2
間取り図を参照しながら、朱華は書庫とおぼしき部屋までやって来た。書物の整理をするとなれば、まず此処からだろう。
書庫の扉を開けた途端、むわりと埃っぽい空気が朱華の顔面を直撃した。思わず朱華は袖で顔を覆って咳き込んでしまう。
「これは酷いな……」
恐らく、この屋敷自体の時が五年前で止まっている。故に、汚れているのは致し方のないことだ。
しかし、こうも弊害を受けることとなっては腹立たしい気持ちを覚えずにはいられない。
此方は好きで此処までやって来た訳ではないのだ。これで屋敷の掃除までしろなどと言われようものなら、朱華は怒りのあまり暴れ回って、屋敷中を滅茶苦茶にしていることだろう。
まあこの歳で、しかも無人の廃墟でそのようなことをしても虚しさしか残らないので、朱華はおとなしく選別に集中するしかない。
朱華は所狭しと並んだ書架や棚を前にして、書物に損壊はないか、文字が読めるかを確認していく。
五年前まで人の手が加えられていたとは言え、紙は傷付きやすく脆い。それに、いくら閉鎖的な部屋に置いてあったとは言え、太陽光が入る限り色褪せてしまう部分もある。
書物に関わることに関しては、朱華も穏やかではいられない。誰よりも厳しく熾野宮邸の蔵書を見極めなければという、一種の使命感のようなものさえ覚えていた。
しばらくの間、朱華は黙々と蔵書を確認していた。手に取り、装丁を眺め、そして頁をぱらぱらと捲る。彼が手に取った書物は、一冊の例外もなくもとあったように棚へと仕舞われた。
「あ、あの──」
朱華の確認する書物が何十冊目になるかという辺りで、かたり、と小さな物音がした。それに続いて、何処か弱々しげな声が付いてくる。
朱華は書物に落としていた視線を上げる。出入口の方を見ると、其処には細身の人影がもじもじとしているのが見えた。
「平太君じゃないか。一体どうしたんだい? 君は和比古君といっしょだと思っていたのだけれど」
「そ、それが……」
書庫の出入口で、気弱な従者は申し訳なさそうに話す。
「だ、旦那様は、こういったことに不馴れなようで……。後はお前の勝手にしろ、と言って、荷物を持って何処かへ行ってしまわれたのです。家財道具を整理すると言っても、一人、しかも目利きのめの字も知らぬ人間に出来ることなどないようなもの。私はどうして良いかわからなくて、このお屋敷をぐるぐると回っていたのです」
「ふむ、なるほど。それで僕のところに来たという訳かい」
「はい。も、もし、よろしければですが……。斯波様のお手伝いをしても、構いませんか……?」
平太は自信なさげな様子で、朱華の顔を見上げる。断られることを恐れての行動であった。
たしかに、和比古なら命じられた作業を放り出してしまいかねない。そしてそれを何の気なしに平太へ押し付けるのだろう。和比古本人は、それを当然のことと思っているのだ。
やれやれ、と朱華は肩を竦める。一度失禁して少しは反省したかと思っていたが、根本的な部分まで変えることは出来なさそうだ。
きっと和比古は、物心ついた頃から他者に何かを命じる立場にあった。それゆえに、自分が命じられるという状況には慣れていないのかもしれない。廃屋の整理などという汚れ仕事であれば尚更だ。
「良いよ、いっしょにやろう。僕も一人で心細かったんだ」
「……! あ、ありがとうございます……! 精一杯やらせていただきます……!」
「そう畏まらなくても良いのに……」
朱華の返答に、平太は今にも泣き出しそうな表情で平身低頭した。一人でいることがあまりにも辛かったらしい。
そんな彼に苦笑してから、朱華は今まで自分が行ってきた作業について説明をする。そう難しい作業ではないので、平太にも大体同じことをやってもらうつもりだ。
「書物の確認が済んだら、僕に教えてくれ。さすがに棚ごとは動かせないから、この部屋の作業が終わり次第真幌君か雪乃丞君に伝えよう。紙というものは、溜まるとそれなりの重さになるからね。無理して運ぶ必要はない」
「わかりました。では、もう使えなさそうな書物はどうすれば良いでしょうか?」
「そういった書物は、此処にある机に置いて欲しい。他の書物と混じってはいけないからね。あまりにも多すぎて机に置ききれない、という事態になったら僕に教えてくれるかい。その時は対処を考えよう」
平太は、怯えていなければ理解も飲み込みも早い少年だった。朱華の説明を真剣に聞いては、わからない箇所などの質問をしてくる。根は利発な少年のようだ。
平太が平生おどおどとして自信なさげなのは、恐らく和比古の存在があるからに違いない。朱華はあの高慢な少年のことを考えて、何にでもなく嘆息したくなった。
とにもかくにも、作業を進めないことには何も始まらない。朱華はまだ手を付けていない棚の方へと向かうと、蔵書の選別を再開する。
この書庫に収蔵されている書物は、大抵が和紙をこよりや糸で綴じた袋綴じであった。かつて江戸に幕府が置かれていた時代、この形式の書物が普及していたので、恐らくその時代の書物だろう。しかし袋綴じ自体はそれ以前から存在していたので、多く見積もれば足利将軍家の時代のものと見ても可笑しくはない。
(しかし、これは何とも……風情や情緒の欠片もない書物ばかりだな)
選別を進める朱華は、溜め息を吐きたくなるのを必死で堪える。此処で個人の趣味嗜好を出すのは無粋とわかっているからだ。
書庫にある書物は、何やら訳のわからないものばかりだった。解剖学の書のように緻密な人体図が記されているものもあれば、絵巻物のような絵が幾つも記されているものまである。さらには、
詰まるところ、書庫の書物には統一性がなかった。どれも明確な主題はぼんやりとしており、しかも何処からか購入したようには見えない。そもそも、こういった本が売られているのかという疑問点さえあった。
「うわあぁ!」
──が、どうやら朱華が思案出来るのは此処までらしい。
何処からか、どさどさと何かが落ちるような音と、平太のものとおぼしき悲鳴が上がる。朱華は素早く身を翻すと、平太の声がした方へと向かった。
「平太君! 大丈夫かい⁉」
「い、いてて……。申し訳ありません、ちょっとふらついてしまって……」
座り込む平太の周りには書物が散らばっていた。大方、一冊手に取ろうとしたらその拍子に他のものも抜けてしまったのだろう。
見たところ、平太に目立った外傷はなさそうだった。あまり重たい書物が落ちてこなかったことが幸いしたようだ。
朱華は平太を立ち上がらせるために彼に手を差し出す。平太も特に訝ることなく、その手を取ろうとした。
──瞬間、迸るような殺気が肌を刺す。
「平太君っ!」
咄嗟に、朱華は平太を床に押し倒していた。平太は何があったのかわからなかったようで、朱華にされるがまま押し倒される形となった。
どたん、と二人が床に倒れ込む音と、ひゅ、という幽かな風切りの音。
それらが過ぎて尚、二人は数秒間そのままの姿勢でいた。ばくばくとけたたましいお互いの心臓の鼓動だけが過敏に感じられた。
「な……何が、あったんです?」
この空気に耐えられなくなったのか、平太が掠れた声で朱華に問いかける。
朱華ははっとして、すまない、と平太に謝罪をしてから起き上がった。そして、やけに神経質な顔付きできょろきょろと辺りを見回す。
未だに何が起こったのか理解出来ていないらしい平太を差し置いて、朱華はくるりとすぐさま踵を返す。
朱華はある一点に向かって淀みない足取りで歩いていった。そして、先程まで自分がいたところの真後ろにあたる壁に視線を遣る。
「……戯れにしては品のないやり口だな」
「え……?」
いつになく朱華の声は低く重たかった。其処には苛立ちと安堵、そして恐れがない交ぜになって存在していた。
平太はきょとんとしていたが、そう間を置かずに何が起こったかを把握した。彼は朱華の視線の先にあるものを見て、ひいっ、と情けない声を上げる。
「こ、こ、これは……!」
「……恐らく、外から射掛けられたものだろう。書庫の扉を開け放しにしていたのが駄目だったか」
朱華は苦々しげに顔をしかめ、平太は恐怖からか尻餅をつく。
朱華が見つめる先の壁には、一本の矢が突き刺さっていた。
俄には信じられない話である。この明治の世になってまで、わざわざ弓に矢をつがえて対象を傷付けようとする者がいる。
この国に鉄砲が伝来したのは三百年も前のことなのに、わざわざ弓を使おうというのだ。しかも屋外から屋内にいる人物を狙ったのだから尚更驚く他ない。
矢は射るために必要とされる弓を含めて全てを専門の職人に製造をしてもらわなくてはならないので、現在では武具として使用されることはほとんどないようなものだ。せいぜい弓道や伝統的な
すっかり腰を抜かしてしまっている平太を一瞥してから、朱華は突き刺さっている矢を掴んで無理矢理抜き取った。そして、それをじろりと観察する。
(特にこれといった細工のない、まるでお手本とでも言うかのような、何の変哲もない矢だ。だが、この壁に突き立ったということは、僕たちを傷付けられるだけの能力は十二分にあると見て間違いはない)
朱華は矢を握って折る。万が一再利用でもされたものなら堪らない。
朱華は平太の方に振り返る。そして、彼の承諾を得る前にその手を取って半ば強制的に立ち上がらせた。
「平太君、わからないことだらけだとは思うけれど、このまま此処にいるのは危険だ。他の方々に同じようなことがあってはいけないから、とりあえずこのことを真幌君たちに伝えに行こう」
「は、はいっ! わかりました……!」
平太も危機感を抱いているのは朱華と同様のようだった。震える声で、朱華の言葉に同意を示す。
平太の同意が得られたのなら、もう此処に留まってはいられない。朱華は平太の手を引いて、鉄砲玉のごとき勢いで書庫から飛び出した。
何処に真幌がいるのかはわからなかった。だが、朱華は平太の手を引いて熾野宮邸を駆け回った。
(真幌君は熾野宮邸の探索に異常な程執心しているようだった。ならば、熾野宮が熾野宮たりえる場所に彼はいる──!)
間取り図は書庫に置いてきてしまった。しかしそれでも朱華の足は止まらない。
廊下を走り抜け、部屋を突っ切り、曲がり角を曲がる。方角などを気にする余裕はなく、朱華はただ道の続いている方向へと駆けた。
自分たちが何処に進んでいるのか、確固とした自信はない。もしかしたら、真幌のいる場所はもう通り過ぎてしまったかもしれない。
この際、真幌でなくとも良かった。雪乃丞でも和比古でも、自分たち以外の人間に危険を伝えることが出来たのなら、朱華はそれで十分だったのだ。
故に彼は足を止めなかった。ひたすらに駆け続けた。誰かに会えるのならば、それだけで良いと思いながら──。
「貴様ら、何をしている!」
朗々とした、よく通る声が後方から朱華の耳に入る。
朱華は唐突に足を止めた。そのせいで、平太が前方につんのめってしまおうとも構わなかった。
平太が転ばないようにと自分の方に引き寄せてから、朱華は振り返る。ずっと走り続けてきたせいか、視界はあまり明瞭ではなかった。
「……っは、はぁっ、ゆ、雪乃丞君……」
「左様に屋敷を駆け回る者があるか! 何処へ向かおうというのかは知らんが、無作法にも程があろう!」
雪乃丞は朱華たちに近付くと、太い眉をつり上げて叱責した。仰る通りである。
しかし、今の朱華には叱られて落ち込んでいられる程の余裕などない。朱華は雪乃丞に詰め寄ると、先程折った矢を彼に見せた。
「さっき、平太君と書庫を整理していたら、突然矢を射掛けられたんだ。この矢が何よりの証拠だよ。もしかしたら僕や平太君だけでなく、皆も狙われているかもしれないから、誰かに伝えようと思って、それで」
「わかった、わかったからまず貴様は落ち着かんか! 俺は貴様らを疑うつもりなど毛頭ない! そう詰め寄られずとも状況の把握は可能だ!」
何が何でも話を聞いてもらわねばと焦る朱華は、知らず知らずのうちに雪乃丞の胸ぐらを掴みかねないところまで詰め寄っていた。目の前では、雪乃丞がいつになく戸惑った様子で朱華を睨んでいる。
はっと我に返って、朱華は咳払いをする。
いくら緊急事態とは言え、見苦しい真似をしてしまった。二十四にもなって、このような醜態を晒すとは恥ずかしいことこの上ない。
「……っ、すまない。どうやら恐慌状態に陥っていたようだ」
「いや、気にするな。突然矢を射掛けられたとなれば、誰でも貴様のような反応をするに違いない。しかし、仮に我々を狙っている者がいるとするならば、危険であることに変わりはないな。やはり遠回りするのは失策だったか──」
「……? それはどういう──?」
もごもごと何か言い淀む気配を見せた雪乃丞を、朱華は訝る。
朱華は彼に向かって、それはどういうことだい、と問おう──としたが、間が悪かった。そう遠くないところから、がしゃんがしゃんと何やらものを散らかすような、破壊するような音が聞こえてきたのだ。
「ひ、ひぃ⁉」
「何だい、一体どうしたというんだい⁉」
朱華の後ろで息を切らしていた平太は前方の壁──すなわち朱華の背中にしがみつき、朱華は神経質に辺りをきょろきょろと見回した。
もしかしたら、自分たちに矢を射掛けた者の仕業かもしれない。そう考えると、朱華の二の腕には嫌でも鳥肌が立った。何であろうと、あのような出来事の後では少なからず心臓に悪い。
「……北の大部屋からだ」
慌てる二人とは対照的に、雪乃丞はやけに落ち着き払っていた。──いや、本心では狼狽えていたのかもしれないが、何にせよ朱華たちにはわからぬことである。
何はともあれ、雪乃丞は小さく呟くと朱華たちの横を通り抜けて行ってしまった。二人の姿など、もう見えていないかのようだった。
平太はまだ
「こ、れは」
そして朱華は愕然とした。
その場にただ立ち尽くす雪乃丞と同じように、彼は
其処は、大広間よりは手狭だが、それでもかなりの広さのある部屋だった。出入口以外に外界と繋がる場所がなく、そして今が夕暮れ時であることから、光のあまり入らない薄暗い室内という印象を与えた。
部屋の前方には、祭壇のようにも見える雛壇が設置してあった。三段飾りのような造りである。何やら像のようなものと燭台が飾られていたが、像は光を受けておらず全容を窺い知ることは出来なかった。
室内には、もともとは壺や花瓶などであったのだろう破片が散乱している。土足で上がっていたので幸いだったが、履き物を脱いだ状態で踏んでいたら多かれ少なかれ怪我をしていただろう。
いや、部屋に置いてあるものや散らばっているものなど、この際は最早どうだって良いのだ。それよりも目立つ、言ってしまえば異常な、『あってはならないもの』が、其処にはあるのだから。
「──
それは、譫言のような、誰に向けられるものでもない言葉だった。
雛壇の前に、彼はぽつんと立っていた。糸で操られている傀儡かと思わせる程に、その後ろ姿は儚く、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。
真幌様、と雪乃丞の唇から声とも吐息ともつかない音が漏れる。果たしてそれは彼の主人──白木院真幌に届いたのだろうか。
幽霊のように立つ真幌の手には、鞘から抜かれた一振の刀が握られていた。
数年前に帯刀は禁じられたが、所持までは禁じられていない。故に、真幌が刀を手にしていること自体に大きな違和感を覚えることはなかった。
そもそも──刀云々よりも、真幌の様子の方が異様だったのだ。
「嗚呼──駄目だ、これは。鈍だ、
わなわなと震える手で、真幌は刀を見る。暗くて様相はわからないが、彼の言葉が真実ならば、その刀の状態は酷いものなのだろう。
真幌は今にも倒れてしまいそうな、酷く覚束ない足取りで此方へと向かってくる。その表情は
これは本当に白木院真幌なのだろうか。朱華は我が目を疑った。
たしかに、白木院真幌という少年には少し異質な雰囲気があった。穏やかでありながら、弱者を容赦なく切り捨てるような冷徹さを兼ね備えた人間だった。朱華はそれに戦慄し、怖気を覚えた。
しかし、今の真幌はまるで柳の木の下の亡霊だ。風が吹けば消えてしまいそうな程に脆く、儚く、そして虚ろ。瞳に光は宿っていないというのに、光以外の何かで補っている。
それを例えるなら、そう。硝子玉や、蜻蛉玉のような、無機質で冷たいもの──。
「どうして! どうしてボクには機会が与えられないんだッ!」
がっ、と畳に何かが突き刺さる音と、真幌の金切り声。それらは、思案に沈んでいた朱華の意識を否が応にも引き戻した。
畳には、真幌が持っていたはずの刀が突き刺さっている。たしかに、真幌の言っていた通り、刃こぼれが酷く傷だらけだ。しかも、刃には錆のようなものが多くこびりついている。
真幌は荒い息をしながら、暫し突き立った刀を見つめていた。しかし、次には髪の毛を掻きむしりながらしゃがみこんでしまう。
「ボクは条件を満たしているはずだ! 『この熾野宮邸の持ち主であり、まだ二十歳に満たない男児』なのだから! だからボクは救世主になれたはずだった、いいやなるはずだったんだ! 資格を持つ人間と場所は揃っていた、後は道具だけだった! 祭服は整えたのに、肝心の刀がこれだ! 話にならない!」
見れば、真幌は肩から何やら帯のようなものを斜めに下げていた。そして、頭には茨のように棘のある造形をした冠のようなものを乗せている。
これが、真幌の言う祭服なのだろう。しかしそれからは、神道や仏教といった宗教の色合いを感じさせない。
「熾野宮に伝わる、当主のみが──いや、救世主たりえる人間のみが持つことを許されるという秘伝の太刀、それがあれば完璧だった。事は上手く進んだんだ。それなのに、どうして──どうしてこの太刀は鈍なのだろう! 救世主が持つべきものは、いつでも輝かしいものでなくてはならないのに!」
「ま、真幌様。あなた様は、一体何を」
「黙れッ!」
不気味な程饒舌になった真幌を宥めようと、雪乃丞が前に進み出る。しかし、真幌は鬼のような形相で彼に掴みかかった。
「お前はボクの従者だろう! 今の今まで何処をほっつき歩いていたというんだ! ボクがどんな思いで此処に立っていたのか、知りもしない癖に!」
「も──申し訳ございません、真幌様……。ですが……」
「言い訳はいらない! この役立たずの穀潰しめ、お前のような従者などいらない、望む理由がない! お前など、この山で遭難して野垂れ死んでしまえ!」
「真幌君!」
今にも雪乃丞の首を絞め上げそうな勢いの真幌に、さすがの朱華も危機感を覚えた。
このままでは、真幌は雪乃丞を殺してしまう。体格は雪乃丞の方が勝っているが、彼は真幌に逆らえない。真幌に死ねと言われようものなら、雪乃丞はきっと死ぬことも厭わないに違いない。
朱華は無我夢中で真幌の後ろに回り込むと、彼の細い体躯を雪乃丞から引き剥がした。真幌はじたばたと暴れて抵抗する。
「触るな! ボクは救世主なんだ! 太刀さえ、太刀さえ揃ったなら、ボクは救世主になれるんだッ!」
「何を言っているんだい、真幌君! 救世主だか何だか知らないが、君はまず落ち着くべきだ! 君は白木院真幌で、救世主なんかじゃない! 君は白木院家のご子息だよ!」
「やめろ! 出鱈目を言うな! ボクは救世主になる資格を持っているんだ! これ以上ボクの邪魔をするのなら」
お前を殺す、とでも真幌は言いたかったのだろう。
しかし、彼が何かを言おうとする前に、朱華の平手が彼を襲っていた。
ぱちん、と弾けた音と共に、真幌の体は畳に倒れ込んでいる。
「な、何を」
何をするんだ、という真幌の言葉を朱華は待たない。
朱華はそのまま彼の上に馬乗りになると、立て続けに二発、三発と平手を食らわせた。真幌の白い頬に、くっきりと赤い痕が残る。
「いい加減にするんだ、若造め。何が救世主だ、馬鹿馬鹿しい。君がそんなものになれるのなら、この世は今頃救世主という救世主で溢れ返っているさ」
何も言えない真幌の
何度も殴られ、そして凄絶な目付きで睨まれた朱華に詰め寄られた真幌は、急に魂でも抜き取られたかのような、がらんどうの表情をしていた。先程の勢いが嘘のようだ。今の真幌は、黙ってされるがままになっているしか出来ないか弱い少年でしかない。
真幌は何も言わない。話す、という行為すら忘れているかのようだった。
朱華は冷たい瞳のまま、真幌の顔を注視する。これまで自分たちの生殺与奪を握っていた少年が、今は半狂乱になった後呆として動かない。それは、何ともまあ──。
「真幌様から離れろ!」
次の瞬間、朱華の体は衝撃を受けて横に転がっていた。畳の匂いが鼻腔を擽る。
きっと雪乃丞に体当たりされたのだ、と朱華は推測した。転がりながら体勢を整えて、彼は何事もなかったかのように立ち上がる。
「……少し手を上げただけで悪者扱いかい? 雪乃丞君。君は先程まで、真幌君に詰め寄られていたのに」
「黙れ。俺は助けて欲しい、などと貴様に命じていない。そして俺の主人は真幌様だ。主人に手を上げるのであれば、相手が誰であろうと容赦はしない」
「……では、真幌君に死ねと言われたら、君は死ねるのかい」
「死ねるさ。それが真幌様のご命令ならば」
──即答だった。
雪乃丞は完全に朱華を敵視していた。真幌を殴ったのが原因だろう。手荒な真似になってしまったが、今はそれ以外に方法がなかった。致し方のないことだったのだ。
雪乃丞の忠誠心はわかった。どうやら、朱華が想像していたのと同じ──いや、それ以上かもしれない。
これ以上の話し合いは無意味だと朱華は判断した。どう足掻こうと、雪乃丞は真幌への忠義を崩さない。その真幌が、糸の切れた傀儡のようになっているというのに。
「……僕は退室させてもらうよ。今後この屋敷の整理について何かあれば伝えてくれ」
もう此処にいる意味はない。朱華は静かに告げてから、大部屋から出た。
真幌と雪乃丞がこれからどうするのかはわからない。真幌はまた暴れるかもしれないし、雪乃丞が傷付けられる可能性もないとは言えないだろう。むしろ、どれだけの手練れであっても雪乃丞は真幌に手を上げられない。
(……何だか、嫌な予感がする)
ざわり、と。朱華の胸の内がざわめく。
白木院主従とは、しばらく距離を置こう。解決策がわからないからには、そうする他にない。
朱華は重い足取りで、軋む縁側を歩いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます