×××の回想

 一人目の娘を殺めてからというもの、彼は自分に嫁いでくる娘を次々と斬り捨てた。どの娘も彼との子を成すことを第一に口にするのが気に食わなかった。

 父は彼が妻を殺すことに関しては口を挟まなかった。──いや、挟めなかった、と表記した方が適当か。

 熾野宮における救世主とは、男児を儲けるまでの熾野宮家の嫡子──加えて言うならば男児である──ということになる。彼の父のような、先代の救世主は『ご隠居様』と呼ばれて世話をされるが、息子を儲けた時点で救世主から人間に戻っているのだった。

 それゆえに、父は息子とは直接関わることが出来ない。顔を合わせることも許されない。救世主はひとりでなくてはならないからだ。

 救世主は二人もいらない。そして、救世主は孤高の存在でなくてはならない。

 故に、彼は一人であり、独りであった。熾野宮邸という箱庭に暮らす、ひとりの救世主でしかいられなかった。

 嫁いでくる妻を斬り続けてから、三年の月日が経っていた。彼が殺した妻の数は両手の指では収まりきらなくなっていた。

 この日も、新たな娘が嫁いでくることになっていた。彼は特にこれといった感慨も抱くことなく、愛刀の手入れをしていた。

 きっと今回の娘も、今までの者たちと同じだろう。余程のことがない限り、斬り損じることはないと見て良い。遺体は使用人に命令して山中に棄てさせよう。この辺りの山々に入る者はそうそういないから、見つかることもない。血の飛んだ部屋は、念入りに掃除をさせれば良いだけの話だ。

 刀身を鞘に収める。その小気味良い音を響かせてから、彼は流れるような所作で立ち上がった。妻となる娘の待つ寝室へ向かうのだ。

 歩く。

 寝室にいる娘は、何を思っているだろうか。

 歩く。

 どうせまた、自分との子を成すことだけを考えているのだろう。

 歩く。

 何を思っているか、などと考える必要はない。

 歩く。

 ならば何故──自分はそのようなことを一瞬でも考えた?

 歩く。

 まさか自分は──期待、しているのか?


 到着。


 いつになく思案しているうちに、彼は寝室の前に辿り着いていた。

 呼吸を整える。いつでも刀を抜けるようにと、腰に携えた愛刀を一瞥する。

 準備は整っている。いつも通りだ。いつも通りに娘に会い、そして斬れば良い──。


「ひっ──!」


 襖を開けた。すると、喉の奥から絞り出されたであろう悲鳴が耳に入った。

 彼は部屋に入り、襖を閉める。そして、視線を下方に落とす。

 其処には、酷く怯えた様子の娘が座り込んでいた。作法もへったくれもありはしない。

 だが、彼はそれを無作法だとは思わなかった。この娘は何を怖がっているのか、という点が何よりも先行した。


「あ──も、申し訳ございません……!」


 娘は己を見下ろす無表情の青年を前にして、慌てて頭を下げた。それは、彼女からしてみれば命乞いの土下座であった。


「ひっ、非礼を、どうか非礼をお許しください……! まさか、これほどお早くいらっしゃるとは思わず……! ご不快な気分にさせてしまったのなら、誠に──」

「──いや、良い。別に、憤ってはいない」


 怯える娘をそのままにしておく訳にもいかず、彼は娘の言葉を遮って自分が怒っていないことを伝えた。

 それを聞いた娘の纏う雰囲気に、少しばかり安堵の色が混じった。──ような、気がした。気がしただけである。

 娘はおずおずと顔を上げる。これまでの娘たちに比べると、些か凡庸な顔付きをしている。だが、こざっぱりとした顔立ちはむしろ新鮮でもあった。


「──えと、御子様、でしたよね。その、あの」

「何だ。はっきりと言え」

「あー……ええと……。私、これから、とても、非常に、極めて無礼なことを言うかもしれないのですが……。あ、わ、私に悪気はないのです! ただ、その、とても申し上げにくいことで」

「構わない。申してみよ」


 これほど多く言葉を交わしたのはこの娘が初めてだ、と彼は思った。ほとんどの娘は、皆開口してから間もなくして斬られているからだ。

 娘はすぅ、はぁ、と深呼吸をした。余程改まった話なのだろうか。彼の背中にも自然と力が入る。

 刹那の静寂。そして、娘は口を開く。


「わ、私を、此処から追い出してはいただけませんか……⁉」


 しばらくの間、室内には再び静寂が訪れた。彼は、娘の言っていることの意味を理解出来なかったのだ。

 追い出せ、ということは。この娘は、自分との子を望んでいないということになる。

 そんなことがあるのだろうか。彼は硬直した。そして思案する。こういった場合、どのような対応を取るのが最善なのだろうか、と。

 娘は不安げな顔で、彼のことを見上げていた。何故だか急かされているような気がして、彼は少々焦った。


「それを今実行するのは、難しい」


 彼はたどたどしい口調で答えた。娘の顔に落胆の色が浮かぶ。


「だが、君を此処にずっと置いておくのもどうかと思う。私も、もともと君とつがいになりたい訳ではなかったから、君の考えもわからなくはない」

「は……はあ……」

「……とりあえず、今日はこのまま寝るのが最善だろう。共寝が厭なら、私は押し入れで眠る」

「い、いや、それは駄目だと思います! むしろ私が押し入れに入るべきです!」


 何の躊躇もなく押し入れを開けて其処に入ろうとした彼だが、娘に止められてやめた。何処に行けば良いのかわからず、彼は娘の正面に正座する。


「駄目だ。不本意ながら連れてこられた君を、押し入れなどに押し込めては無礼だろう」

「あ……ありがとう、ございます……?」

「…………」


 会話が続かない。彼はあまり気にしていないが、娘は気まずくて仕方がなかった。

 何か話しかけるべきだろうか。しかし相手は帯刀している。迂闊に話しかけて、気分を害されたらどうしようもない。しかしこの沈黙はあまりにも辛い。

 彼はしばらく背筋を伸ばして正座していたが、やがて何かを目に留めた。そして、『それ』に向かって手を伸ばす。


「……何だ、これは」

「あああ、それは……!」


 彼が手を伸ばした先。それは、娘が使う手筈になっている布団の中だった。

 掛け布団と敷き布団の間からは、何かがはみ出していた。明らかに何か隠している風である。娘はそれを見られたくなかったようだが、彼は『それ』を容赦なく引っ張り出した。

 彼が引っ張り出したもの。それは、袋綴じの形式を取った、一冊の和装本であった。どうやら娘の私物らしい。


「……これは、君のものだな?」

「……仰る通りにございます……」


 此処で嘘を吐いてもどうにもならないので、娘は正直に答えた。

 彼は和装本をしばらく凝視していた。そして、顔を上げると娘に再度問いかける。


「これは、何について記された書物だ? 見たところ何かの記録や兵法に関するものではなさそうだが」

「ええと……そういった、高尚なものではないです。何というか……庶民の色恋について、書かれた読み物です」

「実録か?」

「いえ、その……題材とするにあたって参考にしたものはあるかもしれませんが、ほとんどが作り話です」


 たまに本当に起こった事件を題材にしたものもありますけど、と娘はもごもご付け加えた。俗とは対極にいる彼に、如何にも庶民の娯楽といった人情本を見せるのが気恥ずかしかった。

 彼はぱちぱち、と瞬きをする。それから、腰に携えていた刀を外して枕元に置いた。


「では、私はこれを読むことにする。君は先に眠ってくれて構わない」

「えっ⁉ は⁉」

「……駄目か?」

「いや、駄目ではありませんけど、いや、しかし……! 庶民の読むようなものですから、もしかしたらあなたにとってはつまらなく感じるかもしれませんし……!」

「こういったものを読んだことはないから、つまらなくとも致し方はない。君に何か責任を求めるつもりはないし、つまらなかったからといって君の価値まで決めることはないよ。故に安心して欲しい」


 何を安心しろと言うのだ。娘はそう叫びたかったが、ぐっと堪えた。

 この青年に反論したら、何が起こるかわからない。場合によっては、生命の危機に立ち会わなくてはならなくなるかもしれない。

──であれば、彼女に出来ることは限られている。

 娘は黙って、布団へと潜り込んだ。そして、掛け布団を頭まで引き上げて目を閉じた。


 その日、彼が寝付いたのは、彼が妻の寝室に入ってから一時(約二時間)経った頃のことだった。

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