108話 The flame that purges the darkness
歩みを進め、シェリルがラルグの正面へとやってきた。
足は、不思議と前へと進んだ。
恐怖がないと言えば嘘になる。あの日、彼に抱いた恐怖は消えていない。
しかし、それ以上にヴァンから任されたことに対する喜びが勝っていた。
「あ? 次は嬢ちゃんひとりでやろうってのかよ」
正面に立ち、相対する。
体格以上に大きく見える。
シェリルを前にしても、ラルグは表情を変えない。
スティッキーレインでまとわりついた水を払い、気だるそうな表情を浮かべる。
それもそうだ。彼が楽しんでいたのは、あくまでもヴァンとの戦闘。
あえて問いには答えず、シェリルは剣を構える。
それが答えだと言わんばかりに。
手の震えは止まっていた。視線を、真っ直ぐにラルグへと向ける。
「……ほう、そういうことかい。あんときよりはマシなツラするようになったじゃねえか」
初撃。
赤銅色の炎が吹き出した拳を振りかぶり──
「おおおおおおおおおらあああああああ!!」
──ただ、振り下ろす。
たった、それだけの単純な行為。
だが、この男が行なうことで必殺の一撃として振るわれる。
最初に対峙したときから一切衰える気配がない。
ヴァンは、これほどの狂気と真正面からぶつかっていたのか。
先ほどシェリルも剣を合わせたが、時間にしてわずか。
直撃は敗北に直結する。
避けるにしても、攻撃を引きつけすぎている。
ならば、シェリルがとるべき行動はただひとつ。
「ふ──っ!」
衝撃を避けつつ、勢いを殺す。
シェリルが最も得意とする戦法だ。
真正面から打ち合うには、圧倒的に分が悪い。
ならば、無理に相手の土俵で戦わなくとも構わないのだ。
立ち回り、引き込み、こちらの得意を押し通せる環境に置き換えればいいのだ。
とはいえ、相手が相手。
圧倒的な火力で攻める強敵に、受けが主体となる戦術で相対するのは分が悪い。
重撃の連打に、シェリルのペースは次第に崩されていく。
徐々に劣勢となっていくシェリルが発動したのは、下級魔法のアクアシュートだった。
しかし、彼女が放った蒼の球体はサイズも、速度も、最初に放ったものと比較して幾分が劣る。
「ふざけん……な?」
これまでと同様、ラルグが拳で殴り砕いた瞬間だった。
弾け、飛び散り、元の水へと形を変え、霧散する──かのように思われた。
だが、球としての形を失った直後。
まるで意思でもあるかのように成形し、次の瞬間には粘性を持って──スティッキーレインとして襲いかかった。
しかし、これもまたすでに一度見た魔法。
ラルグはこれを裏拳で殴りつけ、自由を奪う前に吹き飛ばした。
「せいっ!」
粘性の水の死角から、シェリルが刺突を放った。
わずか、正面から意識が外れた隙間を縫った一撃。
流石にこれにはラルグもわずかに表情を歪め、腕で受け止めた。
しかし、ここで終わらないのがシェリルの魔法だった。
先ほど弾かれた水はさらに形を変え、ナイフに。
量こそ減少したものの、確かな攻撃力をもって襲いかかる。
彼女が身に宿した魔法の属性は水。
司るは、圧倒的なまでの柔軟性。
無形ゆえに、なんにでもなれる。なんでもできる。
突出したものはなけれど、全てをカバーする。
「ちょこまかと鬱陶しいな……! 大人しくやられろ……よ!」
セストとの鍛錬は、決して正攻法でどうにかなるものではなかった。
真正面から立ち向かっても、さらに上を行く対策で立ち回ってくる。
シェリルが嫌がる顔を見たくて、薄く浮かべた笑みの奥で何手も先を読んで動いてくる。
そんな彼と対等に渡り合うためには、こちらも頭をフルに回転させて死角からの攻撃をするまで。
だが、それでも足りない。
さらにいえば、シェリルの長所はもうひとつあった。
「
圧倒的な魔力量が誇る、大規模な魔法。
先ほどまで技術を重視した立ち回りが目立っていただけに、ラルグの意表をつくにはじゅうぶんすぎる一手となった。
だが、それでも──
「おらおらおらぁ! まだこんなもんじゃねえだろうがあああああ!!」
一度上空へ打ち上げられたものの、左手の炎を逆噴射。
そして、右に纏った炎で確実に水の勢いに抗う。
迫るは、赤銅色の炎。
最大の威力をもってしても、この男は立ち向かってくる。
「う……くっ!」
真正面から、剣で受ける。この日一番の衝撃が、シェリルの腕を襲う。
その瞬間、彼女の視界を光が覆い尽くした。
なにも見えない。感じない。
炎に支配された光景も、圧倒的膂力から生まれた衝撃もない。
それがかえって不気味だった。
次に視界が戻ったとき、シェリルの正面には一面銀色の世界が広がっていた。
先ほどまで、石と炎で覆われた戦場にいたはず。
衝突の最中、ラルグがあの転移に似たアイテムを使用したのか。
──いや、それはあり得ない。
あの状況で、シェリルだけを吹き飛ばす理由がない。
手負いのヴァンに止めを刺すにしても、彼ならばシェリルを力で圧倒しにくるはずだ。
ならばこれはどういうことか。
(ここ、どこなんだろ……?)
疑問はつきない。
シェリルの足が、彼女の意思に関係なく動き始めた。
どういうわけか、体が勝手に動く。視線を動かすことも、声を発することもできない。
この場で自由なことと言えば、思考のみ。
降りしきる雪の結晶。
しかし、肌に触れるも感触は一切ない。ただ、視界をちらつくだけだった。
どれほど歩いただろうか。疲労はないが、言葉にできない気持ち悪さが付きまとっていた。
永遠に続くと思われた雪景色の中で、まるでインクを零したような赤が広がっていた。
その中心には、両腕を失った大男が倒れていた。
明らかに異様な光景。しかし、それでも足を進める。
凄惨な赤に塗り潰された道をまるで小躍りでもするかのような足取りで進んでゆく。
近づき、ようやくその姿を視認する。スキンヘッド、そして顔に刻まれた炎の刺青。
現在と多少の差異こそあるものの、ラルグに他ならなかった。
なぜ、この場所に彼がいるのか。先ほどの対面で、これほどの傷を負っているはずがない。
ならばこれは、どういうことなのか。
『……まだ、戦い足りねえ……』
ラルグが、言葉を漏らす。
命の灯火が消えかけてもなお、戦場を求める。
『なら、ひとつ約束をしろ。それさえ守ってくれりゃ、いくらでも戦場をくれてやるよ』
シェリルの喉から漏れたのは、全く違う声だった。
しかし、聞き覚えのある声だ。まさか、このような形で再度聞くことになるとは思わなかった。
『ハッ……こちとら、選択肢なんざねえ……さっさとしろ』
『おもしれえ、お前がどれほどの活躍をしてくれるか楽しみにしてるぜ?』
言いながら、シェリルの腕がひとりでに動き、ラルグへと伸びる。
体が勝手に動く。気持ち悪さよりも、衝撃が勝った。
シェリルの目に映ったものは一面銀色の世界で、どこまでも深い黒。どこまでも闇を描いた漆黒の腕だった。
全てを飲み込むようなそれに、シェリルはひどく見覚えがあった。
……いや、忘れたくても忘れられない、とでも言うべきか。
視界の端で、黒き光沢を放つ腕に自身の姿が映る。
一瞬、シェリルの思考が止まる。
それは、明らかに自分のものではなかったから。
漆黒の腕が視界に映った時点で察してはいたが、確かな光景として目の当たりにすると衝撃は段違いだ。
在るのはただ、全てを塗り潰すような黒と、妖しく赤い眼光だけだった。
その姿は他ならない、彼しか──
「──おい。俺様を前にしてよそ見たあ、えらく余裕だな?」
ラルグの声で、意識が戻る。
先ほど意識が途切れた瞬間の続きが、そのまま始まった。
腕に、衝撃が戻る。一度力が抜けたぶん、押し返す力が足りない。
受け流すことはおろか、衝撃を殺すことさえ間に合わない。
シェリルの体は、勢いに逆らうことなく吹き飛び、地を跳ねた。
視界が暗転する。しかし、ここで倒れるわけにはいかない。
まだなにも成していない。なにもやり遂げていない。
「ほう……?」
ラルグが声を漏らす。
先ほどの一撃は、真正面から直撃した。
それでもなお、シェリルは何事もなかったかのように立ち上がってみせた。
防御も回避も間に合わないならば、あえて受ける。
受けた上で、衝撃を上回る治癒を施したのだ。
「ふー……」
息を整える。
傷は治したとはいえ、ラルグの一撃をまともに食らっている。
肉体が無事だとしても、心が負けては再び立ち上がることは叶わなかっただろう。
正常な呼吸をすることで、思考が巡る。
あれはいったい、どういうことだったのだろう。
意識が途切れた先。銀世界の中で見た、漆黒の鎧。
ヴァンの仇であり、ユーリたち教師陣の宿敵。
──ゼロ。
今、彼を打倒するために動いていると言っても過言ではない。
なぜ。どうして。
先ほどの光景は、まるでシェリルとゼロの間になにか繋がりがあるかのようだった。
しかし、なにも思い当たるものが見つからない。ゼロとは、あの日会ったのが初めてだ。
もしかしたら、ゼロは鎧の奥でなにかを感じ取っていたのかもしれない。
「やるじゃねえか嬢ちゃん! てめえが何度でも立ち上がるってんなら、何度でも叩き潰してやるぜ!!」
しかし、この男を前にして長考できるような時間はない。
考えは纏まらないが、今は戦闘に集中しなければならない。
「ぐうっ……!」
ラルグは、さらに火力を上げてくる。
防戦一方。捌ききれない攻撃を前に、シェリルの体勢が崩れ始める。
「──さあ、勝負だ。俺様の拳とお前の魔法、次はどっちが勝つかな?」
踊るような声音で、ラルグが告げる。
最大級の一撃を叩き込まんと、シェリルへ彼の拳が迫る。
先ほどは受けられたが、二撃目はどうだろうか。
──もう、駄目かもしれない。
最悪の結末が脳裏をよぎった刹那。
シェリルの視界一面を、紅蓮が埋め尽くした。
「待たせたな。ありがとう、シェリル」
銀髪の少年が、背を向けたまま告げる。
間に入り、殺戮の塊をその身で受け止めた。
「──
ヴァン=ギルバートの言葉に従い、彼の大剣を起点に熱が溢れだした。
あの日見た巨大な炎剣の再臨。目に焼きついて離れない光景。
凄まじくも、美しい武具。
剣と拳で打ち合い、再び力と力の衝突が展開される。
持てる全力で相対しても、ラルグは一切退かない。
押されることはないまでも、押し切れない。
一瞬でも気持ちが負ければ、一気に持っていかれてしまう。
紅蓮の大剣とぶつかったことにより、赤銅食の炎もさらに出力を上げているように見受けられる。
かちあげ、ラルグの胴ががら空きになった。
明確な隙。
だが、ヴァンはここで追撃をしない。
手繰り寄せた、決定的な好機。
中途半端な追撃ではこれまで通り。決定打にはなり得ない。
「
ならば、叩き込むは必殺の一撃。
これまで纏い、放ってきたどの炎よりも盛り、猛る。
肩に担いだ炎剣に思いを乗せる。
ヴァンの黒く、宝石のような瞳には確かな炎が宿っていた。
「──
極限まで練り上げた紅蓮の斬撃を今、叩きつける。
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