六 太刀

 美代に言われた通りに、朱華は最北の部屋へと向かった。

 熾野宮邸の至るところに付着している血痕のようなものには未だ慣れなかったが、だからといって立ち止まってはいられない。

 何時、何処から何が仕掛けられてくるかわからないという恐怖もある。朱華は用心をしながら進んだ。

──が、その用心は杞憂に終わった。彼は何事もなく、目的地へ辿り着いた。


「此処か……」


 見つめる先には、重苦しい雰囲気を放つ観音開きの扉。見たところ鍵は壊されているようなので、入ることは可能だろう。

 ごくり、と朱華は唾を飲み込む。

 躊躇ってはいけない。自分は、熾野宮について知らなければならないのだ。

 自分を叱咤激励しながら、朱華は扉に手をかける。ぎぃ、と軋んだ音と共に、扉は開いた。

 この部屋は物置になっているらしい。外にも物置小屋はあったが、屋敷の中に造られている辺り此方の方が貴重品を仕舞っているように思える。屋敷の外にあった物置小屋は、あくまでも農具や屋敷には入りきらなさそうな大きめの祭具を入れておくためのもののようだ。

 朱華は周囲を見回す。段違いになった棚や幾つもの葛籠、長持などが置かれている。

 荒らすのは忍びなかったが、今は迷っている場合ではない。朱華は、目についたものから手に取り、入れ物の類いは開けていくことにした。


(書庫とは違い、袋綴じではなく巻物や折本が多いな。特に巻物形式の書物が多く収蔵されているようだ)


 朱華は古典作品にも興味を持ってはいるが、数百年前の文字となると解読は難しい。書き手によってはすらすらと読むことも可能だが、あまりにも崩れすぎていると解読するにも時間がかかる。このような言い方をするのは申し訳ないが、悪筆の人間が書いたものは見ただけで解読を諦める性分であった。

 詰まるところ、この部屋に収蔵されている書物はかなり年季の入ったものなのである。うねうねとした字体とにらめっこしながら、朱華は手掛かりになりそうな資料を探していた。

 見たところ、此処に収蔵されている書物は数百年前まで遡ることが出来そうだった。とある書物の中に『慶長』という年号を見つけたのだ。となれば、此処にある書物では二百年前程度であれば遡れるということになる。


(熾野宮が迫害を逃れてきたキリシタンの一味だとすれば、年代は合致しないこともない。確か禁教令が出されたのは慶長十七年辺りだったから、慶長年間に記された書物だとすれば熾野宮の祖にも関係しているだろう)


 頭の中で整理しながら、朱華は年代について思案する。

 熾野宮は、本当に呪いと呼ばれていたものを打破しただけだったのだろうか。美代の口振りから考えると、彼らは何かに火を放った可能性がある。しかし、そのようなことをすれば千世ヶ辻村の者たちに被害が出るのではなかろうか。


(いや……逆に、何かを燃やすことで呪いを打破出来るのだ、と村人たちに持ちかけたのであれば……。何を焼いたのかはわからないが、少なくとも村人たちに受け入れられるかもしれない。その時の村人は、呪いを打破してくれる存在であれば何にでも縋ろうとしただろう。彼らを上手く言いくるめることが出来たのなら、多少過激な行動も許されたのではないか)


 次々と資料に目を通しつつ、朱華は頭を捻る。美代の言わんとしていたことは一体何なのか、そもそも熾野宮家はこの地で何を行ったのか。今の朱華には、知らないことが多すぎる。

 次いで朱華が手に取った木箱。その中にもまた、巻物が入っている。

 朱華は慣れた手付きで結んである紐をほどき、床に巻物を広げる。──そして、はっと息を飲んだ。


(これは──絵巻か)


 これまで検分してきた巻物は、ほとんどが文字による記録ばかりだった。そのため、朱華は全文を解読することが出来なかった。

しかし、今回は絵が描いてある。その横に注釈のような形で文字が記されているが、割合としては絵の方が明らかに多い。これなら、文字ばかりの資料よりは内容を読み取れそうだ。

 朱華は早速座り込むと、巻物に目を凝らしてみる。まだ日があるとはいえ、この部屋の中は薄暗い。細かい文字などは見落としてしまいそうだ。実際に、朱華は細々とした部分は無視する。

 まず初めに目についたのは、山の中に入る集団の絵だった。先頭に立つ、首魁と思わしき人間は、手首に何かをかけていた。


(十字架──所謂いわゆるコンタツか。となれば……この集団は、千世ヶ辻にやって来た熾野宮の者たちか?)


 コンタツというのは、ロザリオとも呼ばれる十字架を象った耶蘇教の祈りの道具である。南欧で主流とされる宗派──かつての日本に持ち込まれたものである──においては、伝統的な用具らしい。

 仮に朱華の解釈が合っていたならば、この巻物は熾野宮の祖について語っている可能性が非常に高い。朱華はごくりと唾を飲み込んで、巻物を紐解いていく。

 次に目に入ったのは、やけに古めかしい出で立ちの、凶悪な顔をした、悪鬼のような生物だった。周りには、怯えた表情の農民たちと思わしき人々がいる。


(これは……呪いに怯える千世ヶ辻の人々だろうか。しかし、呪いにしてはやけに具体的だな。呪いと聞けば、もっと恨めしそうな顔をした化け物でも想像するものだろうに……この巻物に描かれているのは、まるで鬼ヶ島を陣取っている鬼のような──何処か威張っているようにも見える生き物だ。一体これは──)


 どういうことなのだろう。

 朱華は疑問を覚えたが、まずは最後まで巻物を読むことにした。後々になってわかることもあるだろう。

 読み進めていくと、悪鬼のような生物が火炙りにされている絵が現れた。村人たちは涙しながら喜んでいるように見える。彼らは熾野宮の者たちを崇めるかのように跪き、そして熾野宮の者たちはまるで自分たちが神であるかのように後光を背にして立っていた。

 この巻物を解釈する限り、千世ヶ辻で真幌に聞いた話と差異はないように思える。

耶蘇教の教えを継ぐ熾野宮の祖たちが、千世ヶ辻に根付いた呪いを断絶した。呪いの象徴──例の悪鬼のような生物には疑問を感じるが、流れとしては筋が通っている。

 美代の言っていた『焼かれたもの』というのは、千世ヶ辻の呪いのことだったのだろうか。呪いを焼くというのはいまいちピンと来ないものだが、あの悪鬼のような生物以外に焼かれているものは見受けられない。


(とにかく、この巻物は大きな手掛かりだ。これをもとに、他の資料も調べれば──)

 

 一先ず朱華はこの巻物を手元に置いておこうと考えた。もしかしたら、他の資料とも繋がりがあるかもしれない。

巻物を手にして、朱華は立ち上がる。

──と、同時に。がたん、と室内に決して小さくない物音が響き渡った。


「──っ⁉」


 朱華は慌てて巻物を懐に隠し、身を翻す。

 音が聞こえたのは朱華の背中側──詰まるところ、この部屋の出入口の辺りからだった。率直に考えると、新たな来訪者がやって来たと見るのが妥当だろう。

 案の定、先程の物音は人間によるものだった。その証拠に、室内には朱華以外の人間が入ってきている。


「嗚呼──やっと、見つけた」

「……っ、真幌君……」


 其処にいたのは、昨日と寸分も変わらぬ出で立ちをした白木院家の子息──真幌であった。

 彼は何やら細長い箱のようなものを大切そうに抱き締めている。朱華には見向きもせずに、恍惚とした表情でその場に佇んでいた。

 どうやって真幌が此処までたどり着いたのかはわからない。しかし、このまま放っておく訳にもいかないだろう。


「……真幌君、何をしているんだい」


 恐る恐る、朱華は声をかける。下手に刺激しないようにと、心掛けながら。

 しかし、声をかけられた真幌の目は朱華と合うことはなかった。頬を上気させながら、彼は箱を抱き締める腕に力を込める。


「嗚呼、そうだ、絶対、あると信じていたよ。これで、ボクは救世主になれる。熾野宮は、ボクを受け入れてくれるんだ」


 かぱり、と真幌は箱を開けて、其処に仕舞われていたものに頬擦りをする。母に甘える子のような顔付きだった。

 だが、真幌が頬擦りしているのは母では──いや、人間ですらない。

 それは飾り気のない、一振の太刀に過ぎなかった。

 真幌は、正気を失ってしまったのだろうか。目の前にいる少年を見つめながら、朱華は思う。


「真幌君」


 声をかける。少しでも良いから、真幌が此方を向くことを願って。

 しかし真幌に朱華の声は届かない。彼は救世主になれるという事実に酔いしれているのだ。真幌の聴覚が朱華の言葉を捉えるには、彼の酔いを覚ます他に方法はない。


「さあ、見せておくれ。その白銀の煌めきを。万物を斬り捨て、邪教を断ち切る鋭さを。このボクを、熾野宮の救世主として認めるならば!」


 すっかり興奮した様子で、真幌は太刀を抜かんとする。朱華の姿など、最初からなかったかのような反応だった。

 きっと、真幌は心の底から狂喜乱舞しているのだろう。求めていたものが見つかり、自分が救世主たる札が出揃ったことに。後はこの太刀を抜いてしまえば、全てが真幌の思い通りになる──。


 だが、彼の酔いは覚まされる。


 真横に向けて、真幌は太刀を抜こうとした。抜こうとしたのだ。

 しかし、刀身は鞘から出てこなかった。何かに引っ掛かっているかのように、真幌の力に反発した。


「あ、あれ……?」


 真幌の頬に、一筋の汗が流れる。

 熾野宮邸は、夏だというのに不気味な程涼しかった。それゆえに、余程激しく動かなければ汗が流れることはない。

 詰まるところ、真幌には焦燥感が生まれたのである。自らを熾野宮に伝わる救世主たらしめる太刀が抜けないということ──すなわち、真幌が救世主として認められないということに。


「ど、どういうことだ……? こんなに、こんなに綺麗で手入れが行き届いているのに、抜けないなんて、そんなこと……」


 真幌は焦る。尋常でない量の汗を流しながら、何度も太刀を抜かんと試みる。

 それでも、太刀は抜けない。真幌を否定するかのように、刀身は鞘に収まったままだった。

 真幌の息遣いは次第に荒さを増していく。側にいる朱華など、彼の視界には入っていない。真幌の目に映っているのは、手の中にある太刀だけだ。


「どうして──どうして抜けないんだ! ボクは認められないということか⁉ 救世主に相応しくない人間だとでも言いたいのか⁉ いや、違う! ボクは救世主になれるんだ! だってボクには、いや、ボクにしか救世主になれる資格はない! だってボクは──」

「真幌君!」


 誰にでもなく、己に言い聞かせるかのように叫ぶ真幌。その華奢な肩を掴み、朱華は無理矢理にでも彼を自分の方へと向かせた。

 やっと真幌の目に朱華の姿が映る。真幌が一瞬怯んだ隙を突いて、朱華は彼を諭そうと口を開いた。


「真幌君、よく聞くんだ! 君は、救世主になれる器では──いや、救世主なんかじゃない!」

「お前には関係ないだろうっ! ボクは救世主になれる! この土地の所有者は白木院の血を引く者だ! ならば、白木院家の嫡子であるボクが救世主になれないはずがない!」

「落ち着いてくれ! 君は、本来ならば愚かな人間ではないはずだ。焦る前によく考えてみたまえ、君にその太刀が抜けないのは当たり前のことだ!」

「当たり前だと⁉ ふざけるな、お前はボクのことを何だと思っているんだ! 鞘から抜けない刀などあるはずがない! 戯言も大概にしろ!」

「違う、そうではないんだ真幌君! 元来、刀というものはだね──」

「五月蝿い、五月蝿いッ! 黙れ余所者!」


 朱華は何とか真幌を説得しようと試みたが、彼は朱華を力一杯に拒絶した。

 どん、と真幌は全力で朱華に体当たりする。いくら力で勝るとは言え、不意討ちにも近い形での攻撃を受けては朱華もよろめくしかない。


「真幌君──」

「黙れと言っただろうッ! ボクは救世主だ、救世主にならなくてはならないんだ! 邪魔立てする者は、すべからく天罰を受けることとなるだろう!」


 後方にあった長持に強く背中を打ち付け、朱華はすぐに起き上がることが出来なかった。

 その隙を見計らったのだろうか。真幌は言いたいことを思うがままに吐き捨てると、そのまま太刀を握り締め、どたどたと部屋から出て行った。要は逃げられたのだ。


「……っ、く……」


 痛む背部に顔をしかめながら、朱華は何とか身を起こす。頭も少し打ったのか、後頭部が鈍く痛んだ。

 真幌は酷く錯乱しているようだった。いや、彼は取り乱すしかなかったのだ。探し求めていたものを前にしていながら、それを手に入れることが出来なかったのだから。

 真幌が信じる救世主とは何なのかを、朱華はいまいち理解していない。ただの人間から救世主になるなど、到底あり得る話ではないからだ。

 いや、そもそも──救世主などというものは、なろうとしてなれるような容易い存在ではない。

 真幌は救世主になれない。それは、朱華でなくともわかるはずのことだ。彼が何に傾倒しているのかはとんと知らぬが、熾野宮に関連する事柄であることは確かと言えよう。


「……ならば、このままにしてはおけない」


 この屋敷は普通ではない。尋常という単語からは遠くかけ離れた存在だ。

 よろよろと朱華は立ち上がる。ふぅぅ、と深呼吸をしてから、赫と前を見据える。

──こうしてはいられない。真幌を追わなければ、きっと良くないことが起こる。

 痛む体などお構い無しに朱華は駆け出す。室内に溜まっていた埃が、彼の起こした風に乗せられてふわりふわりと舞った。


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