113話 Drop of Sadness
季節が巡り、ライオアクティス王国に本格的な夏が訪れた。
日が昇りきらぬ時間帯でさえ、僅かに体を動かしただけでもじんわりと汗がにじむ。
「あっつ……」
声を絞り、汗ばむ体を動かし、アリサはとある場所を目指していた。
寒さにはある程度慣れてはいるのだろうが、熱さには滅法弱いようだ。
こんな状況では、安眠などできるはずがない。
アリサは眠りにつけず、この日も学園の敷地内を散策していた。
彼女が目指すのは、校舎棟の屋上だった。
風が吹き、心地のよい場所。ひとりになり、心が穏やかにいられる場所。
たびたび足を運んでいるが、普段から人気が少ない。
更に今は時間帯も加味して人に会うリスクは最小限と言えるだろう。
やっとの思いで屋上へと到着。
ドアを開け、あと一歩踏み出せば快適な空間へ──というところで、アリサはあることに気がつく。
「うわ……」
無意識のうちに自分の手に握られていたのは、クレインとの鍛錬の際に用意していたよく濡れたタオルだった。
なぜ、こんなものを用意していたのだろうか。暑さが無意識のうちに用意させたのだろうか。
だが、今日という日に限ってはちょうどいい。
これほどまでに暑ければ、このタオルの出番もあるというもの。
「おー、アリサじゃねえか! こんな時間に起きてるなんて珍しいな!」
自分の行ないに呆れつつため息を漏らしたところで、アリサを呼ぶ快活な声がひとつ。
視線をやれば、そこにはクレインがいた。
鍛錬に勤しんでいたのだろう。息を切らし、金髪は流した汗で湿っている。
しかし、汗をかきながらもいつも浮かべている爽やかな笑みに変化がない。
「へ」
朝から彼と会うのはどうにも心の準備ができていない。
アリサの口からは、間抜けな声が漏れた。
なぜ、こういうときに限って彼は自分の足が向かう方向にいるのだろう。
あの教師といい、自分の居場所に踏み込まれているようでいい気はしなかった。
「ん? 俺の顔になにかついてるか?」
「べ、べべ別になにもないよ。それより、クレインの方こそ珍しいじゃん。普段はグラウンドで走ってるんでしょ?」
自身の顔を触りながら不思議そうに問うてくるクレインに、アリサが慌てて返す。
毎朝、彼が鍛錬に励んでいることは知っていた。
本人の口から聞いていたし、時折屋上から見ていた。
だからこそ、会うことはないと踏んでこの場所に来たというのに。
屋上で鍛錬に励んでいるなど、予測のしようがなかった。
「たまには、気分転換に場所を変えてみるのも悪くねえと思ってよ。それに、なんつーか……」
「?」
「なんとなく、アリサに会える気がして」
アリサの目を見て伝えられた言の葉。
浮かべているのは、いつものように爽やかな笑み。
しかし、その目はいつもと違って見えた。
どこまでも澄んで、それでいて吸い込まれてしまいそうな翠の輝きを放っていた。
「なに、それ。モーリスさんに私が寝坊助ってこと告げ口したくせに」
咄嗟に目を逸らし、アリサが返したのは皮肉にも似た言葉だった。
早起きが苦手な自分を待つのなら、この時間に、そしてこの場所で待つのは不自然なことだ。
「悪かったって。ま、シェリルから最近アリサが健康的な生活を送ってるって話と、ここでレイフ先生といたって話を聞いてたんだ」
だから、この場所を選んだんだ、とクレインは照れ臭そうに頭を掻きながら続けた。
小さな
「そうだ。せっかくだし、アリサも一緒に走るか?」
「冗談。暑くてうんざりしてるのに、余計な汗かきたくなもん」
「その割には、ばっちりタオルまで用意してんだな?」
そうだった。自分の手にはあのタオルが握られていたのだ。
クレインと遭遇した衝撃で吹き飛んでいたが、指摘されて手に清涼感が戻った。
「これだけ暑いんだから、タオルぐらい持ち歩くって。まあでも、クレインの方が暑そうだし? どうしてもって言うならあげなくもないよ。今日もタオル忘れてきたんでしょ?」
「はは、返す言葉もねえや。実家にいるときは、いつもモーリスが持ってきてくれてたからな。癖ってのは恐ろしいもんだ」
照れ臭そうに笑いながらも、クレインはアリサからタオルを受け取る。
そして、気持ちよさそうに汗を拭い取った。生き返る、とでも言わんばかりに。
いつもの見慣れた光景に、アリサの口元は自然と綻んでいた。
「クレインはまだ走るんだ?」
「だな。もう少し体を動かしときたいし、なによりアリサのおかげでやる気が出たからな」
言って、クレインが嬉しそうにタオルを首にかけた。
「そ。あんま無理しすぎないようにね」
「おう、ありがとな」
いつものように軽いやりとりを交わす。そのまま背を向け、アリサが歩みを進める。
それぞれの時間に戻ると思われた瞬間──
「アリサー! 今日の夜、またここで会えねえかなー!? お前に言いたいことがあるんだ!」
──耳を劈く、クレインの叫び声。
肩が跳ね、アリサが振り返る。視界に映るのは、やはりどこまでも爽やかなクレインの笑顔だった。
驚きのあまり一瞬返答に迷ったが、次の瞬間には口の端をあげて──
「わ、わかったー!」
──慣れない大声を発したためやや上擦ったが、アリサも笑顔で返す。
その声を聞き満足気な表情で「また連絡するわ!」と、クレインが大きく手を振った。
どこまでも全力。どこまでもまっすぐ。
そんな彼に、アリサは再び背を向けながら手をひらひらと振って返した。
階段を降り、自室へと向かう。その足取りが妙に軽かった。
不思議なもので、なぜだか心も踊っているような気がした。
自分は今、きっと、ものすごく気の抜けた顔をしているのかもしれない。
学生寮までの道のり。
到着までかなりの距離があるというのに、それすらも気にならない。
クレインはいったい、どんな話をしてくれるのだろうか。
アリサ自身、そのような浮ついた考えをしていることに内心呆れてしまう。
しかし、この瞬間くらいは夢を見ても良いのではないか。
一瞬、そう思ってしまった。
そんなとき、ふと彼女の制服のポケットから無機質な機械音を鳴らす。
取り出したのは、魔法学園の生徒に支給されるものとは違う、白い通信端末だ。
アリサの口からため息が漏れた。
夢に溺れていた自分に対する仕打ちだとしても、現実に戻されるのがあまりにも早すぎる。
≪よう、アリサ≫
渋々端末を耳にあてると、響いてきたのは端末越しにもわかる楽しげな男の声。
「ゼロ。どうしたの」
努めて、冷たく言葉を放つ。
このタイミングで、ゼロが連絡を寄越してきた。
得体の知れない彼のことだ。
なにを伝えたいかは不明だが、ろくでもないことを考えているのは確かだ。
≪なに。お前が学園生活を楽しんでるかと思ってな。少し気になったんだ≫
声の奥で、嗤っているのがわかる。
そんなことを聞きたいわけではないはずなのに、まず開口一番に、相手の嫌がることを問うてくる。
本当に、性格が悪い。
「楽しいわけ、ないじゃん。なに言ってんの」
≪だと思ったよ。いやな、情が移ったんじゃ任務に差し支えると思ってな。一応確認しておきたかったのさ≫
「……そんなくだらないことで連絡してきたんだったら切るよ」
≪まあ待てよ、お前はいつもせっかちすぎる。ユーモアがないと、この先ハッピーに生きていけないぞ?≫
「ねえ」
≪ったく、わかったよ。これだから最近の若者ってやつは……≫
ならば最初から本題に入ればいいのに、と思うが彼はそういう人物だ。諦めるしかない。
アリサの呆れがようやく通じたのか、ゼロが咳払いで声の調子を整え、再び言葉を紡いだ。
≪そっちにラルグを向かわせた。合流次第、作戦を実行してくれ≫
「……」
返答に、僅かに時間を置いて。
「わかった。終わり次第、すぐそっちに帰るよ」
≪いい返事だ。報告を楽しみにしてるぜ?≫
ゼロが連絡を寄越した理由。
今宵、言い渡された任務、その最終局面に関するものだった。
≪じゃあな、アリサ。最後の学生生活、悔いのないように過ごせよ?≫
念を押すように告げ、アリサの返答を聞くこともなく通話が途切れた。
あまりにも自分勝手すぎるし、内容が回りくどい。
ゼロは自身が楽しむためにやっているようだが、アリサは彼との会話が苦手だった。
なにを考えているかわからないうえに、いつも妙に楽しそうなのだ。
だが、今回はいつも以上に彼の楽しそうな様を受け入れることができなかった。
「なんで、かな……」
先ほどあんなに軽かった足が、鉛でも埋め込まれたかのように重い。
一歩踏み出すだけでも、相当なエネルギーを消費する。
それだけではない。彼女の足を、無数の手が掴む。
現実に引き戻すため、一時的な幻想からアリサのことを引き戻すため。
彼女が命を奪った者たちが、怨嗟の声とともに現れる。
改めて、自分の過ごしてきた世界を認識する。
そして、自分がなんのためにこの場へきたのか再度思い知らされた。
──〝
ただ任務をこなすだけ。何千何万と葬った命のなかに、たったひとりの少年が加わるだけ。
痛みもない。悩むことも、迷うこともないはず。
しかし、彼のことを考えれば考えるほど、脳裏に浮かび上がるのは数々の思い出。
いつも向けてくれる、爽やかな笑顔。鍛錬のときに見せる、真剣な表情。
そのどれもが、アリサのなかで輝いていた。煌めいていた。
「……なんで、こんなに苦しいの……?」
アリサの弱々しく放たれた言葉は、虚空に吸い込まれてゆく。
知らない。理解できない。
自分のなかに答えがないからこそ、締めつけられる。
鉛のように重かった足は完全に動きを止め、アリサはその場でしゃがみこんだ。
彼女の頬を伝う
それは、アリサにも知り得ないことだった。
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