112話 Spreading Heat
学園での生活が開始し、数か月の時が流れようとしていた。
振り返れば、ずいぶんと長い期間が経過したように思う。
だが、それもじきに終わる。
この手で金髪の少年を撃ち抜き、任務を達成する。
それだけの簡単なことだ。
いつものように任務をこなし、またあそこへと戻るのだ。
あの、血と雪で塗り固められた世界に。
「──アリサー! 起きてるー?」
「え……」
呼び鈴と一緒に飛んできたのは、快活な少女の声だった。
意識を取り戻したのは、どこまでも体が沈むほどにふかふかのベッドの上。
部屋には、気持ちの良い朝日が差し込んでいた。
生徒手帳を取り出し、時間を確認すると時刻は八時一五分。
いつも通り、快活な声の主──シェリルがやってくる時間帯だ。
普段ならば夜は起きているか、意識を保ったまま体のみを休めている。
そのため直前までなにをしていたのか記憶しているが、この日はさっぱり思い出せない。
まさか、熟睡していたのか。この場所で。
考えたくはないが、そうに違いない。その証拠に、今ドアの奥から聞こえてくる少女の声で目を覚ましたのだから。
こんなことがあっていいのだろうか。覚醒して間がない頭を必死に回転させるが、やはり答えは出てこない。
「アリサー?」
「ご、ごめん! 今行くー!」
再び聞こえてきたシェリルの声に、アリサはベッドから飛び出し、慌てて鏡の前へと移動する。
移動しながら寝間着を脱ぎ捨て、脱ぎ散らかしていた制服に袖を通した。
そこでふと気がつく。
手入れがされていないボサボサの髪に、掛け違えたボタンと、曲がったネクタイが巻かれた制服。
普段はあえて隙を作るため、心の距離が近づくきっかけを生み出すためにだらしない自分を演じてきた。
これは果たして、偽りの自分なのだろうか。
「おはよう」
「ん、おはよ」
ドアを開け、簡単に挨拶を交わす。
いつものように、小柄な少女がそこにいた。
癖のない、肩まで伸びる茶髪に穏やかな笑みが良く似合う。
シェリル=ローランドは時間帯に関係なく、いつものシェリル=ローランドだった。
「アリサ、今日はいつになく慌てたみたいだね。ネクタイも髪もすごいよ」
「ま、まあね」
直前までぐっすり寝た結果、準備に費やす時間が削られたなんて言えるわけがない。
下手な誤魔化し方をするアリサに笑みを送り、シェリルは慣れた手つきでアリサのネクタイを締め直し、水魔法を駆使して髪を梳かした。
いつ見ても大した腕前だ。
最初に会ったときから彼女の腕は目を見張るものはあったが、その技術は日に日に洗練されているように感じる。
アリサがシェリルの顔を見ながらゆっくりと歩を進めていると、視線に気がついたシェリルが目線を合わせる。
一瞬不思議そうな表情を浮かべたものの、そのまま優しく、そして穏やかな笑みを向けてきた。
「今日はよく眠れたんだね」
「え?」
「だって、今にも飛び起きました、って感じだったもん。いつもならふにゃってしてるのに」
やはり、シェリルにはバレていたようだ。
言って、彼女はふにゃっと顔を崩してみせた。
どうやら、普段のアリサの真似をしているようだ。
ただ茶化しているようにも見えるが、そうではない。
シェリルが、アリサことをよく見ているからこそできることだ。
それもそうだ。毎朝アリサを起こし、こうして校舎までの道のりを共にしているのだから。
「私、そんな顔してないし。ま、ぐっすり眠れたことには変わりないけどさ~?」
アリサは、誤魔化すように頬を膨らませる。
自分のことを理解されていることが嬉しいような、気恥ずかしいような。
そんな複雑な気持ちが、アリサの中で渦巻いていた。
「ふふ、よかった」
「どういうこと?」
「アリサが楽しそうだから、私も嬉しいなあって思っただけ」
「……なにそれ」
言って、シェリルはそのまま歩き出した。
結局、校舎へ着くまで他愛のない会話が続いた。
本当に、何気ない内容だった。
年相応の女の子がするような、何気ないもの。
それは、校舎へ入ってからも変わることはなかった。
──ふと、アリサが窓に視線を移す。
そこに映し出された自分の顔。その口元が、やけに緩んでいた。
なんとも、呑気な表情だ。
それはまるで、これから訪れる出来事を楽しみにしているかのようで。
今、隣を歩き毎日のように世話を焼く少女とのやりとりを。
誰よりも遅くやってくる、表情には出さずとも喜怒哀楽をきっちり示す銀髪の少年と過ごす時間を。
そして──やけに、自分の関心を引くあの金髪の少年の存在を。
その全てに対して、苛立ちがおさまらない。
本来、無関心を貫いていた全てが、彼女の中心になりつつある事実に。
あくまでもこれは任務のため。
彼らのペースに合わせているのは、あくまでも円滑に任務を進めるため。
決して私情など挟んでいない。
絶対に、楽しみになどしていない。
しかし、思えば思うほど苦しいのはなぜだろう。
本当に任務を完遂できるのだろうか。
〝このままで、いいのか〟
まただ。またあの言葉が脳裏をよぎる。
少女の胸は、確かに締めつけられた。
◇ ◇ ◇
週に一度やってくる、魔法学園の休日。この日、アリサたちは市場へと買い物に出かけていた。
なんでも、シェリルが食材を買い足したいとのこと。自炊をかなりの頻度でする彼女のことだ。なんら不思議なことではない。
学園生活にもずいぶん慣れたということもあり、シェリルが贔屓にしている店も増えていた。
そのため、買い物の結果ヴァンとクレインが、両手に大量の食材が詰まった紙袋を抱えることとなった。
「さ、流石に買いすぎじゃねえか? こんなに食いきれるのかよ」
「大丈夫、ヴァンがたくさん食べるもん。ね、ヴァン?」
クレインの心配をよそに、ヴァンが無言で頷いてみせた。
シェリルの料理ならば、いくらでも食べられると言わんばかりに。
「そりゃ結構なこった」と呆れたように答え、クレインは再び歩き出した。
「そういえば、これからどうするの? クレインは余裕みたいだけど、まだなにか買うの?」
「うーん。寄りたいお店はあるけど、今日はこのぐらいにしようかな。買ったもの、整理したいし」
つい買いすぎちゃった、と照れ臭そうに笑うシェリルが、両手で抱えた紙袋を軽く持ち上げてみせる。
アリサもシェリルと同じ量の食材が入った紙袋を抱えてるいるが、比較的余力を残している。
食材が増えても問題はなかったが、彼女がそう言うのなら従っておいた方が良さそうだ。
実際、これだけの荷物を持ったまま行動するのは流石に厳しいものがある。
前を歩くクレインから安堵のため息が漏れ、一旦休日の買い物に幕を下ろそうとしたそのとき──
「ちょっと、あんたたち! 魔法学園の生徒さんじゃないのかい?」
突如、快活な女性の声に呼び止められた。
振り返ると、とある飲食店の前に立つ女性がいた。
どうやら声の主は彼女のようだが、しかし不思議なものだ。
相手は知っているようだが、当然こちらは顔を知らない。
誰かの知り合いではないか、とシェリルたちに視線を向けるが、三人とも首を横に振った。
「そうだったね、あたしの顔を知らないのも当然っちゃ当然かい。……ほら、少し前にフラブ草を採りに行ってくれたのって、あんたたちじゃないのかい? メンバーのなかに、カイザーさんとこの息子さんがいた、って話を聞いててさ」
おそらく、先日行なわれた新入生クエストのことだ。
ホルムの街へ行ったとき手厚い歓迎を受けたため、人づてに噂が広がったのだろう。
四人が頷くと、その様子を見た女性は、花のような笑顔を更に輝かせた。
「ほら、やっぱり。実はね、あたしの子どもが病気してて。でもね、あのフラブ草で作った薬を飲ませたら一発で元気になったんだよ」
「わ、そうだったんですね!」
彼女の視線の先、店内で接客をする少年の姿があった。
病気とは無縁。まさに、元気を絵に描いたような人物だった。
そんな繋がりがあるものなのか、と。
アリサが、何気なく彼女の表情に視線を移す。
幸せが滲み出ているからこそ、浮かびあがる笑顔。
瞬間。
女性の顔が、今まで自分が命を奪ってきた人間の姿と重なった。
これまで殺めてきた者のなかには、家庭を持つ者、愛する恋人を待たせている者。
その者の将来の平和を願う人物がいたかもしれない。
それを、自分が奪ったのだ。
無感情に、機械的に。任務の一環として。
仮に目の前の女性が敵だったとして。
自分が、命を奪うとする。
彼女の子どもは悲しみに明け暮れ、復讐の道を歩むかもしれない。
悲しみの連鎖は、止まることを知らない。
「──アリサ、大丈夫かよ?」
「え」
自分の顔を、クレインの瞳が覗き込んでいた。
「酷い汗だし、顔色も良くねえ。……やっぱ、一旦帰るか?」
言われて、初めて気がついた。
慌てて顎を拭うと、確かに大量の汗をかいていた。
「最近暑くなってきたし、汗ぐらいかくって。クレインは大げさだなあ」
我ながら苦しい言い訳だ。
それでもなお、クレインは心配の表情を崩さない。
そんなふたりを見て、女性が再び花のような笑顔を浮かべた。
「じゃあ、休憩がてらうちでご飯を食べていきなよ。この前のお礼も兼ねて、サービスするからさ」
「わあ、ありがとうございます! オススメはなんですか?」
「全部オススメ、って言いたいところだけど今日はいい魚が入ったんだよ。フライに焼き魚、なんでも作っちゃうよ」
「いいんですか? こんな急にお邪魔して迷惑じゃないですか?」
「あたしがいいって言ってんだから、いいに決まってんでしょ! さ、入った入った!」
不安そうなヴァンの言葉を、女性が笑いながら吹き飛ばす。
そして、女性に誘われるまま、シェリルとヴァンが店内へと足を進めていく。
先ほどのやりとりを聞いていたのだろう。
ふたりが席に着くや否や、周りの客たちがテーブルに乗り切らないほどの料理を乗せていく。
どれも食欲をそそるが、果たして四人で食べきれるのだろうか。
女性が、クレインとアリサにも「早く入っといで」と目で訴えてきた。
ついでにシェリルとヴァンが助けを求めるような視線を送ってきた。
「だはー、今日は晩飯いらないかもな。アリサ、俺たちも行こうぜ」
「う、うん……」
クレインに呼ばれ、店内へと一歩踏み出す。
シェリルとヴァンのなかにふたりが加わり、店内は更なる盛り上がりを見せる。
それはさながら、小さな祭りをも彷彿とさせた。
無条件でもらう優しさが、今はこの胸を抉る。
足が鉛のように重く、呼吸も荒くなる。
少年があの日の礼を伝えてくるが、一切音が入ってこない。
こんな感覚は初めてだった。これまで味わったことのない重みだ。
太陽の暖かさと、氷の冷たさ。
同時にせめぎ合う、両極端の感情。
苦しくて堪らない。いっそのこと捨ててしまいたいが、そんなことは許されなかった。
過去の行ないが、脳裏に色濃く映し出される。
自分はいったい、どうしたらいいのだろうか。
どこへ向かって歩いたらいいのだろうか。
答えの出ない問いを、今は無限とも言えるほどに並んだ料理とともに、口の中へ流し込むことしかできなかった。
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