四 夜陰

1

大部屋を出た朱華は、あてもなく熾野宮邸を歩き回っていた。何処でも良いから、腰を落ち着けられそうな場所に行きたかった。

 この屋敷に来てから、真幌は明らかに可笑しくなってしまった。雪乃丞もそれに気付いているのだろうが、彼は真幌に反論することはないだろう。行き過ぎた忠義というものは、主従ごと滅ぼしてしまいかねない。

 すっかり日は沈み、月明かりだけが頼れる光源だった。幸いなことに今日は満月である。足場が見えない──という事態は避けられそうで、朱華は僅かに安堵した。


(……これから、どうすべきだろう)


 熾野宮邸にいたところで、何も始まらないということは朱華もわかっている。

 そもそも、この屋敷は何かが可笑しい。長居してはいけないと、朱華の本能が幾度となく囁きかけてくる。

 早く此処から出なければならない。しかし、日が暮れてしまった以上山歩きは危険だ。早く見積もっても、明日の朝にならなければまともに動けそうにもない。

 朱華は一瞬和比古と平太のことを思い出し、彼らに関しても思案した。

 平太はともかく、和比古は今の状況をどのように考えているのだろうか。今のところ単独行動をしているようだが、彼もまた、この屋敷の探索には乗り気でないようだった。彼が話に応じてくれるのならば、あの二人と共にこの屋敷を脱出することも吝かではなさそうだ。

 朱華は眉間を揉む。考えるだけでも疲れる。このようなことに巻き込まれるのなら、いっそ誘いを断ってしまえば良かった──。


「──そうかしら?」

「……っ⁉」


 突如背後からかけられた声。朱華はびくりと肩を揺らすと、身を翻してその相手を睨む。


「……君は」

「こんばんは。まだいらっしゃったのね。今日は泊まっていくつもりなの?」


 少女──美代は、月明かりを受けてその白い肌をぼんやりと光らせていた。彼女の顔は半分翳り、表情を上手く読み取らせてくれない。

 朱華は瞬時に身構えた。この美代という少女は侮れない。先程も、縁側で邂逅した時も──美代は声をかけてくるまで、一切気配を覚らせなかった。ただの少女とは言い難い。

 答えない朱華に、美代はうっすらと微笑む。口角を僅かに上げ、目を細めた──仏像を彷彿とさせる、穏やかな笑みだった。


「私は別に構わないわ。もともと此処には人が住んでいたのですもの。余計なことをしないのであれば、きっとお泊まりも許されるはずよ」

「……余計なこととは、何だい」


 柔らかな口調の美代に対して、朱華の言動は何から何まで硬く、強張っている。彼は明らかに美代を警戒していた。

 然れど美代は動じない。顎に手を遣って暫し考える素振りを見せてから、再び顔を上げる。


「……そうね。例えば、此処に住んでいた人にとって大切なものを盗む、とか。または、大切にされていたものを壊す、とか。そういったことをしたのなら、多かれ少なかれ罰が与えられるものなのではないかしら」

「……熾野宮は滅んだと聞いている。だとすれば、この家のものをどう扱ったのだとしても、誰も罰を与えられないんじゃないのか?」

「さあね。その辺りまではわからないわ。……でも、悪いことはしない方が吉だ、ということは伝えておくわね。何時、何処で、誰が、何を見ているかわからないもの。唐突に裁かれる時が来たとしても、何の保障も出来ないわ」


 美代は困ったように肩を竦める。しかしその目に親しみというものは皆無だった。


「警告はしたわ。あなたも薄々気付いている頃合いだと思うけれど、此処は普通じゃない。山の外の常識なんて、通じない場所。常人が常人のままでいたいのなら、長居はしない方が得策よ」

「…………」

「それから、あなたといっしょに此処に来た方──山で倒れていた子と、その主人だったかしら。彼らなら、此処から少し行ったところにある、奥まった部屋にいるみたいよ。声をかけたいのなら、行ってみると良いかもね」


 それじゃ、と短く告げてから、美代はぱたぱたと廊下を駆けていった。月と星しか頼りになる光源のないこの場では、美代の背中はいとも容易く夜闇に溶けて消えた。

 気紛れというか、何というか。あの美代という少女は、神出鬼没に過ぎる。

 彼女は、何を伝えたいのだろうか。そもそも、彼女は何者なのだろうか。今の朱華にわかることは少ない。


(平太君を助けてくれた辺り、積極的に害を与えようとする存在ではなさそうだけれど……。うーん、やはりわからないことだらけだな)


 美代について思案していても、無駄な時間を作るだけだ。何せ、彼女は己について何も語らない。忠告や警告だけをして、美代は姿を消してしまう。

 此処で立ち止まっていてもしょうがない。まずは現状をどうにかしなくては。

 朱華は小さく息を吐くと、富ノ森主従がいるという部屋に向かって歩き出した。

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