2
一行が千世ヶ辻村に到着したのは、すっかり日の沈んだ時分の頃であった。まだ落日の残光が残っていて良かった、と御者は言っていた。
千世ヶ辻、というのはこの村を含んだ一帯の地名らしい。千世ヶ辻村の背に聳える山々を越えれば様々な地に赴くことが出来ることから、千の世界に繋がる地──すなわち千世ヶ辻と呼称されるようになったとのことだ。
「いやぁ、真幌坊っちゃんがいらっしゃるのは何時ぶりのことでございましょう。少し見ぬ間に大きくなられて……」
真幌の親戚がいるという屋敷──
何でも、真幌が千世ヶ辻を訪れるのは十年ぶりになるのだという。そりゃ十年も経っていれば人間は成長するものだし、育ち盛りを過ぎた頃であれば尚更だ。
そのおかげもあってか、一行は近永家の者たちから手厚い歓迎を受けた。夕食も豪勢なものを出され、庶民の朱華はそれらを目にした瞬間に思わず生唾を飲み込んでしまった。
「この地は山がちですからね。猪や鹿の肉はとびきりのご馳走なのですよ」
近永家の当主、
真幌から、松之助は彼の父親の弟であり、近永家には婿養子として入ったのだ──と朱華は聞かされた。
松之助は庶民である朱華や余所者の従者という立場の平太に対しても丁寧な物腰で応対した。てっきり淡白な対応をされるかと考えていた朱華としては、良い意味で驚かされた。
松之助いわく、千世ヶ辻に外からの客がやって来ることなどほとんどないのだという。真幌のような、千世ヶ辻に縁のある人間ならばともかく、全くこの地を知らない人間は滅多なことでは千世ヶ辻を訪れないらしい。
「他の地域であれば山で遭難した人間が迷い込むこともあるのでしょうが、この辺りではそういったことがありませんからね。皆様のような賓客は滅多にございません。
「ありがとうございます」
食事も終えたところで、一行はそれぞれの寝室に案内された。真幌と雪乃丞、朱華と富ノ森主従という割り振りであった。
平太はともかく、和比古と同室なのは不安である。朱華はちらと和比古を一瞥して、彼に知られぬ程度に嘆息した。
和比古は夕食に出た山の幸が合わなかったのだろう。どうやら胃もたれしてしまったらしく、顔をしかめて座り込んでいる。少し離れたところで、平太がおろおろとしていた。
(こういった時は、どうするべきなのだろう)
持ってきた本から視線を離し、気まずそうにしている平太を横目で見つつ、朱華は思案する。
朱華はあまり人付き合いが巧みとは言えない。どちらかと言えば、一人で部屋にこもって読書や創作をしている方が好ましい類いの人間である。
他人と全く話せないという訳ではないが、知り合いでなければ上手く話題を振ることが出来ないし、それなりに鍛えてきたはずの語彙力が一瞬にして消滅する。誰かと話す時は、宗一郎のような人間を間に挟まなければ会話するのは難しかった。
詰まるところ、朱華は人見知りなのである。もう二十四歳にもなって何を言っているんだと呆れられてしまいそうだが、こればかりはどうしようもない。直そうにも直せないのだ。
どうしたものか、と朱華は悩む。平太をこのままにしておくのは可哀想だし、憐憫の情すら湧いてくる。しかし、こういう時にどのような声のかけ方をすべきなのか朱華にはわからない。
悩んでいる間も、時間は無慈悲に過ぎていく。朱華が勇気を出すのが先か、それとも和比古の機嫌が一定値を越え、平太に八つ当たりするのが先か──。
「やあ、三人とも起きてる?」
嫌な静寂を突き破ったのは、何の合図もなく襖を開け放った真幌だった。
唐突な登場に、三人は同時にびくりと身体を震わせる。
「あれ、驚かせちゃった? それならごめんね、そんなつもりはなかったんだ」
「……何の用だ、白木院」
片目を瞑って手を合わせる真幌に、和比古が鋭い視線を送る。
本当にこの二人は学友なのだろうか、と朱華は思う。馬車の中でも、真幌と和比古はほとんど会話らしい会話をしていなかった。加えて、真幌はともかく和比古はやたらと刺々しい。友人というのなら、もっと友好的であるべきだろうに。
和比古から睨まれても、真幌は特に気にする様子を見せなかった。言い争いにならないのは、真幌の背後に雪乃丞が付いていないからであろう。
「せっかくの機会だし、三人と話しておきたくてね。今、大丈夫かな?」
「僕は構わないけれど……。二人はどうだい?」
「あ、えっと、私は大丈夫、です……!」
「……勝手にしろ」
朱華が富ノ森主従に尋ねると、平太は声を上擦らせながらうなずき、和比古はふいとそっぽを向いてしまった。真幌を追い出さなかっただけましなのだろうか。
三人の答えを聞いた真幌はありがとう、と告げてから座布団を引っ張ってきて其処に座る。平太が申し訳ございません、と謝ろうとしたが、真幌は微笑だけでそれを制した。
良家の人間であれども、真幌には驕ったところが見受けられない。和比古とは大違いである。何がどうしてこの二人は共に休暇を過ごすことにしたのだろう、と朱華の中の疑問は膨らむばかりだった。
「さて、三人には話しておかなくちゃならないことがあってね。今回の旅行の目的──つまり、ボクの別邸についてさ」
来客用にと置かれていた煎餅をつまみながら、真幌は口を開く。煎餅一枚を食べるにも、不思議なことにやたらと様になる。
「件の別邸は、この村の外……山の中にある。其処に行くまでは、山道を歩いていかなくてはならないんだ」
「山歩きくらいなら、僕は大丈夫だけれど……。険しい道なのかい?」
「ううん、それほどでもないよ。ボクが気にしているのは、山歩きや、山の危険性についてじゃないんだ」
「そ、それじゃ、どうして……?」
ちゃっかり朱華の背中に隠れるようにして話を聞いていた平太が、首をかしげて疑問を示す。彼は真幌のことも怖いらしく、朱華に頼ることを選んだようだった。
平太からの控えめな問いかけを受けた真幌は、にこやかだったその表情を刹那のうちに潜めた。端正な顔立ちが、能面がごとき無に包まれる。
「……ボクたちが向かう別邸は、今でこそ近永家のものだけれど、近永家が所有するようになったのはつい最近のことなんだ。それまでは、
「熾野宮……?」
「そう。この辺りの山の中に、由緒あるお武家様の墓があったのだけれどね。お武家様の棺と共に葬られた遺産は相当歴史のあるものだから、お宝目当ての墓泥棒が多発したんだ。しかし、その墓泥棒たちがお目当ての品に辿り着くことはなく、皆山中で何者かに首を斬られ、首のない遺体だけが人里に打ち捨てられていたらしい。だから、近隣の人々は呪いだ何だと山を恐れた。でも、当時の人々は、生活のために山に入らなければならないこともあったから、犠牲者は減らなかった」
真幌の口調は淡々として、抑揚がない。それが一層不気味な雰囲気を孕み、朱華は知らず知らずのうちに唇を噛んでいた。
「確か徳川の時代の初め辺りだったかな。都の方からやって来た熾野宮という姓を名乗る人たちが、山での凶事をなくす代わりに、山中に住まわせてくれって頼みに来たらしくてね。彼らが山中に屋敷を建て、其処で暮らすようになってから、変死体が里に打ち捨てられることがめっきりなくなったんだって。一説には、彼らは迫害を恐れて逃げてきたキリシタンで、神の御業によって呪いを退けた──なんて話もあるけれど、真偽は定かではないんだ」
「へ、へぇ……。良い話じゃないか」
「それが、そうでもないんだよ。この話には続きがあってね。本題はむしろこっちの話の方にある」
気付けば、この場にいる誰もが真幌の話に聞き入っていた。そっぽを向いていた和比古も、いつの間にか真幌の方に顔を向けている。
それを知ってか知らずか、真幌は一呼吸置いてから話を続けた。
「熾野宮家の者たちは、村人が山に立ち入ることを禁じた。しかし、それでは村人たちの生活にも影響が出る。其処で熾野宮家の者たちは、熾野宮家に子が出来た時には、村人の中からその婚約者を差し出すようにと命じたんだ。村人たちはその取引を飲んで、熾野宮家に子が出来る度に婚約者となる若者を彼らに差し出した。そして、熾野宮家は山の幸を村に提供したんだよ」
「なるほど、需要と供給ということだな」
「……和比古、君は興味がないように見えていたけれど……本当は気になっていたの?」
「う、五月蝿い! 良いから早く続けろ!」
ふむ、と相槌を打った和比古を、真幌は悪戯っ子のような目で見た。恐らく確信犯であろう。
「この取引は上手くいっていた。この明治の世まで続いていたくらいだ、お互いに満足のいく取引だったのだろう。──けれど、そう。明治という時代に入ってから、熾野宮家と千世ヶ辻村の関係に暗雲が漂い始めた」
「……どういうことだい」
「ボクも噂に聞いただけだから、詳しいことはわからないけれど……。何でも、嫁いでいった村の娘が姿を消してしまうんだって。熾野宮家はその度に新しい娘を村に要求したらしいよ。でも、姿を消した娘たちは村に帰ることはなく、熾野宮家にも戻ってこなかったらしい」
「そ、そ、それ、お嫁さんたち、熾野宮家の人に殺されてしまったんじゃ……」
「へ、平太っ!」
「おやおや、二人とも。ボクはまだ其処まで言っていないのに」
震えながら口を開いた平太を怒鳴り付けたのは、しきりに二の腕を擦っている和比古であった。
見れば、彼の顔は真っ青で、平太と同様にがたがたと震えている。すまし顔をしていたかと思いきや、深読みをして戦慄していたようだ。
朱華とてうすら寒いものを感じない訳ではなかったが、まずは話を最後まで聞かなくてはならない。彼は目線で真幌に続けてくれと促す。
「まあ、村人たちも二人と同じように考えたのだろうね。これは可笑しいと訴えたらしいけれど、熾野宮家は黙りのままだった。そもそも、熾野宮家と取引するとは言っても、熾野宮家の血を引く者は表に出て来ないんだ。村人たちと取引をするのは、専ら熾野宮の使用人の役目だった。だから村人は熾野宮家の当主や、その子と話すことも出来ないまま、生活のために娘を差し出すしか出来なかった。この辺りはとても辺鄙だし、政府の役人の目も届かないからね。村人たちは、熾野宮家に従うしかなかったんだよ」
「そ、そんな……」
「けれど、そう……今からちょうど五年前のことだったかな。熾野宮家に嫁いでいった娘が、嫁いでから一週間もしないうちに村に舞い戻ってきたんだ。しかも日の沈んだ真夜中に、襦袢姿のままでね。彼女は取り乱しながら、心配して駆け寄ってくる村人たちにこう言ったそうだ。『熾野宮家が滅んだ、熾野宮の者は皆死んだ』──とね」
「なっ……!」
どういう意味だ、と和比古が言おうとしたが、真幌は構わずに口を動かす。
「村の男たちは翌朝、熾野宮の屋敷へと大勢で乗り込んだそうだ。屋敷の中はまさに血の海といった様子でね、使用人から家人に至るまで、大勢の人間が斬り殺されていたんだって」
「……皆殺しにされた、ということか?」
「そうだね、きっとそうだよ。嫁いだ村の娘以外に逃げ出した者がいたのだとしても、村人は熾野宮家の内情を知らないからね。嗚呼、熾野宮の人間は禁忌に──かつてこの山に在った呪いを受けて、皆死んでしまったのだと彼らは解釈したそうだよ」
「山の、呪い……」
「熾野宮邸にあった遺体の数々は村外れに運ばれて、皆いっしょくたに弔われた。祟りがあってはいけないからと、高名な僧侶まで呼んだらしい。そのおかげかな、今は例のお武家様のお墓があったところにでも近寄らない限り、村人たちが山に入っても何の弊害もないらしいよ」
はい、おしまい。
あまりにも明るい調子で、真幌は話を終えた。それこそ、ちょっとした噂話でも話すかのような口振りだった。
「熾野宮が可笑しくなり始めたのは、ボクが最後にこの村を訪れた数年後からなんだって。だからこの話も、松之助叔父さんやよしゑさんからの手紙で伝え聞いただけだ。もしかしたら所々事実とは異なる点があるかもしれないけど、其処は許してね」
「……では、真幌君。僕たちはその熾野宮邸に行くために千世ヶ辻に連れて来られたということなのかい?」
「そっ、そうだぞ白木院! それに、な、何故、現在近永家が熾野宮邸を所有している⁉」
なるべく平静を装う朱華とは対照的に、和比古の声は誤魔化しがきかない程度まで引っくり返っていた。真幌の話はかなり堪えたようだ。何も言わないが、朱華の後ろにいる平太も顔を青くさせてぶるぶる震えながらしがみついている。
怖がらせた張本人──真幌は数秒間きょとんとしていた。そして、「ああ、それがね」と何事もなかったかのように答える。
「実は、よしゑさんの妹さんが熾野宮邸に嫁いでいてね。近永家って男の子が産まれなかったから、よしゑさん以外皆お外へお嫁に行ってしまったんだ。本当は四人姉妹なんだよ。確かお嫁に行ったのは、一番末っ子の──」
「御託は良い! 詰まるところ、近永家しかあの屋敷を引き取れる者がいなかったのだな⁉」
「そういうことさ。話が早くて助かるよ。まあ、引き取ったと言ってもあの屋敷は遺体を片付けただけで手付かずの状態だ。例の事件からもう五年も経ったことだし、いい加減に整理をしなくちゃならないと思ってね。この休暇を利用して、片付けをすることにしたんだ」
「……なるほど、僕たちは生贄のようなものなのだね」
「言い方が良くないよ、朱華。死にに行くのではないのだから、生贄という言い方は可笑しいと思うな。皆で生きて帰って来れるよ、多分」
くすくす、と笑む真幌は確実にこの状況を楽しんでいる。多分、などと付け加えたのも、富ノ森主従を怖がらせるために違いない。
朱華は眉間を揉む。
何にせよ、此処まで来てしまったからには引き返せない。今の自分には、千世ヶ辻から自宅に帰ることすら出来ないのだ。此処は腹を括る他ない。
「とりあえず、このことはボクたちだけの秘密だ。松之助叔父さんやよしゑさんに知られたら、叱られるだけでは済まされないからね。明日の明朝、こっそりと此処を脱け出そう」
「……ちなみに、このことは雪乃丞君に知らせているのかい?」
「いいや、今から伝えるつもりだよ。雪乃丞の奴、お客様の身分なのに皆の手伝いに勤しんでいるからね。そうだな、寝る前にでも伝えておくのが良いだろう」
就寝前にこのことを伝えられる雪乃丞のことを思うと、朱華は彼が不憫で仕方がなかった。何処の家も、従者は苦労するものらしい。
それじゃあ、明日ね。そう告げてから、真幌は軽やかな足取りで部屋を出て行った。儚げな見た目でありながら、野分のような男だと朱華は思った。
「……俺たちに、拒否権はないのか……」
見れば、後方でがっくりと項垂れている和比古と、朱華の背中にくっついて離れないのではないかという勢いで震える平太がいた。
今ばかりは、この二人に同情せざるを得ない。朱華はおもむろに天を仰ぎ、己が境遇をひっそりと嘆いた。
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