第9話
家へ向かう足取りが軽い。思わず浮つく表情を必死に押さえ込みながら、私は街路を進む。
こんな風に心がふわふわとしてしまうのは、もちろん、良いことがあったからだ。すなわち――有給申請が許可されたのである。といっても、二日だけ、なのだが。でもそれでも土日だけしか十分に千草とふれあうことが出来ずに居た私にとっては、最高に幸せな結果である。理由の欄に異世界生物保護のため、と記載したのも効果があったらしい。
私が就職する前に会社に居た人が以前、異世界生物を保護し、会社に休みを申請しており、それもあって会社内で異世界生物保護に関する有給申請のルートが一通りきちんと整っていたのだ。
見たことの無い先人に感謝を示したい。と言っても、やはり申請をすると上司にはたいへんぐちぐちと言われた。自分が抜けることの意味わかってる? とか、君が一人抜けることで他の人の負担が増えるのになぁ、とか。果ては、異世界生物なんて拾わなかったら良かったのに、とまで言われた。
苛立ちを心の中でのみ留めることが出来たのは、社会人生活のたまものだろう。私が居ないくらいで潰れる会社なら潰れろ、と思う。いっそもの凄く大きな異世界生物が降ってきて弊社をぺちゃんこにしてくれないだろうか、なんて――。
まあでもとにかく休日を手に入れることが出来たのは確かだ。千草には寂しい思いをさせているだろうし、出来る限り取らせてもらうことにしよう。実際、私も暇があれば千草と一緒に居たいと思う。あの可愛い頭を撫でくり回し、小さな体を抱きしめたい。
一緒に居られる時間が増えた、と言ったら、千草はどう思うだろう。きっと喜んでくれるんじゃないか――なんて思いながら、私はアパートの階段を上がった。鍵を開け、ノブに触れる。
「ただいまー」
「おかえりなさい!」
声をかけると同時に、奥の方から千草が駆けてくる。わっ、と私の胸の中に飛び込むように抱きついてきて、すりすりと頬をこすりつけるように動かした。愛らしい仕草に、なんだかじんわりと微笑みが滲んで来る。
「おかえりなさい、えへ、あのね。まだかな、まだかなーってずっと待ってたよ」
「ごめんねぇ……」
一人きりで部屋の中。千草が感じるストレスはきっと大変なものだろう。自分から望んでいるのではなく、そこに居なければならないから、居るのだから。
申し訳なさが心の奥底からじんわりと滲んで来る。千草は何度か瞬いて、それから小さく首を傾げて見せる。
「えと、あのね。あやまるの、いいよ。だいじょうぶだよ、おうちのなか、楽しいよ」
「……」
紡がれる言葉は舌足らずだ。懸命に、今の状況に満足していると伝えようとしてくる。
家の中でも出来る趣味とか、そういうのが出来たら、もう少しは楽になるだろうか。それとも両親を召喚するべきだろうか。ぼんやり悩みながら、「食事用意しようか」と声をかける。
千草はうん、と頷いて、それから何かを思いついたように顔を輝かせた。
「あのね、食事、おれね、作れるよ」
「うん、千草は上手だよねぇ」
前に少し手伝ってもらったが、千草の料理の腕は凄い。最初こそ包丁さばきに不安が残ったが、数日も経たないうちにすぐにぐんぐんと学び、成長し――今は切り物の類いは大体任せることが出来る程である。もちろん、炒め物も得意だ。火の扱いが上手というか――なんだろう、手慣れている。もうそうとしか言えない。
凄いねえ、と言葉を続けて頭を撫でる。千草はぷるぷると私の手の下で震え、困ったように視線をうろうろとさせた。
「あの、えとね、作れる、よ」
「うん。今日も手伝ってね」
「えと。あの。えとね! おれ、ひとり、で作れる、よ!」
「えっ」
思わぬ言葉だった。料理、ひとりで、作れる。呆けた顔の私に、千草はむん、と胸を張って見せる。
「だからね、今日はね、おれがつくるよ」
「えっ……そ、そんな、す、すごい。そんなことが……!? 大丈夫なの?」
「えとね、だいじょうぶ。包丁も、ぜんぶ、ぜんぶ、つかいかた、わかるよ。ユズハが教えてくれたから」
凄い。流石すぎる。一瞬任せて良いだろうか、という疑問が過ったが、折角、千草がやる気を出しているのだから、お言葉に甘えてみることにしよう。もしもの時のことを考えて、後ろで見守れば、問題はないはずだ。
「じゃ、じゃあお願いしてみようかなあ」
「うん。あのね、がんばる、ます!」
「うんうん」
表情を朗らかに崩し、千草は私に抱きついてきた。その背にもう一度手を伸ばして、小さな体を受け止める。
千草はふふ、と小さく息を零すようにして笑う。桜色の頬が柔らかな彩りに染まるのが見えた。可愛い。
――瞬間、ふと、違和感を覚えた。抱きしめた体が、いつもと――なんだか、違うような。
「ユズハ……?」
抱きしめたまま動かない私を心配してか、千草が微かに語尾を持ち上げる。不審者であることは重々承知の上で、もう少しだけ抱きしめさせてほしい。
なんだろう。なんだか、――なんだか、おかしい気がする。稚い体も、頬の輪郭も、瞳も、唇も――なんだかいつもと少しだけ噛みあわないような。
じっと眺めている内に、不意にそれらが全て桜色に赤らんでいることに気付いた。最初に感じた違和感は、抱きしめている体の温度だろう。
いつもより、少し――高い、気がする。
そっと体を離して、千草を見る。視線が合うと、千草は照れたように笑った。くすくすと喉を鳴らすようにして、抱きしめられたことがどうしようもなく嬉しいとでも言うような顔だ。その頬にそっと手の甲で触れて、そのまま額に触れる。
「熱い」
「……え? えと、あの、あ、あつい? あつ……?」
きょとんとした顔で千草が言葉を重ねる。しっかりよく見てみると、瞳も微かに潤んでいる。私は千草の体に手を回して、抱っこの体勢を取ってから立ち上がる。突然抱き上げられた千草が、小さく息を飲む音が聞こえた。けれど、それはすぐに柔らかな喜色へ変わる。
「ユズハ、えと、これ、抱っこ。だよね。しってるよ、えへへ」
照れたような声が耳朶を打つ。少しだけ語尾を揺らしたそれは、掠れているようにも聞こえた。肩口にぐりぐりと額を押しつけられて、角が頬あたりにごんごんとぶつかる。ちょっと痛い、けれど、いや、今はそんなことで痛がっている場合ではない。
ベッドの上に千草を下ろし、すぐに体温計を持ってくる。脇に挟むように持たせて数十秒待つと、小さな電子音が鳴り、体温を小さな画面に表示する。
「さ、三十八度……!」
「え、えと、あの、ゆ、ユズハ……?」
千草が困ったように言葉を連ねる。これは食事を作る、という意思を尊重している場合では無い。即刻寝て貰わなければいけないくらいの体温である。
「千草、熱があるよ」
「えと、うん、体温……。にんげんも、熱いよ」
ほら、と千草は私に触れた。頬の輪郭を覆うように触れた手の平は、やはり平常よりも熱い。
「確かに、その、にんげんも熱いね。……ごめん、その、風邪はわかる?」
「かぜ。わかるよ。テレビでね、みたことあるよ」
「千草は多分今、風邪を引いてるの」
「かぜ……」
私の発した言葉の意味を、ゆっくりと辿るようにして千草は囁く。そうして、眉根をきゅうっと寄せた。
「えとね、でも、げんきだよ。かぜって、たいへん、なんだよね?」
「今は症状が出てないだけなのかも。今日は食事作るのやめておこうか。私が作るよ」
「えっ。で、でも、おれ、できるよ。ユズハ……」
泣きそうな声が耳朶を打つ。千草は打ちひしがれたように眉根を寄せ、声と同じく、泣きそうな顔で私を見つめていた。そんな顔で見られるとやらせたくなってしまう――けれど、風邪を引いている子どもに料理を作ってもらうとか、それって結構悪人の所業である。流石に出来ない、し、やりたくない。
「おれ、がんばれるよ、にんげんのすること、ちゃんとおぼえてるよ。だから――」
「千草……」
必死に言いつのる声だった。まるで料理が出来なかったら捨てられるとでも、言いたげな声だ。
私はそっと千草と視線を合わせる。眦が赤くなっている。そこにぷっくりと涙が溜まっているのが見えて、なんともいえない気持ちになる。
一つだけ、深呼吸する。心を落ち着けるように努めながら、私は千草の頭をそっと撫でた。
「元気になったら、作ってもらいたいな」
「ユズハ……、あの、えと、おれ、おれね」
「うん」
「りょ、りょうり、つくるの、たのしみだったの……」
「そっか、そうなんだね。ありがとう」
「げんきだよ、ほんとうに、げんきで……」
千草はそれだけ言って、不意に咳き込んだ。こほ、と小さな喉から零れ落ちるように息を吐く。その拍子にぽろ、と彼の眦から涙が零れた。それを指先で拭って、そのまま抱きしめる。背中をゆっくりゆっくり撫でる。
千草は浅く呼吸を繰り返した後、「かぜ」と咳直後の、掠れ気味の声で言葉を続ける。一拍、二拍、間を置いて、「きょう、りょうりつくれなくても、ずっと一緒?」と続けた。
「もちろん。ずっと一緒だよ。私は千草が元気で居てくれるのが一番嬉しいから!」
「……うん。うん……」
ぎゅう、と千草の手に力が込められる。ぎゅうぎゅうと抱きしめ合った後、私は千草をベッドに寝かせた。少しだけ待ってて貰うことにして、すぐに入浴を済ませる。食事は何が良いだろう。
風呂に入る前の僅かな時間に、ルーティオさんへ『千草が風邪を引きました。ドラゴンって風邪の時どうすればいいんでしょうか?』と聞いてみたら、返答は『ドラゴンが風邪を引くだなんて初めて聞きました。こちらには薬もありませんし、ドラゴンは生命力が高いので問題無いかと思いますが、強いて言うならば傍に居て上げることが一番の薬になるかと。食事は普段通りでも問題ありませんが、お好みでどうぞ』とのことであった。お好みでどうぞ。一番困る答えである。
普段通りというと、本当に普段通りの食事になってしまうから、一応胃のことも考えておかゆとか、スープとか、食べやすいものに変更すべきだろうか。先ほどから不規則に咳も聞こえてくるし、喉の通りが良いものが良いと思う。よし。
献立を頭の中で組み立てて、早速取りかかる。ありもので雑炊を作り、小さなお椀に掬って千草の元へ戻る。
「ご飯だけど食べられる?」
「えと、うん。食べれるよ」
ベッドから這い出てきた千草は、食卓机の前に座るとちびちびと雑炊を食べ始める。先ほどより明らかに元気が無い。
「ちょっと疲れちゃった? 今からだすこし怠い?」
「えと、あのね。げ、げんきだよ」
本当だろうか。なんとなく、心配させまいとしているのではないかとも思うが、体調なんて端から見てわかるものでもない。そっと額に触れて熱を測っていると、千草が小さく笑った。
「どうしたの?」
「あのね。たくさん、しんぱい、されたの、はじめて……」
「……そうなの?」
「うん。ドラゴンは、いっつも、ひとりで行動するから。けがしても、なにしても、ぜんぶひとりでどうにかするんだよ」
そうなんだね、とゆっくり頷く。千草は水の紗幕を張った瞳を瞬かせながら、そろそろと言葉を吐き出す。
「むれ、もね、つくらなくて。かぞくも、いない。うまれたら、ぜんぶ、ずーっと、ひとり……。はんしょくのときだけ、つがいを探して、子どもができたら、わかれちゃうんだ」
「……そうなんだね」
「おれ、ずっと、ひとりで……、……ずっと、だれかを、さがしてて……あそこにはいなくて……」
少しだけ眠たいのかもしれない。現に、スプーンを持つ手が、かく、かく、と軽く揺れている。
少し残っている、けれど、それよりも何よりも、寝かせる方が先決かもしれない。スプーンをゆっくりと小さな手から外して、その体を抱きしめる。ベッドまで移動する間、不意に、千草が小さく笑った。
「でもね、みつけたんだよ、おれの、おれの、……」
小さく息を零す音が聞こえる。本格的に眠ってしまったらしい寝顔を指先で撫でる。
おやすみ、という声に応えは無かった。けれど、表情が柔らかく綻ぶのが見えた。
良い夢を見てくれていたら、いいのにな。起きたら、夢の話を聞いてみよう。
ぼんやりと明日のことを考えながら、私は食卓を静かに片付けた。
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