3

 白木院家には、長いこと世話になってきた。

 没落した士族の息子であった雪乃丞は、白木院家に半ば拾われるような形で雇われた。

 家計が苦しくなり、いよいよ一家が崩壊すると言わんばかりだった筧家にとって、白木院家はまさに救世主であった。年齢が近いから、と雪乃丞を一人息子である真幌の従者として雇い入れ、衣食住を保障し、働きに応じて実家に収入も入るという破格の待遇だった。

 どれだけ酷い扱いをされても、家のために働こう。そんな覚悟さえしていた雪乃丞を、主人となった真幌はいとも容易く──勿論良い意味で──裏切った。

 真幌は聡明で文武両道、しかも眉目秀麗な少年だった。余所者の雪乃丞をこき使うような真似はせず、友人のように接してくれた。

 大人ばかりに囲まれてきた雪乃丞は、真幌に感激した。何があろうと、真幌の言うことは大正義なのだと思った。これからは自分が真幌の盾となり、そして何時如何なる時でも彼の理解者でいようと努めた。

 その真幌が、今や魂のない人形のような状態で座り込んでいる。しかも、先程までは救世主だ何だと訳のわからないことを喚いていた。


「……真幌、様」


 雪乃丞は当惑していた。真幌に何があったのか、雪乃丞にすらわからなかった。

 呼び掛けても、返事はない。真幌は虚空を眺めている。

 このような真幌を見るのは初めてだった。

 雪乃丞の知る真幌は、いつも落ち着いていて、最善の判断を下せる男だった。決して、決して半狂乱になったり、情緒不安定であったりすることはなかった。

 ──この少年は、目の前に座り込んでいる人間は、本当に白木院真幌なのだろうか。


(……いかん、真幌様は真幌様だ。俺は、俺は何ということを考えてしまったのか)


 一瞬でも真幌を疑った自分を、雪乃丞は深く恥じた。そして、真幌を誤魔化すためにわざと遠回りしていた自分を、心の底から軽蔑した。

 真幌はいつでも正しい。彼が間違っていることなど、ひとつもないのだ。

 真幌の望みに応えたい。雪乃丞は心の底からそう思っていた。

 何があろうと、真幌を助け、その望みを叶えるのが従者というものだ。誰に何と言われても、自分だけは真幌の味方でいなくてはならない。

 雪乃丞は真幌の手を取った。白魚のごとき、美しい手であった。


「真幌様。あなた様の望みを教えてはいただけませんか。俺は、あなた様の望みを叶えて差し上げたいのです」

「望み──?」


 がらんどうだった真幌の瞳が、此処で初めて雪乃丞の方に向いた。それを視認した雪乃丞は、とてつもない安堵を覚える。

 真幌には、自分が見えている。真幌はまだ、こんな俺を見てくれている! 真幌が傷付けられる姿を見てすぐに止めることも出来ず、彼を疑った自分を! 真幌はまだ、俺のことを見捨ててはいないのだ!

 筧雪乃丞の精神は、白木院真幌という一人の少年を支柱にしているようなものだった。真幌の一挙一動が、雪乃丞の精神に影響した。

 故に、雪乃丞はこの時点で──いや、真幌にその名前を呼ばれたその瞬間から、真幌を抜きにした世界のことを考えられなくなっていた。この美しい主人こそが雪乃丞の世界であり、常識であり、基準であったのだ。

 先程、雪乃丞は朱華にこう問われた。真幌に死ねと言われたら、お前は死ねるのか、と。

 その答えは是である。体面や矜持を抜きにしようとも、雪乃丞は首を縦に振ることの出来る自信があった。

 真幌は、自分の手を取る雪乃丞のそれをもう片方の手で握る。そして、彼はつぅと細く涙を流しながら唇を開いた。


「望み──嗚呼、叶うことなら、ボクは熾野宮に伝わる太刀が欲しいよ。それさえ、それさえあったのなら、ボクは救世主になれるんだ。この世の衆生の一切を救うことの出来る、救世主に」

「救世主……にございますか」

「そう。今のボクじゃ、それは無理だ。条件を全て揃えなければ、ボクは救世主になれない。それでは駄目だ、駄目なんだ。だから、最後のひとつ──熾野宮の太刀が必要なんだ。──ねぇ、雪乃丞。ボクのために、この家に伝わる太刀を探してくれる?」


 潤んだ瞳で、今にも折れそうな程儚い手で自分のそれを握り締める真幌。

 その姿は、あまりにも──倒錯的な程に、美しかった。

 雪乃丞の心臓が、どくりどくりと跳ねる。己の体温が急に上がっていくのを、雪乃丞は感じ取っていた。

 普段は誰にも頼らず、自分の足で真っ直ぐに歩いている真幌が。自分のことを、主人として導いてくれる真幌が。今この瞬間、自分に一縷の望みをかけて頼ろうとしている──!

 雪乃丞の中で、何かが弾けた。最早真幌の願いを聞かないという選択肢は消えた。彼はどのような手を使おうとも、真幌の願いを叶えなければという使命感──ある種の強迫観念に取り憑かれた。


「かしこまりました、真幌様。必ずや、必ずや太刀をご用意致しましょう。全てこの雪乃丞にお任せください」


 赤くなった真幌の頬に流れる一筋の涙を、雪乃丞は優しく拭う。

 次に見るのは真幌の笑顔だ。そのためにも、絶対に太刀を手に入れなければならない。太刀さえ手に入れてしまえば、真幌は救世主になれるのだから。

 様々な感情の入り交じる雪乃丞の胸中を、主人たる真幌は知らない。知るはずがない。

 彼は真っ直ぐに自分を見つめる雪乃丞に向けて、ありがとう、と微笑んだ。その笑みは純粋にして無垢、ただひたすら感謝の念に包まれた美しいものであり──一種の魔性さえ感じさせるものであった。

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