2

 和比古が駆けていった先。其処は熾野宮邸から少し離れたところにある、ぽっかりと拓けた空間だった。


「あっ、旦那様……! それに、斯波様も……!」


 この場所には既に平太がいて、泣きそうな顔をしながら主人と彼の伴っている人物に駆け寄ってきた。その顔は真っ青で、明らかに尋常ではない出来事に遭遇したのだと物語っていた。

 朱華は直ぐ様平太を上から下まで眺める。目立った外傷はない。つまり、平太が害を与えられたという可能性は低い。


「平太君、教えてくれ。一体何があったのだい?」


 平太の細い肩に手を置いて、朱華はなるべく平静を装いながら尋ねる。此処で平太を混乱させることだけは避けたかった。

 朱華からの問いかけを受けた平太の瞳が、大きく見開かれる。そして、次の瞬間には大粒の涙が溢れ出た。


「あ、あ、彼処で……! 彼処あそこで、筧様が、筧様がっ……!」

「雪乃丞君に何かあったのだね。教えてくれてありがとう、平太君」


 これ以上平太の口から告げさせるのはあまりにも酷だ。朱華は一旦平太から離れ、彼が言っていた『彼処』を向く。

 朱華の目がまず捉えたのは、地面に座り込む真幌の姿だった。その横顔は、長い前髪が覆っていて窺い知ることは難しい。

 真幌は何かを横抱きにして抱えていた。それは人間の、大柄な男性の体に見えた。


 真幌の抱くそれには、首がなかった。


 気付けば、朱華は真幌に向かって駆け出していた。ぴくりとも動かない彼の後ろから、その腕の中にあるものを覗き込む。

 首がないので確たることは言えないが、その体は見たところ雪乃丞のものと思われた。昨日雪乃丞が着ていたものと同じものを身に付けており、体つきも彼と似通っていたのである。


「……真幌君」


 朱華は、次いで雪乃丞の体を抱える真幌を見遣る。

 真幌は、着物が土で汚れることを厭う様子もなく、己の抱く雪乃丞の体を見下ろしていた。

 雪乃丞が首をねられてからは随分と時間が経っているようで、出血は既に止まっている。だが、人間の遺体というものはそれだけでけがれと見なされる存在だ。ずっと雪乃丞の遺体を抱いているのであろう真幌を、朱華はそのままにしてはおけなかった。


「……嗚呼、可哀想な雪乃丞」


 真幌は朱華の方を向くこともなく、ただ雪乃丞の遺体だけに視線を落としていた。

 泣いているのだろうか。朱華は真幌の白い顔に浮かぶ表情を窺う。


──笑っている。


 ぷつん、と朱華の中で何か糸のようなものが切れる感覚があった。

 気が付けば、朱華は衝動的に真幌の胸ぐらを掴んでいた。両手で雪乃丞の遺体を抱える真幌は抵抗することが出来ず──いや、抵抗する素振りを微塵も見せずに、目の前で己を睨み付けてくる朱華へゆるゆると視線を動かす。


「……? どうかしたの、朱華。何やら怒っているようだけれど……気に入らないことでもあったのかな?」

「ああ、あるさ!  あるに決まっているだろう! 君は何故笑っているんだ! 自分の従者が死んだというのに、何故君はそうも呑気に笑っていられる!」


 目をつり上げ、鬼のような形相で叫ぶ朱華。彼の放つ苛立ちが形を持っていたのなら、きっと鋭き刃か、野を焼く熾烈な焔であっただろう。

 しかし、真幌は笑みを崩さなかった。柔らかな、慈愛に満ち溢れているようにも見える微笑みは、美しさを通り越して不気味でしかなかった。己の従者が目の前で事切れているというのに、白木院真幌は動揺することもなくただただ微笑んでいたのだ。

 真幌は胸ぐらを掴まれようと、朱華の手を退かしたり、身を捩ったりすることはなかった。されるがままでありながら、幼子を諭すかのような表情で唇を開く。


「ボクはね、いずれ救世主になれるんだ。今はそのための祭具がひとつだけ足りないのだけれど、それも近いうちに揃うだろう。そうすればボクは救世主となり、雪乃丞を甦らせることが出来る。だから悲しむ必要はないんだよ」

「君は何て馬鹿げたことを言っているんだ! 死んだ人間は甦らないし、そもそも君は救世主などになれない! 世の中の何処かには不思議な力を持つ人間がいるかもしれないが、少なくとも君が救世主になれる確証など何処にもないんだよ! いい加減に目を覚ましたまえ!」

「大丈夫、きっとボクは救世主になれるよ。だから、そのように憤慨しないで欲しいな。今の朱華は、とても醜くて見れたものじゃないよ」


 真幌は笑っている。昨日の錯乱ぶりなど何処かに置いてきてしまったかのように、悠然として笑っている。


「朱華、お前は知らないかもしれないけれど、熾野宮家は救世主を生む血筋なんだ。この世を救い、混沌とした世界に終止符を打つ救世主をね。海の向こうには人々や世界を救済する救世主がいたのだけれど、熾野宮の男児はその生まれ変わりなんだよ。熾野宮が滅んでしまった現在、熾野宮邸の所有者は近永家──すなわちボクの、白木院家の縁者だ。だから、ボクはきっと救世主になれる。熾野宮の救世主になれるんだ! 雪乃丞だって、すぐに甦らせてみせるよ! 雪乃丞が死んでいても、ボクがきっと甦らせるから、悲しむ必要はないんだ!」


 真幌はやけに饒舌だった。その舌の回りぶりには、さすがの朱華も気圧された。

 故に、彼は真幌を突き飛ばした。この憐れな少年を止めるためには、力ずくでどうにかするしか考えられなかったのだ。

 真幌の細い身体はいとも容易く飛んでいった。どさり、と雪乃丞の遺体が重力に逆らえずに地に崩れ落ちる。真幌の手から離れたそれは、最早ただの死体でしかなかった。


「──斯波朱華。もう其処の阿呆に構う必要はない。お前も彼奴と同じ阿呆でないならば、俺たちと共に熾野宮邸に戻ることだな」


 何も言わない──いや、言うことの出来ない朱華に、和比古は至極冷淡に、とてつもなく素っ気ない口調でそう声をかけた。詰まるところ、此処に長居するのは好ましくないので一旦熾野宮邸に戻ろう、と言いたいのだろう。

 たしかに、いつまでも此処に留まっている訳にもいかない。朱華とて死体と長時間同じ場所にいたくはないし、今後のこともある。熾野宮邸に戻って話し合うのが得策だということはわかっていた。

 朱華は突き飛ばした真幌を一瞥する。彼はよろよろと立ち上がると、それでも微笑みを絶やさなかった。


「今は信じられなくても、ボクは救世主になるよ。そうしたら、雪乃丞も生き返らせるし、お前たちの願いも叶えてあげる。だから待っていて。ボクが熾野宮家に伝わる太刀を手に入れるまで、どうか此処を、千世ヶ辻を出ようなんて思わないでね」

「……君は、救世主にはなれないよ」


 微笑みながら告げる真幌に、朱華は冷たく真実を突き付けた。

 真幌は救世主になれない。何が起ころうとも、彼が熾野宮に伝わる救世主になることはない。

 朱華は富ノ森主従を追う。そんな彼を真幌は追いかけることもなく、ただ憐れむような顔をしながら眺めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る