第10話

 千草の様子が気になることもあり、昨日のうちに上司に連絡をして休みをもぎ取った。取っていた有休を、そのまま明日に変更させていただけませんか、と廊下でこそこそと話し、色々と言われたが、なんとか休みを変更することが出来た。

 本当に、色々と、言われた。

 でも流石に、初めて風邪を引いたらしい千草を、そのまま放置して仕事に行く――なんてことは出来ない。もうそんなことをしろと言われたら多分普通に仕事を辞める選択をしていたかもしれない。

 千草がふうふうと荒い吐息を零し、時折咳き込みながらもぞもぞと動く姿を見ていると、代わってあげられたら、なんて気持ちが湧いてくる。子どもが風邪を引いたときに心配する親の気持ちが、なんとなく実感出来た。苦しくて、辛くて。そして、早く良くなって欲しいと、祈るような気持ちだ。

 その日はベッドを千草に使って貰って、私は座布団を重ねて布団を作り、その上で眠ることにした。何かしら異常が起きたときにすぐ、気づけるように。隣に居るのに、千草が苦しんでいるのに気づかず眠り続けるなんてことはしたくない。

 心配心がそうさせたのかはわからないけれど、眠りは浅かった。それこそ、千草が咳をする度に意識が覚醒されるくらいには。中途中途の覚醒は中々に骨が折れたが、それでも、気付かないうちに悪化しているかも、という不安がそれ以上に私の体を強く突き動かす。咳の途中で、千草が目覚めてしまうこともあった。彼は目覚めると直ぐに潤んだ瞳を開いて、私を見る。そうして、傍に居ることに安心したような表情を浮かべると、そのまますうっと再度眠りにつく。『傍に居ることが一番の薬』とは、ルーティオさんによる言葉だが、実際きっと、そうだったのだろう。

 元々千草の体に体力があったからか、それともどうなのかはわからないけれど、朝焼けがかすむ頃合いになると病状は少しだけ良くなったようだった。

 荒い呼吸が無くなり、少しだけ静かな呼吸音が耳朶を打つ。手で額に触れるが、夜に抱きしめた時ほどの熱は無い。峠は越えたのだろう。

 ドラゴンの看病なんて初めてしたものだから、どうなるかと思ったが、なんとかなって良かった。どうにもならなかったら、泣きながらルーティオさんに電話してしまうところだった。

 安心した――と同時に、猛烈な睡魔が襲いかかってくる。私は千草の手を取って、そのまま指先を絡めながら、眠りにあらがうことなく目をつぶった。


 ――それが、朝のことである。

 不意に、頭に何かが触れるような、そんな心地があった。それは私の頭を、撫でるようにゆっくりと動く。千草、だろうか。もしかしてもう既に起きているのだろうか。無理も無い、寝通しだったし、お腹も空いているだろう。

 起きなければ。そう思う。重い瞼を必死に開けて、私は顔を上げた。

 少年が居た。

 少年、というには、少しばかり年かさを経ているだろうか。おおよそ中学生から、高校生くらいに見える。

 長い銀灰色の髪、青色の瞳。虹彩は鋭く、人とは違う美しさをたたえていた。すらりとした輪郭に、通った鼻筋。美少年と美青年の中間にある、なんともいえない香るような色気を醸し出している。


「……は」

「ユズハ」


 少年は小さく声を出す。変声期独特の、なんとも言えず掠れた声音だ。

 いや、待って。ユズハ。ユズハ、って言った。今。ベッドの方へ視線を向けるが、現在目の前に居る美少年以外の姿は見られない。

 これは、もしかして。


「ち、千草……?」


 千草は私の頭を撫でながら、嬉しそうに表情を綻ばせる。わかってもらえたことが嬉しい、とでも言うように、どこまでも真っ直ぐな喜色を滲ませながら、彼は小さく頷いた。


「えと。成長、したよ」

「せ、成長……」


 声が震える。思わぬ言葉だった。

 成長って、もっとこう、ゆっくり育っていくものかと勝手に思っていた。まさか、昨日今日で、こんな――体型からして変化するくらい成長するだなんて、思ってもみなかった。段階を二つ三つ……いや、五、六個は飛ばしているように見える。


「ずっと一緒にいてくれて、ありがとう」

「……ち、千草……」

「うん。はい」


 あまりの状況に、理解が追いつかない。ひたすらに千草の名前だけを口にする私を、千草は柔らかく、暖かな視線でもって見つめてくる。

 ま、待って。いや、どうして。そもそも成長の前兆なんてあっただろうか。覚えていないし、心当たりが――。

 そこまで考えて、昨日の熱が高かった様子を思い出す。もしかして、風邪の症状が、成長の前兆として現れていたのだろうか。一晩、どころか私が眠っている間の数時間でここまで大きくなるわけだし、体にかかる負担は大変なものだろう。それこそ衰弱してしまう、くらいには。

 ルーティオさんもドラゴンが風邪を引くなんて聞いたことない、と言っていたし、可能性としてはあり得る。


「これで、おれ、もっと役に立てる、ね」

「……」

「料理も出来るよ。そうじも、出来る。なんでも、きっと、出来るよ」


 千草は嬉しそうに言葉を続ける。弾むような語調に、なんだか胸の内を回る様々な疑問とかそういったものが、すっと溶けるように消えていくのがわかった。

 一晩で驚くくらいに成長したとして。それでも、千草は、千草に変わりない。私が向ける態度も、何もかも、きっと、今まで通りのもので良いのだろう。


「……役に立つとか考えなくて良いんだよ。千草は千草のままで居てくれたら、私はそれだけで嬉しいから」


 頭を撫でる手に、返すようにして、私も千草の頭に手を伸ばす。少しだけ届かない――けれど、それを察したのか、千草が軽く屈んだ。頭をこっちに向けてくる。透き通るような美しい髪を指先で撫でながら、「成長おめでとう」と言うと、彼は照れるように眦を赤くした。



 ルーティオさんに千草が成長した旨を告げると、直ぐに良ければご都合の合う日にお話させてください、との連絡が来た。今日は休みを取っていたので、それなら今日行きます、と告げたのが少し前のことである。

 今まで着ていた服が合わなくなったので、千草にはまた私の衣類を着て貰っている。ちょっと丈感が微妙と言えば微妙なのだが、そこはもう我慢してもらうしかない。また買い物に向かうことにしよう。

 何度も通い、勝手知ったる市役所の、『異世界生物課』へ向かう。室内は普段通り閑散としていて――けれど、窓口に人の姿を見かける。小型犬を持ち運ぶケースを手に、ルーティオさんと話している相手は、以前にも見かけたことのある人だ。

 声をかけるべきか迷っていると、ルーティオさんと目が合う。彼は、先ほどまで話していた相手の肩を軽く叩き、そうして私の方を手の平でさした。男性が踵をくるりと返す。


「あっ。夏越さん、こんちはーって、……」


 明るい調子で声をかけてきた男性――小菅さんは、言葉の途中で固まってしまった。瞑目し、驚いたように肩を固くさせている。千草が、「こんにちは」と返した、瞬間、小菅さんは「うおえぇでっ」と驚いたような声を上げた。

 静かな室内に響き渡りかけた声は、ルーティオさんの手によって即座に遮られる。


「所内ではお静かによろしくお願い致します」


 少し遠くからでもわかるくらいの、相手の首を締めんとでもするような気迫だった。小菅さんが何度も頷くのを見て、満足したように手を離す姿を眺めながら、私は千草と共に二人の元へ足を運ぶ。


「すみません、お話の最中だったのでは」

「いえ、もう大丈夫ですよ。小菅さまは本当になんというか、ほとんど雑談するためにここへ来ているような節がありますから。いわゆる暇つぶしに私が使われている、という状況でございます」

「ああっ。言い方酷いなあ、良いじゃん、ルーティオさんだってフェリちゃんのこと気になるっしょ? 知りたいでしょ?」

「確かにフェリちゃんのことは気になりますが、フェリちゃんの話の比重が一としたら、日々の雑事についての比重は九くらいでしょう」

「まあまあ、いいじゃん。なあ、フェリちゃん」


 小菅さんは唇をとがらせて、手に持っていたペットケースを持ち上げる。出入り口となるであろう、側面の部分がプラスチックか何かになっていて、中の様子をうかがうことが出来た。そこにはフェリちゃんが鎮座している。私のことをちら、と見るとすぐにもそもそと体を丸めてしまった。


「あっ。照れてる。ほんっと恥ずかしがり屋さんだよなぁ」

「照れてるというか、むしろもう嫌われてるんじゃ」


 思えば出会った時もめちゃくちゃ大きな体で威嚇されたわけだし。照れてると言うか、むしろ嫌われている、という方が正しい気がする。

 小菅さんは私の言葉に一つ瞬きを返して、それから「ないない」と頭を振って笑った。


「ほら、なんていうか、照れ屋なんだけど、女性にはかっこいいところ見せたい? 的な? そういう感じの気持ちもあるらしくて。だから初対面の時も威厳よく、かつ格好良く、なれ合われないようにでかくなったんじゃないかなあ。だってあん時、四階来て直ぐにでかくなったし。それまで小さかったのに。女性のにおいに敏感っていうか」

「小菅さま、フェリちゃんが今にも噛みつきそうな顔で小菅さまのことを見つめていらっしゃいますよ。そのまま続けたら恐らく噛まれるかと。愉快ですね」

「愉快って。いや、ええっ、殺し屋の目つきじゃん」


 うなるような声がペットケースから聞こえてくる。小菅さんは小さく笑うと、冗談じゃーん、と言葉を続けた。そう――だったのか。それなら、なんだか、ちょっとだけ嬉しいな、と思う。嫌われていたら、少し……いや、結構寂しかったから。


「夏越さま。千草さま。本日はお忙しい所、ご足労頂き誠にありがとうございます。お話したことがいくつかありまして」

「あ、じゃあ俺はもう学校行くんで。夏越さん、千草さん、ルーティオさん、それじゃあまた」


 小菅さんが小さく頭を下げる。それに頷いて返し、手を振る。千草も同じように手を振り、三人で階段へ消えていく姿を見送った。

 小菅さんが居なくなると、室内がにわかに水を張ったように静かになる。どうぞ、と椅子を勧められたので腰を下ろしつつ、僅かな緊張を抱きながらルーティオさんを見た。


「成長されたとのことで。良いことですね。この世界の空気は千草さまには合いましたか?」

「えと、はい。うん。……すごく、らく、です。前と違って」

「それは良かった。こちらの世界に落ちてきて、色々とやりづらいこともあるでしょうが、それ以上にあなた様が楽しく過ごせることを、我々一同、願っております」


 ルーティオさんは静かな口調で言葉を続ける。その声は真摯で、きっと本当に――切にそう思ってくれていることが、ありありと伺うことが出来た。


「さて。成長にあたって、何か出来ることは増えましたか?」

「ええと。あの、魔法、多分、少し強いの、使えるようになったとおもいます」

「少し強いの、ですか?」


 強いて言えばどれくらいの魔法でしょう、とルーティオさんが続ける。千草は微かに眉根を寄せた後、言葉をふるいにかけるように、緩慢な速度で口を開く。


「ここくらい、なら、多分、こわせる……くらい」


 とんでもない言葉が出てきた気がする。ここ、くらいなら、壊せる。そんな魔法を、千草が?

 ええ、と驚いたような声を上げると、千草が私をちら、と見た。形の良い唇、その端が、微かに持ち上がる。


「えと、でも、大丈夫。つかわないよ。ユズハが、あぶなくなったら、するかも、だけど」

「ユズハ様、一生危なくならないでくださいませ」

「善処します」


 間髪入れずに紡がれた言葉に、重く頷く。そうか、ドラゴンだもんな、すごいなあ。破壊と殺戮の象徴として恐れられている、とか言っていたような気がする。それを考えたら、この一帯を壊すくらい、簡単なのかもしれない。

 千草本人とは、破壊と殺戮の象徴というイメージが一切結びつかないのだが、それでもドラゴンであることには変わりない。彼らは強い力を持っているのだ、と改めて認識する。

 ……絶対、危ない目に遭わないようにしなければ。私の行動によって、もしかしたらビルが一階潰れるかもしれない可能性を考えると、なんだかくらくらする。


「そういえば、先日のSNS流出の件についてですが、働きかけましたので、お二人はこのまま最後までご一緒に過ごすことが可能です」

「あっ。そうなんですね。すみません、ありがとうございます」

「いえいえ。実のところ、私の上に人は居るわけですが、私自身の下にも結構人が居るくらいには、身分たかいたかーいな人間ですので、なんとかなりました」

「身分たかいたかーい人間」


 千草が呆けたように言葉を口にする。それが少しだけ面白くて、胸を張って誇らしげにするルーティオさんの姿とも相まって小さく笑い声が漏れてしまった。


「成長した分の衣類などについては、こちらでも備えがありますので、後ほどお渡ししますね。それと、別件ですが、お二人に相談したいことがありまして」

「相談ですか?」

「はい」


 ルーティオさんがやけに真剣な顔で頷く。一体なんだろうか。首を傾げると同時に、彼は重々しく言葉を口にした。


「虹蛇が盗難にあった件に関して、でございます」

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