五 惨劇

1

 翌日の朝は何事もなくやって来た。

 朱華が身を起こすと、和比古も平太もすやすやと眠っていた。和比古は寝ている時までしかめっ面である。

 朱華はそろりそろりと、足音を忍ばせて二人の横を通り過ぎる。昨日は色々とあったのだし、まだ寝かせていても良いだろう。

 井戸に向かい、顔を洗う。ひんやりとした真水が気持ち良い。山中であるからか町にいる時よりは涼しく感じるが、やはり暑いものは暑いのだ。

 せっかくなので、朱華は身体も流しておくことにした。着物を脱いで畳んでから、桶に水を汲み入れて頭から被る。汗や不純物が洗い流されていく感覚が快い。


(そういえば、あれから真幌君や雪乃丞君はどうしたのだろう)


 手拭いで身体を拭きながら、ふと朱華は白木院主従のことが気になった。

 二人とは喧嘩別れのような形になってしまったが、心配であることに変わりはない。一晩寝て頭を冷やしてくれていると良いけれど、と朱華は思うが、そう都合良くあの二人が心変わりしてくれるとは思えなかった。

 真幌が何を目指しているのか、朱華にはわからない。その辺りも、これから問い質しておきたいところだ。あまり手荒な真似はしたくないので、なるべく穏便に事が運ぶことを祈るばかりである。


「あら、おはよう朱華」


 そんなことを考えていた矢先に、鈴を転がすような声がかかった。朱華は振り返らずに返す。


「……美代、だったかな。井戸に何か用があるのかい? それだったら、すぐに着替えて退くから少しだけ後ろを向いていてくれないか」

「どうして? あなた、なかなか良い体つきをしているじゃない。わざわざ隠す程貧相でもないわよ。むしろ逞しくて理想的だわ。自信を持ちなさいな」

「そういう意味で言っているんじゃないよ。そもそも、嫁入り前の女の子に見せるものじゃないだろう。僕が個人的に気になるから、出来ることならばこれ以上見ないで欲しいな」

「ふふふ。善処するわ」


 絶対に言うことを聞くつもりのないであろう美代に、朱華は嘆息する。

 男の裸など、戯れに見るものではない。況してや、美代は見るからにまだ若い少女である。美代の実年齢が幾つかは知らないが、幾つであったとしても己の裸体を晒すつもりにはなれなかった。

 手早く着物をもとのように身に着けてから、朱華は美代の方へと振り向く。彼女は後ろを向くことなく、呑気に屋敷へ寄り掛かって此方を見ていた。


「それほど急がなくても良いのに。朱華はせっかちさんなのね」

「……君は男の肌を見るのが趣味だとでも言うのかい?」

「いいえ、ちっとも。見ることに対してこれといった感情はないけれど、好き好んで見るものではないわね。まあ、好ましく思う殿方であれば、肌に限らず見ていたいと思うものでしょうけれど」


 美代は相変わらず掴み所がなかった。彼女は此方を試すかのように、くすくすと密やかに笑んでいる。その真意は全く読み取れない。

 こういった人物が朱華は苦手だ。しかし絡んできたというのなら、何か目的があるのだろう。その目的について聞くつもりはないが、朱華はこの機会を生かそうと思った。


「話は変わるがね、美代。君は白木院主従──僕といっしょにこの屋敷に来た男の子二人を見ていないかい? 君が介抱した子の主人ではない方の、だ」


 美代は昨夜、富ノ森主従のいる場所を教えてくれた。ならば、白木院主従の行方も知っているのではないかと朱華は考えた。

 美代はぱちぱち、と何度か瞬きする。白木院主従、という言葉から、二人の顔を思い起こしているようだった。

 どうか思い出して欲しい。そんな朱華の思いが届いたのか、美代の唇から「……ああ、あの二人ね」と溢れる。

 朱華が見つめた先の少女の顔は、不機嫌に歪んでいた。


「片方はどうしたのか知らないけれど……。武士の真似事でもしているかのような、やけに古めかしい方なら昨日見たわよ」

「それはきっと雪乃丞君だね。して、彼は何処にいたのだい」

「屋敷の倉庫から何かを持って、私たちが歩いてきた道を戻っていったわ。もしかしたら、もう帰ってしまったのかもしれないわね。主人にしろ従者にしろ、勝手に出ていってしまうなんて無責任なこと」


 溜め息まじりに美代は語るが、朱華としては溜め息を吐いている暇もなかった。

 雪乃丞が下山したかもしれない。その言葉は、朱華の血の気を引かせるには十分だった。

 美代の言葉が真実であるならば、雪乃丞は夜間に熾野宮邸を出たことになる。夜間の山歩きは危険だと、素人の朱華にもよくわかる。遭難、滑落、その他諸々の可能性を考えて、朱華の体温は急速に失われていった。

 いや、それよりも、である。千世ヶ辻から熾野宮邸までの地図は一枚しか確認されていない。仮に雪乃丞がそれを持って行ってしまっていたのなら、此処に残された朱華たちは一体どうなるのか。

 雪乃丞の心配をしていない訳ではない。むしろ心配で堪らない。

 だが、今の朱華にとっては、此処に残っている面々の安全を確保することが最優先事項だ。地図もない中歩き慣れていない山中をさ迷うなど自殺行為にも等しい。

 こうなったら、何を頼れば良いのだろうか。朱華は目を閉じて思考を巡らせる。


(仮に、真幌君がまともに物を考えられるとして──道案内を頼むなら、彼しかいないだろう。此処まで熾野宮に執着していたのなら、道筋を覚えていても可笑しくはないはずだ。しかし、その彼も駄目だったのなら……)


 打つ手はなくなる。そう思いかけた朱華だが、まだ縋るべきものはあった。

 此処まで自分たちを誘った者。『彼女』なら、村までの道を知っているのではないか。


(まだ──美代がいるじゃないか)


 美代。彼女に頼るという可能性に、朱華は賭けようとした。

 目を開ける。美代に頼もうと、唇を開こうとする。

──が、美代の姿は其処になかった。

 まただ。また、美代は朱華の前から姿を消してしまった。

 何と神出鬼没なことだろう。朱華は頭を抱えたくなった。少し目を離した隙に、こうも忽然と消えることが出来るものだろうか。

 まあ、何はともあれいなくなってしまったものは仕方がない。幸い此処にはまだ真幌がいる──と思われる。ならば、彼を無理にでも落ち着かせて下山する他ない──。


「おい! 斯波朱華!」


 一人で思案していた朱華にかかったのは、酷く焦燥の色を湛えた声であった。

 朱華の目線が定まる前に、彼は息を切らしながら朱華の前まで辿り着いている。


「どうしたのだい、和比古君。そのように朝から大きな声を出さずとも良いじゃないか」

「呑気なことを言っている場合か、此方の事情も知らないで……! とにかく付いてこい、話は後だ!」


 和比古の鬼気迫る様子からするに、何かただならぬことが起こったらしい。あの怠惰な和比古が汗を流し息を切らして走ってくるのだから、余程の事態に陥っているのだろう。

 わかった、と朱華はうなずく。それを見た和比古は、一目散に駆けていく。その背中を見失わないようにと、朱華もまた一心不乱に足を動かした。

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