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 真幌が向かいそうな場所と言えば、自分が彼を平手で殴り飛ばした場所──もとい、祭壇のようなものが設えられている広めの部屋だろう、と朱華は考えた。

 平太とは別々に行動することにしたので、今の朱華は一人である。一人であれば、前日のような急襲への対応もやりやすいし、何より行動が制限されない。朱華としては一安心だった。

 しかし、単独行動は利点だけではない。


(それに──きっと、あの子はやって来る)


 一人になった朱華のもとに、彼女は高確率で現れる。それは意図的なものなのか、それとも偶然の産物なのか──朱華にはわからない。

 故に、彼は足を止める。廊下の伸びる先にいる彼女を見つけて、唇を開く。


「──何かご用かな。それとも、たまたまかい?」

「さあ──どうかしら」


 朱華から見て直線上にいる少女──美代は、たおやかに笑む。

 しかし、其処に楽しむような要素や、喜ぶような色合いは感じられない。美代はただただ無機質だった。無機質でありながら、生の脈動を有していた。

 美代は一歩、また一歩と、朱華に向かって歩みを進める。その度に彼女の黒髪と袖が揺れた。


「朱華。あなたはまだこの熾野宮邸に居続けるつもりなの?」


 美代が問いかける。答えねばならない。


「……勿論。真幌君を、あのままにしてはおけないからね」

「あの可哀想な男の子をどうするつもり? 仮初めの救世主とやらにでもしてあげて、其処で満足でもさせるというの?」

「そのような真似はしないよ。それはあまりにも残酷で、意味がない。真幌君は救世主にはなれないんだ。どうやっても、彼は熾野宮の人間じゃない。それは、此処にいる誰もが理解していることだ」

「ふぅん……」


 美代は少しの間、形の良い顎に手を遣った。何かを考え込むような仕草だった。

 美代が顔を上げる。その顔からは笑みが消え、その代わりに疑問が浮かんでいた。


「たしかに、熾野宮の血はもう潰えたようなものだわ。私だって、それくらいはわかってる。でも、熾野宮が残したものはあまりに多い。いっそこの屋敷ごと焼いてしまえば、あなたたちが此処に来ることもなかったでしょうに」

「こんな山奥で屋敷を焼こうものなら、運が悪ければ山火事になりかねない。千世ヶ辻の村人たちは、その辺りを危惧していたんだろう。だから、きっと熾野宮邸に手を付けられなかったんだ。おびただしい数の人間が死んでいた屋敷だからね、足を踏み入れようと思う物好きは、なかなかいなかっただろう」

「あら、そう。でもね、朱華。熾野宮家が滅んだ時点で、この山では既にあるものが焼かれていたのよ」


 事も無げに、美代は言った。さも当たり前のことだとでも言わんばかりの口振りであった。

 だが、朱華としては彼女の発言を放っておくことは出来ない。

 朱華は瞠目し、優しげな目元をつり上げて、微妙に開いていた美代との距離を一気に詰めた。そして、自分よりも幾分か小柄な彼女を見下ろしながら尋ねる。


「焼かれていた、だなんて──。美代、君は一体何を知っているんだい」

「何をって、決まっているじゃない。私は、この地の過去について知っているだけのことよ。それほど驚くことでもないでしょう?」


 美代はこてん、と首をかしげる。平生なら可愛らしく見えるのであろう仕草だが、今の朱華には焦燥しか生まれない。


「答えてくれ、美代。君は何を、何処まで知っているんだ? 君は、熾野宮にとっての何なんだ?」

「私は熾野宮にとっての何者でもないわ。それは幾度となく言っているはずでしょう。この地や熾野宮について知りたいのなら、己の足でこの屋敷の床を踏み、己の手でこの屋敷の扉を開け、己の目で真実を確かめることね。それ以上のことを、私は言えない」


 動揺する朱華とは対照的に、美代はあくまでも淡々としていた。

 美代は一体、熾野宮の何を知っているというのだろうか。そして、彼女は熾野宮にとってどういった存在なのだろうか。

 軽い頭痛を覚えつつ、朱華は美代を見据える。美代から目を逸らしてはいけないような気がしてならなかったのだ。


「……朱華。あなたは、何故こうまで熾野宮に首を突っ込むのかしら」


 ぽつりと、美代は問いを投げ掛ける。溢れる雫のような問いかけだった。

 彼女の疑問は尤もなものだ。朱華には、これ以上熾野宮家に関わる理由などない。もとより、滅んでしまった異教の一族に肩入れするつもりもない。

 しかし、それでも。朱華はこの一件を放ってはおけない。強いて言うなら──。


「──強いて言うなら、知り合いが巻き込まれているから、かな」

「……そう」

「本当は、千世ヶ辻で有意義な休暇を過ごすつもりだったんだ。牧歌的な村で、夏の息吹と蝉の鳴き声を感じながら、一本物語でも綴るつもりだった。それがまあ、このようなことに巻き込まれて、ろくな目に遭わない。このままでは後味が悪いだけだから、せめて今出来ることをやろうと思ってね」


 美代に対する警戒心が消えた訳ではない。しかし、どういう訳か、朱華は己について彼女に語っていた。

 朱華とて、このようなことになるとわかっていたのなら、宗一郎からの誘いを断っただろう。そして宗一郎にも、千世ヶ辻に行くのはやめておけと警告したに違いない。

 朱華はただ、普段とは違う場所で穏やかに過ごしたかった。ただそれだけの気持ちで、この誘いを受けたのだ。噂に聞いていた千世ヶ辻の風景を、一度この目で見ておきたかった。

 どうでも良いわ、と鬱陶しがられると思っていたが、美代は目をぱちくりとさせていた。少なからず驚いているらしい。


「……驚いたわ。あなた、この屋敷に肝試しに来た訳ではなかったのね」

「当たり前だろう。そもそも、熾野宮邸に行こうと言い出したのは僕ではないよ。直前まで、熾野宮邸に行くということは伏せられていたんだ。酷い話だと思わないかい?」

「──そうね。たしかに、それは酷い話だわ」


 美代は朱華に同情したようだった。苦笑いしながら、彼の話に相槌を打つ。


「そういう訳だから、僕は一刻も早く此処から出ていきたい。しかし、連れ合いの男の子──真幌君は自分が救世主になるのだと言って聞かないし、彼の従者の雪之丞君は何者かに斬られて、しかも首が行方不明になっている。こんな状態で下山しても、良い結果は得られないだろう。むしろ僕たちが雪之丞君を殺して真幌君をたぶらかしたのではないかと疑われてしまう。それだけは絶対に避けたいし、何より蟠りを残したままにしておくのは嫌だからね。僕なりに始末を付けるまで、悪いけど此処に居させてもらうつもりだよ」


 抑揚のない、落ち着き払った声で朱華は締め括った。その言葉に、嘘偽りは一切ない。

 美代はふぅぅぅ、と細く長く息を吐いた。そして、困ったように眉尻を下げる。


「なるほどね。それは災難だったわね、朱華。それなら、今のあなたを責める理由はないようなものだわ」

「同情してくれるのかい?」

「ええ、だって今のあなたは完全に巻き込まれた側の人間だもの。だから教えてあげる。──熾野宮邸の一番北にある、小ぢんまりとしたお部屋。其処に、あなたの求めている手掛かりがあるはずよ。この屋敷から持ち出してはいけないけれど、目を通すくらいなら許されるでしょう」

「……! それは……!」


 朱華が何か言おうとする前に。美代の姿は、彼の目の前から消え去っている。

 それはもう、最初から其処にいなかったかのように、美代は忽然と消えていた。消えたということすら感じさせなかった。

 朱華は何度か瞬きをする。幻を見ていた──という訳ではなさそうだが、美代が消えたことに変わりはない。呼び掛けても、きっと彼女が現れることはないだろう。


「……一番北の部屋、か」


 朱華は、美代の口にした言葉を反芻する。

 其処に何があるのかはわからない。だが、手掛かりがあるというのならば、其処へ向かわない訳にはいかない。

 朱華は、己の頬を叩く。それは何があろうと退くものかという、彼なりの覚悟であった。

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