ルックアウト・サンシャイン
伊藤充季
ルックアウト・サンシャイン
わたしがまだ幼かったころ、休みの日になると、家族ぐるみで、親戚の家へ遊びに行くことが多かった。
その家には、わたしより一回り年上の女の人がいて、彼女はいつも、わたしにとてもやさしくしてくれた。そして、そんな彼女のことが、わたしは大好きだった。
彼女が、無職だったのか、学生だったのか、それとも職があって、わたしが家に来るときは必ず休みを取っていてくれたのか――今となってはすべてわからないが、とにかく彼女はわたしが遊びに行くと、いつでも家にいて、「おかえり」と言ってくれたのだった。
わたしは彼女のことを、『おばさん』と呼んでいた。彼女はまだ若かったが、それ以外に適当な呼び方が思いつかなかったのである。
わたしが彼女に、「おばさん!」と呼びかけると、彼女はくるりと振り返ってにっこりと笑い、「なあに?」と言ってくれるのだった。
そしてわたしは、その家から帰らなければならないというときになると、いつも帰ることを拒んだ。
「いやだ! いやだ! まだ帰りたくない!」などと泣き叫びながら、玄関にしがみついて、いつも皆を困らせていた。しかし、子どもの体力ではそんな抵抗をずっと続けていられるはずもない。そのうち、わたしが泣き疲れてそのまま寝てしまい、いつの間にか車に乗せられ、知らないうちに実家に到着していて、布団に寝かせられている、というのがいつものパターンだった。
はっと目を醒ますと、もうおばさんはどこにもおらず、わたしは自分の布団で眠っている。すぐに、何が起こったのかを理解すると、真っ暗の部屋のなかで、ずっと天井を眺めつづけるしかなかった。そうしていると、悲しいのか怖いのか、自分でもよくわからない感情に襲われて、両親に気づかれぬよう声を押し殺して、また泣き疲れて眠ってしまうまで、延々とすすり泣くのだった。
* * *
わたしはよく彼女に言った。
「わたし、おばさんと結婚するから!」
今から思い返せば、それは子どものたわごとでしかなかった。
しかし、それを聞いても、彼女は困った顔一つせずに、いつでも真剣にわたしをたしなめてくれるのだった。
「いい? 私はてんでだめな人だから……もっといい人がたくさんいるよ」
彼女の、いつも決まったように言う「てんでだめ」という言葉が一体どういうことなのか、当時のわたしにはまったくわからなかった。しかし、彼女の口調は決しておざなりなものではなく、真剣に言ってくれているのがわかったから、わたしは何も言い返さなかった――いや、「言い返せなかった」というほうが正しいかもしれない。
このように、彼女はわたしに対して、いつでも真剣に話をしてくれた。
しかし、真剣に話してくれはするのだが、どこか自分の心の内を決して明かしてくれないようなところが、彼女にはあった。
口数は多い方ではなかったし、口調も常に穏やかで、基本的にはわたしの言葉に受け答えるという形でしか発言をしなかったので、彼女が自分のことについて話す機会は、ほとんどなかったのだ。
そんな彼女が、一度だけわたしに自分の話をしてくれたことがある。
それは、ある年の夏休みに、家族で親戚の家に泊まっていたときのことだった。
* * *
彼女の家の縁側で、蜩の声を聴きながらすることもなく座っていた。
さっき降った夕立のにおいが、そこら中からしており、庭の土をよく見てみると、すこし湿っているのがわかった。
当時のわたしは、ズボンが嫌いで、膝までしかないスカートをはいていたので、縁側に座りながら足をぶらぶらさせていると、ふくらはぎの裏にささくれが刺さって痛かった。
そうこうしているうちに時間が過ぎ、家のなかから、「もうすぐ帰るよ」という母親の声がした。
しかし、わたしは、「わたしだけは絶対に帰らないのだ」と勝手に決めて、「うん、わかった」と言ったきり、梃子でも動かずにずっと縁側に座っていた。心の奥底では、どうせ帰らなければならないとわかっていたはずなのに、妙な自信で「今回は帰らずに済むかもしれない。そしたら、ずっとこの家にいられる。ずっとおばさんと暮らすんだ」と思っていたのだ。
「なにしてるの?」
突然そう呼びかけられ、びっくりしてそちらのほうを見た――おばさんだった。
彼女は、音もたてず、いつの間にかわたしの横に腰をおろしていたのだ。
わたしは、驚きつつも、なにか言わなければと思い、「待ってるの」と声を抑えて言った。
「待ってる? なにを?」
「……わかんないけど」
「わからないけど、待ってるの?」
「そう」
「それはきっと、待つ価値があるものだよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
わたしは、自分が何を言っているのか、理解していなかった。最初、てきとうに発した「待ってるの」という言葉に意味はなかったし、その後の言葉にはもっと意味がなかった。しかし、それでも、おばさんはわたしと、真剣に会話をしてくれるのだった。
わたしは、てきとうなことしか言えない自分に、嫌悪感を抱き、半ば悄然としながらうつむいていた。すると、突如としておばさんがくすくすと声をたてて笑いだした。
わたしは、おばさんのそんな声を聴いたことがなかったので、本当に驚いて、彼女の顔をじっと見た。それから、言った。
「どうしたの……?」
すると、彼女は依然として笑いながら、こう言った。
「お父さんとお母さんが捜してたよ。もう帰るからって」
わたしは、顔がかっと火照るのを感じた。それは、怒りのためでもあっただろうし、恥ずかしさのためでもあっただろう。
「いやだ。今日は、絶対帰らない」
「どうして……?」
さっきまでとは打って変わって、彼女は途端に真剣な表情をして、小さい声でそう言った。
「だって……」
わたしは、ころころと変わる彼女の様子に、恐れに近い感情を抱きながら、必死に言葉を探した。うつむいていると、ぶらぶらさせている足の下で、蟻がつぶれて死んでいるのが見えた。
「だって、わたし、おばさんのこと好きなんだもん……」
絞り出すようにそう言うと、彼女はわたしのほうにそっと体を寄せて、それから手を握った。びっくりして、動けないでいると、彼女が首を動かし、わたしの顔を見た。そして、言った。
「うれしい」
「……なにが、うれしいの?」
蜩の鳴き声が支配する夕暮れのなかで、わたしとおばさんは手をつなぎ、身体を寄せ合い、見つめ合っていた。わたしには、なにが起こっているのか、さっぱりわからなかった。
「いや、わかってくれるかは、わからないんだけど……」
まず、彼女が切り出した。
「うん」
「私、人を信じることができないんだ」
「人を?」
「そう。表面ではその人を信じた気になっていてもね、心の底では信じ切れていない……というか、なんて言えばいいのかわからないけど」
「……どうして?」
何気ない質問だった。
「どうして、か……私、きっと、人が恐いんだよ。恐いの。みんなが」
「みんな、恐い?」
その言い方だと、わたしも「恐い」のうちに含まれるのではないだろうか。つまり、おばさんはわたしのことが嫌いなのだろうか? と思った。
わたしがそんなことを考えているとはおそらく知らず、彼女は続けた。
「たとえば、ある人が私のことを好きだって言ってくれたとして――でも、私はそれを本当だと信じることができないんだ。きっと、何か裏があるんじゃないかって、そう考えてしまう。だから、みんなが恐くて、みんなが私を嫌っているような気がするんだ」
「そう、なのかな……?」
彼女は、わたしのその言葉には答えず、さらに話を続けた。
「でも、それって、私も同じことなんだよ。たとえば、私が誰かを好きになって、その人に好きって言っても、それが私の心から来る感情なんだって、私には信じることができないんだ。これは嘘の気持ちなんじゃないかって、考えてしまう……」
おばさん。おばさんは、何を言いたいの?
そう訊こうと思っても、口が動かなかった。
「でも、それでもさ」
ずっと、暗い顔でしゃべっていた彼女の顔が、そのときぱっと明るくなった。
「それでも、ミサキちゃんは私のことで好きでいてくれるんだね」
「えっ?」
彼女の、わたしの手を握る力が一瞬強くなった。
「それが、うれしくて、うれしくてたまらないんだ」
わたしも、彼女の手を強く握り返した。
わたしは、なんだかよくわからない話だとは思ったが、彼女の話をしっかり聴いてはいたから、わたしが彼女のことを好きだということを、彼女自身が認めてくれているのがとてもうれしかった。
「うん。大好きだよ、本当だよ」
わたしは、ちょっと興奮しながらそう言った。
「ほんとに……? ありがとう、ミサキちゃん」
そう言いながら、彼女は疲れたような笑い顔を浮かべた。
「わたしも! ありがとう、おばさん!」
彼女は、つないでいないほうの手でわたしの頭を撫でた。
「でもね、それでもね……」
わたしの頭から手を離すと、彼女はまた話を再開した。
「それでも、私は思ってしまう。私の行動すべてが、私の本当の気持ちからきているものだって気がしなくって……やっぱり嘘だっていう気がしてしまう……ミサキちゃんのことも、もちろん好きなんだけど、それが心の底からの気持ちなのかが、どうしてもわからないんだ……それで、私ひとつ気付いたことがあるんだよ」
「それは……なに?」
「私が、本気で、心の底からの思いで行動しているのだとわかる、たった一つの方法……それがなにか、わかる?」
突然質問されて、戸惑ってしまった。
なんだろう、なんだろう、と必死に考えはしたが、どうしてもわからない。そもそも、当時のわたしには、彼女が何を話そうとしているかすら、まったく理解できていなかったのだ。
「わ、わかんないよ、わたし……」
夜が近づく縁側で、彼女の顔の輪郭まで薄らいでいくような気がした。気が遠くなるような時間が、一気に過ぎていったようだった。そして、彼女は静かに言った。
「それは、自殺だよ……」
ジサツ?
それはなに?
ううん。わかってる。あの「ジサツ」だよね。
漢字で書いたら、「自殺」かな?
わたしの頭のなかに、様々な思考が生まれては消えていった。考えが追い付かなかった。
今、おばさんはなんて言った? 「自殺」って言ったの?
……確かに言った。
だけど、どうして?
「……自殺?」
長い沈黙のあと、わたしはそう問い返した。
「そう、自殺」
ああ、本当に。
本当に、おばさんは自殺の話をしている。
そう気づいたとき、わたしにできる反応は、何もなかった。
蜩の声がただ響いていて、その音が頭の中を這いずり回っているように感じられた。なぜかひどく緊張して、縁側から見える庭の土が紫色に、夕陽が灰色に見えた。
「……結局ね、私が自分で、自分は本気なのだとわかる唯一の方法は、自殺しかない。ミサキちゃんには、わかる?」
わかるわけがなかった。
「私はもっと実直に生きてみたい。でなければ、死にたい……けど、そのどちらもできないんだ……わかる……?」
彼女が何を言いたいのか、わたしには本当にわからなかった。それでも、彼女の声を聴いていると、なぜだか胸が痛かった。それほどに、彼女の声には切迫した、痛切な響きがこもっていた。
ふと彼女の顔を見ると、見たこともないような表情を浮かべていて、びくっとした。
「う……」
私はすっかり黙ってしまった。蝉しぐれもだんだんと引いてきて、夜が訪れようとしていた。夕立が残していった足跡が、水滴になって葉っぱに乗っかっている。彼女の顔を見ることができず、目をそらして、代わりに葉っぱから水滴が垂れるのを、それを見ながら私は、こんなにも夜が来るのが怖かっただろうかと思った。
彼女とつないでいる手は、汗ばんでぬるぬるしていた。
とにかく、恐かった。
何もかもが、恐かった。
そのとき、背後から声がした。
「おい、ミサキ。こんなとこにいたのか」
父がわたしを捜しに来たのだった。
その声で、彼女はびくりと身体を震わせ、わたしの顔を見た。
「ごめん――変なこと言ったね」
そう言った彼女の顔は、いつもの優しい顔だった。
「うん、いいよ」
わたしも安心して、そう言った。そして父がわたしの頭を軽く叩いて「早く準備しなさい」と言った。
それからはもういつも通りだった。わたしは帰りたくないとごね、玄関につかまって泣き叫んだ。そして、気が付くと実家のベッドに寝せられていた。寝床の中で彼女の顔が何度も脳裏に浮かんでは消えた。暗闇から何かが飛び出してくる気がして、とても怖くてわたしは頭まで薄い布団をかぶった。そして気が付くとまた寝ていて、朝になっていた。
* * *
その次、あの家に遊びに行くと、彼女の姿はなかった。
「おばさんどこ?」と母に聞くと、母は困った顔をして、「ちょっと用事があるらしいわよ」と言った。
その日は、一泊もせずに帰ったし、帰るときも、わたしは特に駄々をこねなかった。おばさんがいない家にいてもしょうがないと思ったからだ。そして、それからもうあの家に遊びに行くことは一度もなかった。
* * *
あとから知ったことだが、あの夏のあと、秋口くらいに彼女は自殺したらしかった。
「そろそろ話してもいいと思って」
高校三年生の夏休みの最初の日、そう切り出して、両親は彼女が自殺していたことを打ち明けた。
どうやって死んだのかは知らない。ただ、彼女はもういなくなってしまった。彼女はもう死んでしまった――どうやらそうらしい、と知ったわたしの心中は案外、平静としていた。
わたしにとって、彼女と遊んでいた日々はあまりに遠い昔の話だったし、突然彼女が自殺していたという事実を告げられても、そのことがすぐに実感を伴って追いついてくるということは、なかったのである。
彼女の自殺を知ったわたしは、彼女のことを一つずつ思い出してみることにした。
はじめの頃こそ、平静としていたわたしだったが、彼女のことをひとつ思い出すたび、胸が苦しくなるのを感じた。
彼女は確かに生きていた。わたしの目の前で、笑っていた。話していた。撫でてくれた。――手を、握ってくれた。
そういった記憶がひとつひとつよみがえるたび、彼女が「実感」として目の前に出現していくのを、感じずにはいられなかった。
そしてとうとう、彼女がわたしにたった一度だけ語ったあの話を思い出し、驚かずにはいられなかった。
彼女は、わたしに言っていたのである。とっくの昔に、「自殺」と、その言葉を。
よく考えてみれば、わたしは最後まで彼女のことをほとんど知らなかった。年齢も、正しい名前も、趣味も、何も知らないままだった。
わたしに、何ができるだろう? そう考えた。
墓前に手を備えること? 花を手向けること? 線香をあげること――?
いや、どれもちがう。
わたしには、なにもできやしない――
彼女にしてやれることは、何もなかった。
なぜなら、彼女はもうこの世にはいないのだから。
* * *
呆然としていたら、夏休みも半分が過ぎ去っていた。
夕暮れ時を歩いていると、蜩の声が脳内を這いずり回っているように感じた。夕焼けはそのまま血の色に見えた。それからずっとわたしは、彼女の言葉を脳内で反芻し続けた。
自分でも驚いたが、彼女が話してくれたあの話は、今現在わたしが生きていて感じたり考えたりしていることと、ほとんどそっくりだったのである。
――他人が何を考えているかわからなくて、だから他人が怖い。そして、自分の行動もおよそ本心からとは思えない。だから自分で自分が怖い。要約すればこんなところだろうか。
そこまではわたしも、まったく同じことを感じていた。しかし、違うのは結論部分である。
彼女は、自らが本心から行動しているということを示すためには、「自殺」しかないとそう結論付けて、死んでいった。
しかし、わたしの考えは違った。
わたしは、こう考えたのだ。
――世界によって魂を傷つけられ、それで彼女は一人で死んでいった。彼女はやり遂げたのだ。死んでから、やっと思い通りになったのだ。だが、そんなことはおかしい。そんなことは、受け入れられない。なぜ、どうして、彼女が死ぬ必要があったのだろう? そんな必要は、断じて無かった。それよりも、わたしなら――わたしなら、一人で死んでゆくよりも、この世界を滅ぼすことを選ぶ。
わたしは、おばさんのことが本当に好きだった。心の底から好きだった。本心から行動するなんて、何のこともない。わたしがいつも、おばさんの前でやっていたことだ。
しかし、そのおばさんはもういない。わたしが、本心から「好き」だといえるおばさんはもう、いない。
――みんな死ねばいいのだ。みんな死ねば、こんなに悩むこともない。みんな死ねば、みんな幸せだ。死んでいる、というその状態が幸せかどうかはわからないにしろ、少なくとも何も考えられなくなるだろう――それは幸せに限りなく近いのではないだろうか?
* * *
わたしはその日から、世界を滅ぼす方法を真剣に考え始めた。
そうしなければならない、と誰かに言われているように、ほとんど何かに憑かれたような調子でずっと考えていた。
そうして、一つのアイデアに辿りついた。それは、「世界に関するあらゆる記憶を閉じ込めてしまおう」というものだった。
わたしはこう考えた。
――今現在の世界を形作っているのは記憶、過去である。
一秒前のわたしが存在していなければ、今のわたしも存在していないに違いない。つまり、今現在の「わたし」というものは、過去の「わたし」に支えられて、はじめて成立しているのだ。
そこで、記憶を閉じ込めてしまったらどうなるか? 現在の存在を支えていた、記憶という名の支柱は崩れ去り、おのずと世界は崩壊するだろう――
そう考えた。いい考えだと思ったのだが、ではどうやってそれを実行しようかとなると、それは別の話だった。
記憶を閉じ込める。どこに? どうやって?
それからわたしは、そのことについて考え始めた。最初はコンピュータか何かに記憶を保存してしまえばいいのではないかと考えたが、それは無理がある気がした。第一、わたしにコンピュータに関する知識など一切備わっていなかったのだ。
ずっと考えていると、いつのまにか夏休みも終わってしまった。
本当に何も思いつかず、行き詰まっていたわたしは、学校でとある作文に出会ったことで、新しいアイデアを思い付いた。
* * *
わたしが在籍していた高校では、長期休暇には、各クラスの担任が個別に特別の宿題を出すという変わった習慣があった。そして、わたしの担任が出題した宿題が、「お題は自由でいいから作文をしてきなさい。夏休みのあと、それを文集にまとめて、クラスで配布します」というものだった。
わたしは何を書いていいものかわからなかったから作文を書かなかった。しかし、作文を提出しなかったわたしにも、その文集は配られた。
家に帰ってから、暇つぶしにそれをぱらぱらとめくっていた。どれもつまらないものばかりだったが、そのなかの一つが目をひいた。それは、次のようなものだった――
『夏について』
「夏のにおいをちょっと思いうかべてみてほしい。思いうかべるにおいは、人によって随分ちがってくることだろうと思う。蚊取り線香や、干からびたミミズや、火薬、プールの水素のにおい、路上からたちのぼってくる酩酊するようなにおい……夏に人々が感じる感慨については、ひとことでいいきれるものではないくらい、色々のものがあるだろう。
しかし、今わたしが前にすこし書き出したものからわかるように、それらは人によらず割と似たようなところに収まっているように思える。それを簡単な言葉であらわすならば、「ノスタルジア」にでもなるだろうか。日本語では「郷愁」といいかえることのできるこの言葉、語義は「遠く離れた地で、故郷を懐かしく思う気持ち」である。
これから述べることはわたしの愚考であるということを承知のうえで読んでほしい。
先ほども書いた通り、「ノスタルジア/郷愁」の語義は、「遠く離れた地で 故郷を懐かしく思う気持ち」である。これをよく読むと、ここには二種類の愁いがあることがわかる。すなわち、「遠く離れた地で懐かしく思う」気持ち、つまり「地理的な郷愁」ともう一つ、「『故郷』というものを懐かしく思い出す」気持ち、つまり「精神的な郷愁」である。
前者では、「故郷」にあたる土地が確かに存在しているのにたいして、後者では、「故郷」というものがイメージの産物である場合もある。
そして、「夏のにおい」というものは、後者の「精神的な郷愁」と結びつきやすいのではないだろうか? 「夏のにおい」を思い浮かべてみると、人によらず割と似たものが想起されるのは、これが原因なのではないだろうか。
つまり、存在する「故郷」とはべつに、存在しない「故郷」を誰しも抱えているのである。
まったく推測に過ぎないことながら、こういった心の動きがあるとわたしは思う。そのうえで、夏にたいする感慨のその不思議は成立しているのではないだろうか?
長々と本旨からそれたことを書いてしまったが、要は「夏のにおい」というものは「郷愁」に作用しやすいのではないか? 「夏のにおい」というものは、思い出をすっかり閉じ込めてしまうことができるのではないか? ここが夏の感慨、その不思議の根っこなのではなかろうか。
わたしは思う。記憶を閉じ込めてしまうには、夏がよい。夏は、記憶を閉じ込めてしまうことができる」
これを読んでいて、特に目をひいたのは最後の部分だった。
「記憶を閉じ込めてしまうには、夏がよい。夏は、記憶を閉じ込めてしまうことができる」
わたしはそんなことを考えたこともなかったので、驚いた。同時に、そうかとも思った。
そうか、夏に記憶を閉じ込めてしまえばいいのか。
それは、新鮮なイメージを、わたしの頭にもたらした。
――そういえば、おばさんがあの話をしてくれたのも、夏のことだった。故郷が存在するだの、しないだのという話は置いておくとしても、たしかにわたしは、あの夏に通りいっぺんではない感慨を覚えている。それは、あの夏に、わたしの思い出が閉じ込められているからではないだろうか? だとすれば、「夏に記憶を閉じ込める」というのも、あながちでたらめではないかもしれない――
それを真に受けたわたしは、世界中に終わらない夏をもたらす方法を四六時中考え始めた。ずっと夏が続けば、夏に記憶を閉じ込めることができるかもしれない、とそう考えたのである。
それから数か月が経ち、高校を出るころには終わらない夏をもたらす方法をわたしは思いついていた。あとは実行するだけであった。
そしてわたしは実行した。終わらない夏がその時始まったのだ。
* * *
終わらない夏をもたらす方法。
それは、簡単なことだった。
決して、世界中を気象的に「夏」にする必要はないのだ。
頭のなかだけを、夏にすればよい。頭のなかをすべて夏にする。すると、終わらない夏が始まる――
しかし、この計画には一つ問題があった。それは、たとえこの計画が成功したとしても、世界全体を滅ぼすことはできず、滅びるのはわたしの頭のなか――つまり、わたしの〈世界〉だけだろう、ということだった。
だが、もうそれでもいいと思った。結局のところ、世界というものは、それこそ無数に存在するのだから、せめてわたしの〈世界〉だけでも叩きのめしてやろう、と思ったのだ。
それが、自分の非力さに対する言い訳に過ぎないことくらい、わたしにもわかっていた。あんなにも威勢よく、「世界を滅ぼしてやろう」と考えていたのに、結局何もできず、やっていることは自殺と同じではないかと言われても、反論の余地がなかった。
それでもわたしは、本気だった。
祈るような気もちで、それにすべてを賭けていたのだった。
* * *
その声が聞こえてきたのは、わたしが〈世界中〉を夏にしてからすぐの、昼間のことだった。
わたしはあてもなく、ただ夏の日の路上をふらふらと歩いていた。
そこら中で蝉が鳴いており、その声が耳の中に入り込んできて脳みそがぐるぐるとかき回されているように感じた。そしてそのまま、その声は脳みその中にとどまるか、もしくは頭蓋を食い破るかして、わたしはおかしくなってしまうのではないかと考えていると、果たして蝉の声は回転し続け、脳みその中心に収斂した。そして、それはやがてはっきりとした形をともない、蝉の声だったのがいつの間にか人の声に変わって、わたしの脳の中から、直接なで回すようにして話しかけてきたのであった。
「……! ……!」
最初のうちは、それが人の声だということはほぼ確信的にわかったものの、何を言っているのかまではわからなかったので、わたしは路傍に座りこんでじっと集中した。風が吹き抜けてわたしの頬を優しくなでた。とてもぬるい風だった。
「……ね……久しぶりね……」
ずっと聞いていると、その声がそのように呼びかけているのに気が付いた。同時に、とても懐かしい響きをもっているのにも気が付いた。
――はて、どこかで知った人の声だろうか、と思って、しばらく考えていた。
すると、すぐにわかった。しかし、その声の主と思われる人物は、今ここにいるのが――生きているのが明らかにおかしい人物だった。
わたしは脳を疑った。しかし、その声はずっと呼び掛けてくる。
「久しぶり……久しぶり……」
わたしは思いきって、その声に反応してみることにした。
「……おばさん?」
わたしがかすれ声でそうつぶやくと、さっきまでの声はやんで、すぐに返答してきた。
「ああ、聞こえていないのかと思って何度も言っちゃった。元気? 久しぶりだね」
ああ、やはり間違いない。
その声は、もうずっと前に自殺したはずのおばさんの声だったのだ。
彼女はもう死んだはずだ。彼女の声がするのはおかしい――そう考えて、彼女の声を幻聴だと決めつけるのは簡単なことだった。だが、幻聴というにしては、その声はあまりにも、たしかにそこに存在しているように感じられた。
「うん、久しぶり。おばさん、何しに来たの?」
「そう言うミサキちゃんこそ、何してるの? こんなところで」
「待ってるんだよ」
「待ってるの?」
「うん」
それから、二人ともしばらく黙った。そして、おもむろに彼女が口を開いた。
「ミサキちゃん、どうして夏なの?」
おばさんの思いがけない質問にわたしはたじろいだが、すぐに説明を始めた。わたしが説明を終えると、おばさんは不思議そうな声で、言った。
「夏の感慨、か。確かにあるかもしれないね。だけど、それって、私とミサキちゃんが、夏休みによく会ってたからじゃないのかな?」
「……そうなのかな?」
わたしにはもう、よくわからなかった。
ふと空を見上げてみると、空に雲がかかっているのに気がついた。わたしのいた路傍もだんだんと日陰になってきて、少し涼しい風が吹いた。
「一雨来るかもしれない。どこかに逃げたら?」とおばさんが言う。
「いや、ここにいるよ」とわたし。
「……」
「……」
しばらく二人とも無言で、雲の動くのをずっと眺めていた。さっきまであんなにうるさかった蝉が静かになっていた。やがて、激しい雨が降り始めた。往来に人は一人もおらず、車も通る気配はなかった。頭からどんどん水をかぶった。あまりにも雨脚が強いので、途中からプールの中に突き落とされたような気分になってきた。うまく息ができなくなって、なぜかプールの消毒のにおいまでしてきた。
しばらくすると、晴れ間がのぞいて雨は止んだ。蝉がまた盛んに鳴きだして、わたしは座っている地面の横に壊れたビニール傘が捨てられているのを見た。そして無言で立ち上がると、そのまま路上を歩いて行った。
わたしは歩きながら、彼女に訊ねた。
「ねえ……」
「なあに?」
「どうして、死んでしまったの?」
彼女はしばらく黙っていたけど、おもむろにこう言った。
「わからない」
そっか。
「……」
「……」
また二人とも無言になって、しばらく歩いた。空はいつの間にか夕暮れの色になっていた。わたしにはその色は灰色にも紫色にも桃色にもメロン色にも見えた。いや、その色は夕暮れ色だった。海の色は海色で、空の色は空色だ。だから、夕暮れの色は夕暮れ色だ。
彼女が口を開く。
「ミサキちゃんは、どうするつもり?」
「どうする……」
わたしは唇をかんだ。彼女に言うべき言葉がなかなか見つからない。
気付けばいつかと同じように蜩が鳴いている。夕暮れ色の空に、蜩の声が響いて溶けていく。
もうすぐ〈世界〉は滅ぶ。わたしがそうしたのだ。
なのに、何ということだろう。
わたしは今、一つの完全な事実に気が付いた。
わたしは、まだ死にたくない。
「わたしは……死なない。絶対に……」
そう口からついて出た。
「でも、もうすぐミサキちゃん、死んじゃうんでしょ? 記憶の濁流にのまれて、存在そのものがなくなっちゃう。そうしたのはミサキちゃんで、それを願ったのもミサキちゃん……」
違う。
「わたしはまだ死なない。わたしはまだ死にたくない」
「なら、どうするの?」
「わたしは……」
どうすればいいのだろう?
ふいに、空がはがれて落ちてきた。夕暮れ色のパズルピースのような空の切れ端が地面に落ち、それを拾ってわたしは無言で立っていた。
路上もぱらぱらと崩れ始めた。
次の瞬間には、落ちているのか浮遊しているのかわからない感覚に襲われた。
わたしの作戦は結局功を奏して、〈世界〉の崩壊が始まったのだった。
わたしはこのまま死んでしまうのだろうか? わたしは結局どうすればよかったのだろうか?
縁側で自分のことを赤裸々に話す彼女の顔がやけに思い出された。
『わたしはもっと切実に生きたい。でなければ死にたい』
そう彼女はあの時言った。そして、わたしもそう思う。しかし、消えてしまう間際になってまた、こうも思うのだ。生きているかぎり、生きているだけで、それはすごく切実なことに違いないのではないだろうか? と。
だが、もう後の祭りであった。予期していなかった状況。望み通り死ねるというのに、死にたくなかった。〈世界〉すべてが夕暮れ色に染まっていく。もう誰もわたしを気にかけないし、もう誰もわたしを理解しない。わたしも、わたしを理解することができない。
向こうに陽は沈んでいく。彼女が立ち上がる。
「さあ、もう帰らなきゃ」と言う。
「いやだ、まだ帰らない」とわたしは言う。
彼女は困った顔をして、どこかに歩いていく。振り返らないでどこかへ歩いていく。その顔もその声ももう、思い出せない。何かが鳴っている。ノイズだろうか? なんとなく物悲しくて、なんとなくずっと聞いていたいような、そんなノイズが降り注いでくる。しかし、なにもかもがすべて、光に包まれる。今までわたしは何をしていたんだっけ? そもそも、わたしは誰だろう。どこへ向かっているのだろう――あの光のほうへ進めばいいのだろうか。
わたしは体を泳がせて光のほうへ進んでいく。その瞬間、すべてが逆流するような感覚に襲われて、わたしはいつかのあの縁側に座っている。隣にはおばさんがいた。それ以外は何もわからなかったが、とにかくわたしは縁側に座っていて、隣にはおばさんがいるのであった。
天井から無数にさっきのノイズが響いてくる。いや、四方から、八方から、すべての場所から。
「おばさんは……」
わたしは無意識に口を開いていた。
「どうして死んでしまったの?」
答えはなかった。
わたしはいよいよ溶けた。あとには何にも残らなかった。
長い長い雨がやんで、夏の日の路上にはまた、蝉しぐれが降り始めた。
ルックアウト・サンシャイン 伊藤充季 @itoh_mitsuki
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