよ。嬉しくない訳がないわ」
くるくると機嫌良く回りながら、美代は声を弾ませる。黒髪と着物の裾が翻り、天女の羽衣のように躍った。
美代の言いたいことはいまいちわからない。彼女に何か問い質したいことがあったとしても、彼女の流れに飲み込まれてしまう。そして、気付いた時には美代の掌で弄ばれている。
朱華はやれやれと言いたげに髪の毛を掻き上げた。毛の生え際には、じっとりと汗が滲んでいた。
「……ねぇ、朱華。少しお話をしましょう?」
回るのをやめた美代が、一歩朱華の側に寄る。ふわり、と瑞々しい木々のような──青々とした森林を思わせる香りが鼻腔を擽った。
美代を完全に信用するには、足りないものが多すぎる。彼女は敵か味方なのか、あるいは朱華を取り巻く一連の出来事の真なる関係者とも言い難い。謎まみれなのだ、美代という少女は。
だが、今は美代に頼る他に方法がない。朱華は無言のまま、こくりと首を縦に振った。
美代は嬉しそうに表情を綻ばせる。朱華の答えをわかっていた風さえあるというのに、よくもまあそのように笑えるものだ。
「──朱華。あなたは、信仰というものをどう思う?」
「──信仰?」
唐突な問いかけだった。
鸚鵡返しに聞き返した朱華に、美代は優しく続ける。不気味な程柔らかい口調であった。
「ええ、そうよ。信仰。朱華、あなたに信じる神はいる?」
「……面と向かって問われると、何とも答えにくい質問だな。僕は正月には神社に詣でるし、盆には墓参りに行くが……。確固たる信仰を有しているかと聞かれたら、否と答えるしかないのだろうね。僕を養ってくれた家は代々禅宗を信じているから、彼らに付いていっていたという観点からすれば僕は禅宗を信じているということになるのかもしれないけれど」
「ふふ、それは何も信じていないようで、あらゆる神──いいえ、信仰を受け入れているようなものよ。それが悪いことだとは思わないし、争いを生まないという点から見たら良いことなのでしょうね。私は嫌いじゃないわ、あなたの信仰の形」
曖昧な答えしか返せなかったが、美代はむしろ満更でもないようだった。恐れることなど何もないのだろうに、朱華は心の何処かで安堵している自分がいることに気付く。
美代は穏やかな語り口で続ける。
「あなたのような、緩やかな信仰を持つ人間にはあまり縁のないことかもしれないけれどね。これだと決めた信仰を持つ人間は、それを何としてでも貫き通そうとすることもあるの。それこそ、人の生き死にに関わるようなことであってもね」
「……弾圧されても屈せず、刑場の露と消える者たちのことかい?」
「そういった者もいるのでしょうね。それはそれで潔くて良いと思うわ、私。けれど、私が言いたいのはそういう人間のことじゃない。むしろ他者を弾圧する側の方よ」
底知れぬ恐ろしさを感じて、朱華は思わず唾を飲み込む。そして、恐る恐る美代に問いかけた。
「……弾圧する側、とは」
「読んで字の如く。己が信ずるもの以外を崇め奉る者を排斥しようとする者よ。彼らは信仰によって突き動かされている。信仰という大義名分によって、あらゆる行動を正当化する」
この時、既に美代の顔から笑みは消えていた。
其処にあるのは、ただひたすらに凍てついた美貌。何かを恨み、射殺さんとするような深い憎悪。
「彼らは己が信仰以外を異教と見なす。軽蔑する。見下す。至らぬものとせせら笑う。そしてあたかも害獣か何かのように扱うのよ。どれだけ慎ましく、そして穏やかに形をなす信仰であっても、異端と称して排斥する」
「…………」
「……戦が日常茶飯事と見なされてきた時代が終わってから、一体どれだけの年月が過ぎたのでしょうね。私も戦については文献からしか学んだことはないのだけれど──少なくとも、異教の排斥は戦よりも酷かった。あれは一方的な攻撃であり、破壊であり、侵略であり、略奪であり、
憎々しげに少女は語る。黄昏の夕日が、彼女の憎しみを照らし出す。
「……私はね、朱華。人間は理由さえ持ってしまえば、いくらでも残酷になれる生き物だと思うの。それこそ、自らを正義とするだけの大義名分がね。それによって、奪われ犯され壊され侵されてきたものがあることを、私は知っている」
「……それは」
「熾野宮もそうだった。もともとあった信仰の形が、何処かで歪んでしまったのでしょうね。それをとやかく言う資格は私にはないけれど……信仰によって、この地にあった血は滅びることになってしまった。虚しいものよね」
気付けば、美代の顔面からありとあらゆる負の感情は消え去っていた。
ただ、憐れみにも似た苦笑を浮かべて、少女はぽつんと立っている。物寂しさすら感じさせる佇まいで、朱華ではない何処かを見ている。
「……私の話はこれでおしまい。言いたいことは全て言ったし、伝えたいことも伝えられた。私は満足よ」
何かが抜け落ちたような言葉尻で、美代は告げる。
彼女なりにけじめを付けようとしているのだろうか。その口振りは何処か割り切っているようにも聞こえた。
朱華が口を開く前に、美代は微笑んでいる。それは楽しげな笑みではなく、ただただ淋しげな色を帯びていた。
「朱華。このようなことを言うのは酷かもしれないけれど、巻き込まれたからにはあなたなりに決着を付けなさい。あなたはいつでも逃げられた。然れどあなたは逃げずに此処にいる。あなたはもう、熾野宮の影に飲み込まれている」
「……では、君は」
「私はもう、あなたに助言は出来ない。これ以上助言しようものなら、私という存在は根底から覆ってしまうもの。私は熾野宮の問題を解決はしない。しようとも思わない。熾野宮の呪縛をどうにかしたいのなら、独力でどうにかすることね」
美代の言葉はそれっきりだった。
彼女はひらり、と着物の袖を翻すと、朱華の進行方向とは逆に走り去っていった。相変わらず軽やかな──何処か浮遊感のある足取りであった。
朱華は暫し茫としてその場に立ち尽くすしか出来なかった。形のない夢幻に揺蕩っているような感覚が、朱華の全身を覆っていた。
(……いけない、立ち止まっていては)
そう気付くまで、何故だか酷く長い時間を有したように思えた。実際は、たったの十数秒しか経っていなかったというのに。
朱華は再び歩き出す。行くあてはなかったが、まずはこの屋敷をくまなく見て回らなくてはならない。
空は赤々と燃えている。木々の隙間から、その赤は熾野宮邸を容赦なく染め上げた。
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