×××の回想
弐
彼が初めて妻を娶ったのは、十六歳の時だった。
そろそろ来るだろう、と思ってはいたが、取り立てて大きな感情の起伏はなかった。ただ、使用人たちから子を為すための淫らな行為を見せられなくて良くなるということに関しては、少しばかり安堵にも近い感情を覚えた。
相手となるのは、山の麓にある村の娘である。これは彼が産まれる前から──この家が出来た頃から受け継がれている伝統のようなものだ。故に、彼はどうとも思わなかった。
婚姻の祭礼などは行われない。妻となる娘は、予め決められた日時に白無垢を着て山の麓で待つ。そして、この家の使用人たちと共に山中へ入る。
娘はこの家までの道を覚えてはならないと決められている。そのため、彼女は室内に入るまで輿に入れられ、外の風景を見ることは決して許されなかった。
娘が屋敷に到着する頃には、日が沈みかかっている。彼女は屋敷に着いたらこの家についての一通りの知識を叩き込み、白無垢を脱ぎ、体を清めて寝室で待つ。
其処からは私共の教えた通りに、と、段取りを説明した使用人は彼の耳元で囁いた。彼はそれに答えることなく、一人で娘の待つ部屋へと歩いていく。
子孫を残さなくてはならない。そうあれかしと周りからは言われてきた。そのための婚姻なのだ、と念を押された。
躊躇いはない。これといった感慨もない。これは単なる実践演習だ。
彼は寝室の前で立ち止まると、普段他の部屋でそうしているようにあっさりと襖を開けた。そして、部屋の中にいる娘を見下ろす。
「──お初にお目にかかります、
娘は三つ指をついて、
彼は何も言わなかった。無言のまま部屋に入ると、静かに襖を閉めた。
年若い娘。自分と同じくらいの年頃だろうか。
彼は初めて、同年代と思わしき女を見た。屋敷にいるのは、大抵自分よりも歳上の女ばかりだったので、娘のような若い乙女は観察するに限った。
彼も娘も、しばらく動かなかった。娘はじっと頭上から降りかかる彼の目線に耐えていた。きっと、彼女にとってこの時間はとてつもなく長く感じられたことだろう。
「……面を上げよ」
先に動いたのは彼だった。
彼は娘の側まで歩み寄り、片膝をついた。そして、娘の頤を指でつい、と持ち上げた。愛嬌のある顔立ちをした、目鼻立ちの整った娘だった。
娘は、この時初めて己が伴侶となる男の顔を目の当たりにした。自らの眼前におわすその男を見た娘は、ひゅ、と息を飲んだ。
何と、何と綺麗なのだろう、この男は。村の男たちの中にも、これほど綺麗な男はいなかった。まるで天界からやって来た神仙のようだ。
娘は頬を紅潮させた。こんなにも美しい男に抱かれるという事実は、彼女を歓喜させた。娘ははぁっ、と熱っぽい溜め息を溢す。
「御子様──何と、お美しい方──」
熱に浮かされたような娘を前にしても、彼の美貌は崩れなかった。彼はただ、無表情で、目の前の娘を見つめている。
その冷俐な視線すら、娘にとっては自らを蕩けさせるかのような感覚を覚えさせる材料となった。彼女は肌を上気させながら、艶めいた声で彼に告げる。
「私、あなた様の子を孕めるというだけで……嬉しくて──」
娘は何と言おうとしたのか。それは娘にしかわからない。
気付けば、娘の体は体勢を崩していた。彼に平手打ちされて、無様に転がったのだと彼女が知るまで、十数秒の時を要した。
「つまらぬ」
彼は冷たく吐き捨てた。その眼差しの冷淡なことと言ったら、娘が震え上がってしまう程の代物であった。
彼は立ち上がり、何事もなかったかのように寝室を出ていく。娘ははっと我に返ると、彼の後を必死で追いかけた。
「ま……待って、お待ちください! お気に障るようなことをしてしまったのなら謝ります、謝りますから!」
「五月蝿い。去れ」
「な、何が、何がいけなかったのですか⁉ 御子様、何があなた様の気分を害してしまったのですか⁉ 教えてください、ねぇ、御子様ぁ!」
彼はすたすたと歩いていく。無表情のまま、喜怒哀楽いずれも表面に出すことなく、娘に背を向けて進む。
娘は狼狽えた。狼狽えながらも、無我夢中で彼を見失うまいと追いかけ続けた。
これほど美しい人に見放されるのは厭だ。娘の心中を満たしていたのは、駄々っ子にも似た感情である。今まで見たことのない、ずば抜けた美貌の若者。彼の眼中から自分が消えるのが、娘にとっては何よりも辛かった。
彼はある部屋に入ると、ぴしゃりと襖を閉めてしまった。娘は襖を開ける気にもなれず、部屋の前で泣き崩れる。
「申し訳ございません、申し訳ございませんっ、御子様……! 私はあなた様の真意を推し測れない……! しかし、私は、私は絶対に、熾野宮の血を後世に継ぐことの出来る子を生んでみせます……! 決して、決してあなた様の邪魔にはなりません! ですから──」
床に這いつくばって泣き濡れる娘は、襖が開いたことに気付かなかった。そして、其処に立つ男が、どのような顔をしているのかも。
「下らない」
ひゅ、と風を切る、幽かな音。それに気付いた時点で、娘の首は宙を舞っている。
娘は死んだ。何が起こったのかわからないままに、首を刎ねられて死んだ。
おびただしい量の血液が己を濡らしても、彼は眉ひとつ動かさなかった。自らが手にした刀を一振りして血を払うと、もう動かなくなった娘──だったものに目を向ける。
「結局は、何も変わらないのだな」
外界より来る妻ならば、この無感動な世界に波紋を残してくれるかと思っていた。彼は僅かばかり、期待をしていたのだ。
だが、所詮はこの娘も子を成すことしか考えていなかった。そうでなければ、こうも必死で追いかけては来るまい。少なくとも、彼はそう判断した。
そのように考えてみると、何だか全てが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
婚姻が全て水の泡となってしまったが、彼にとっては詮なきこと。後悔することも、歓喜することもなく、過ぎてしまったこととしてしか受理されない。
父はこれからも自分に縁談を持ってくることだろう。妻となる娘を殺してしまったことは咎めず、次々と子を成せる娘を寄越してくるに違いない。まともに話したことのない父親だが、その思考は何となく理解出来た。
きっと、皆自分のことなど子種を放つ雄としてしか見てはいないのだ。皆が求めるのは、己が生産性のみ。それ以外の部分は、どうだって良いのだ。
ならば殺そう。我が子種を求めて言い寄ってくる女は、全て手討ちにしてくれよう。子など作ったところでどうにもならない。あのような行為は、獣に還る下品なものだ。
彼には、それがある種の欲求であるという自覚がなかった。ただ、己の腹の底が煮えたぎるような苛立ちだけを覚えていた。
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