第8話
朝、起きたら一通のメッセージが届いていた。起き抜けの、上手く線を結ばない視界の中で、パスコードを入力し、送られてきたメッセージを確認する。
ショートメールとして送られてきたそれは、簡潔な文章で構成されていた。
『おはようございます。異世界生物管理課のルーティオです。
お話したいことがある、とのことで、承知いたしました。
お手数をおかけいたしますが、近日中にお越し頂くことは可能でしょうか?
もしくは、どこかでお話出来ればと思います。平日、休日を問わず、なんなら今日でも問題ありません。
お返事お待ちしております』
一瞬で意識が夢から覚めたのは言うまでもない。昨日のうちにルーティオさんに送っていたメッセージへの返事が、ようやく来たのだ。ほとんど祈るような気持ちで携帯にすがりついており、浅瀬をたゆたうように眠りについていたこともあり、なんだかほっとしてどっと力が抜けた。
私はちら、と横ですうすうと眠りにつく千草へ視線を寄せる。穏やかな寝顔は、まるで悩み事なんて一切無いとでも言うように、安堵の感情で染まっていた。
「……」
携帯を動かして、ニュースサイトを開く。トップに表示された文字をじっと見つめた。
【虹蛇の展示、落下した男性、空中浮遊で逃げ出す(画像あり)】
【虹蛇の展示で人が落ちたと思ったら、すぐに浮き上がって飛んでいったんだけど! 驚きの様子(動画あり)】
【異世界生物展示の是非について 動物園管理者の責任問う】
身に覚えのある文字列がずらずらと並んでいる。昨日の夕方頃から、SNSに動画が投稿されたこともあり、火がついたように話題になってしまっていた。慌ててルーティオさんに連絡をしたのが、昨日のことである。
目立つことはしないように。SNS等に写真をあげることもあまり推奨出来ない。なぜなら、異世界生物は狙われるから。そう言われていたにもかかわらず、目立つようなことをしてしまったのだ。
出来る限り投稿されているものを確認したが、中には千草の姿が映っているものもあった。指先の動きと、男性の動きが一致していることに気付かれたら。それを不審に思われたら――。
背筋を氷塊が滑り落ちていくような心地を覚える。ぞっとした。
「うう……」
呻くような声が喉から零れ落ちる。瞬間、すうすうと静かに呼吸をしていた千草がぱちりと目を開いた。軽く瞼をしばたかせ、むずがるように眦を指先で軽く掻く。少しだけぼんやりとした顔のまま、彼は私に体を寄せてきた。
「ユズハ、おはよう……」
欠伸と共に吐き出された言葉は、少しだけ滑舌が覚束ない。私は携帯から手を離すと、ゆっくりと千草の頭を撫でた。絹糸のような、なめらかな手触りが指の腹に伝わってくる。
「おはよう。ごめんね、起こしちゃったね」
「ううん、えとね、だいじょうぶ……」
ふあ、と小さく息を零して、千草は私の手元を覗き込んだ。何を見ているの、とでも言いたげな視線が、次いで私を見つめる。
虹蛇の展示を見にいって、そこで人が柵を乗り越えて落ちて。まさかそんなことが起きるだなんて、誰が思うのだろう。本当に驚いて――それと同時に、どうしようもなく、怖かった。周囲の人の熱が、虹蛇に向かっていきそうな気がしたのだ。
誰かがもし、何かを投げていたら。例えば手に持っていた傘、道に落ちている小石。なんでもいい、武器に出来るものを、柵の中へ投げ入れていたら、恐らく、他にも倣う人が出てきたであろうことは想像に難く無い。人々の目には、虹蛇という巨大な存在が、今にも男性に危害を加えようとしているように見えただろうからだ。
実際は、そんなことはなかった。千草が言うに、虹蛇は人間が好きで、今も大丈夫かと気にしている、とのことだった。けれど、そんなことを、知る人間はその場に私と千草の二人以外、どこにも居なかった。
群衆の巨大な感情のうねりが、虹蛇に向かう前に、どうにかしなければならなかった。それを私が願い、千草が叶えてくれた。
千草は一切悪くない。彼は私が『助けてと思ったから』助けてくれただけに違いないのだから。
もし、この件で咎を受けることがあるならば、全面的に私が責を受けるべきだろう。千草は私のために行動をしてくれただけであり、責められるいわれはないのだから。
よし、と頷く。とにかく、ルーティオさんから連絡を頂いたことだし、今日にでも会える時間を取ろう。私は早速決心すると、すぐにルーティオさんへの返事を打ち込み始めた。
その後、返事は直ぐに来て、少しだけ地元から離れたレストランで会うことになった。個室で、防音性能に関しては問題無いことから、ここを選んでいます、とのことである。
レストランに入ると、既にルーティオさんは来ていたようで、奥の個室へ通される。扉を開けると、既に布巾で手を拭いていたルーティオさんが立ち上がった。
「休日に申し訳ございません」
「いえ、それは、こちらこそ……」
頭を下げると、ルーティオさんはすぐに向かいの席を勧めてきた。千草と共に座る。テーブル形式の部屋で、雰囲気がどことなく格式張っている。レストランのことを来る途中に調べたが、中々高価なレストランであるらしい。友人達と気安く来るには少しばかり値が張る、と言えば良いのだろうか。
ふかふかのソファに身を沈めると、隣に千草も座る。帽子を取って良いですよ、とルーティオさんが朗らかに声をかけると、少しだけ安堵したような様子でいそいそと帽子を取っていた。
「だ、大丈夫なんですか?」
「大丈夫です、ここは異世界生物課がよく使う場所でもありますから」
店員への根回しは完了している――ということだろう。疑問に対する答えに、小さく頷いて返す。ルーティオさんが言うなら、問題は無いだろう。私の心配が入り込む部分はどこにも無かったということである。
ゆっくりと呼吸する。そうしてから、本題へ入るべく、私は口元に力を入れた。
「あの――もう、お耳に入っているかと思うんですが」
「男性、動物園の空を飛ぶ! と、朝から大賑わいでございましたね」
ルーティオさんが微笑むように言葉を口にする。そこに責めるような、そんな響きは一切滲んでいなかった。どこまでも――そう、事実を羅列しているだけのような。そんな声音だった。だからこそ、今の状況に対して罪悪感めいた思いが湧いてくる。ちょっと泣きそうだ。
「すみません……」
「いえ。仕方無いことでしょうし、大丈夫ですよ。ですが、そうですね――千草さま」
言葉を振られた千草が、微かに顔を上げる。メニュー表へ目を通していた千草は、軽く首を傾げて見せた。
「うん、えと、はい。なん、ですか?」
「魔法はどのくらい使えるのですか?」
千草は軽く瞬く。そうしてから、「えとね、すこしだよ」と続けた。
「ここ、あの、もとのばしょと、ぜんぜんちがうから……。えとね、まほう、つかうの、少しだけたいへんで……。でもちょっとだけなら、使えるよ」
「まあ、確かに、考えて見れば最初から人間の姿に変化していたくらいでしたねぇ。魔法を使えることを考えておくべきでした」
ルーティオさんは小さく息を零す。ため息を零すような、なんとも言えない問題を前にしたような、そんな表情を浮かべている。
変化――というと、確かにドラゴンから人の姿にはなっていたけれど、それを言うなら――。
「フェリちゃんも大きい姿になっていましたけれど、それも魔法を使っていることになったりとか……」
「ああ――いえ、すみません。そうですね、大きくなったり、小さくなったりというようなことは、この世界であっても可能ではあります。と言っても、中々に無理をしなければならないこと、そもそもフェンリルなどの高位生物でなければ難しいのですが」
「高位生物」
「そうです。こちらの世界にもあるでしょう、ゴブリンは下位だとか、そういった段階が。あちらでは国を一つ以上難なく滅ぼすことが出来る存在を、高位生物と称しています。その中でランク分けもあるのですが、こちらの世界ではほとんど意味がありませんから、割愛いたしますね」
確かに、ロールプレイングゲームで言う所の、雑魚敵みたいなランク分けはこちらの世界にもあるけれども。それと同じようなものと考えても良いのだろうか。
ルーティオさんは首を振る。そうして、「他の生物の姿になる、というのは、難しい魔法なのです」と続けた。
「時折、こちらの世界に来たばかりの異世界生物が、蓄えていた魔法元素を駆使して、魔法を使用することがございます。……千草様の変化についても、そのように思っていたのですが。千草様は魔法元素を感じることが出来るのでしょうか?」
「えと、うん、あのね、少しだけ。ちょっとずつ、ためてるよ。えとね、だからね、おれ、せいちょう、できるよ!」
ぐ、と千草が拳を握って見せる。成長。……聞き覚えはあるけれど、まさかこんな場所で聞くとは思っても居なかったワードが飛び出してきた、気が、する。
「成長?」
「うん。えとね。大人に……おっきく、なるよ。今は、えとね、小さいけど……。ユズハといっしょ。おとなに、なるよ」
「そ、そうだったんだぁ……」
千草は微笑むように言葉を続ける。そうしてから、くすくすと喉を鳴らすようにして笑った。美しい彩りの虹彩を細めて、私をじっと見つめる。視線が合うと、含むようにして唇を綻ばせた。
なんだか獲物を見つめるような目つきに――いやいや、千草に限ってそれはあり得ないだろう。私の見間違いのはず。
「ちなみにそれはいつ頃の予定ですか?」
ルーティオさんが首を傾げる。千草は微かに瞬いて、それからちら、とルーティオさんへ視線を寄せた。
「えと、たぶん、あと、もうすこし……くらい」
「もう少し、ですか」
ルーティオさんは小さく頷くと、私に視線を向けた。「――とのことです」
とのことです。とは。つまりもう少し経ったら成長するからよろしく、ということなのだろうか。成長――。成長。今ですらもの凄く可愛いのに、成長したら一体どんな姿になるのだろうか。一切想像がつかない。子どもの成長を見守るような気持ちで、なんだか少しだけ楽しみだ。
「成長する前ってわかるかな?」
「たぶん、えと、うん。成長しよう、って思ったら、えと、言う、ね」
「うん。着替えとか用意しなくちゃいけないしね」
「その時は是非、異世界生物課にもご連絡ください――、さて、話題が逸れましたが」
ぐっと拳を握る千草の頭を撫でていると、ルーティオさんが軽く咳を零した。
「とにかく、千草様は魔法が使えるとのことで。……承知致しました、今回の件も踏まえて、上の方に連絡をしておきます」
「うえの、ほう?」
「はい。私よりも地位のたかーい方達のことでございますね」
千草が微かに首を傾げて、それから悩むように眉根を寄せた。彼は少しだけ、不安がるように唇を震わせる。
「……えとね。ユズハと、いっしょ、いられる……?」
「千草……」
「ま、魔法つかっちゃったの、だめだった……?」
千草はゆっくりと首を振った。その肩が微かに震えているのが見える。思わず小さく息を飲む。
「でも、に、にんげん、ころしてないよ」
「ええ、それはもちろん、存知上げておりますとも」
ルーティオさんが軽く瞬く。そうして、メニュー表へ視線を落とし、思案するように一拍の間を置いた。千草が不安がるように、瞳の虹彩を軽く揺らす。
「あの……も、もし魔法を使ったことを責められることがあれば、私が悪いので、千草のことは……」
「ああ、いえ、失礼。大丈夫です、お二人の生活が続けられるよう、私もなんとかいたします。ですが、恐らくは問題無いかと思われますよ」
「ほんとう?」
「はい、本当です。誓っても良いですよ」
「――じゃあ、ちかって」
そっと千草が手の平を差し出す。ルーティオさんがその手を取り、甲の辺りに額をくっつけた。
「御身の下に誓約申し上げます」
見たことの無い所作だった。だからこそ、多分、彼らの世界では意味のある行動なのだろうと理解することが出来た。
それほどに二人の動作は洗練されていて、どこか厳かなくらいの雰囲気を滲ませていた。
微かな、呼吸すら挟むことを躊躇うような間を置いて、ルーティオさんは顔を上げる。そうして、千草の傍にあったメニュー表を指さした。
「それでは、話も終わったことです。食事をしましょう」
朗らかな表情だ。展開についていけず呆ける私に、ルーティオさんが目配せする。切れ長の瞳が、私に対して苦笑まじりの感情を滲ませる。
「目立ってしまったものは仕方ありません、今後気をつけてください。異世界生物という存在上、二度目は無いかもしれませんから」
意味を理解した瞬間、ぞっとする。――目立つことが起きたのは、しょうがない。けれど二度目があれば。
そうなってしまった時、誰よりも危険にさらされるのは千草に違いないのだから、と、言い含められているようだ。
「……肝に銘じます」
「そうしてください。さて、立て続けのお願いではございますが」
ルーティオさんは小さく笑う。
メニュー、読んでください、と形の良い唇から至極当然のように言葉が紡がれる。
「えっ。でも今日メール……」
「音声入力機能。読み上げ機能。素晴らしい技術でございますね。私、魔法が使えなくとも人は成長していくのだと、日々感じ痛み入っています」
つまりそういうことなのだろう。
「先日、ようやく、『はみがきできるかな』を完読したばかりなのです。現在、『バナナのぼうけん』を続いて読んでいまして」
私でも知っている、幼い子どもが読む絵本の題名だ。それが形の良い唇から、まるで高名な学者が書いた本の題名のように、零れ落ちる。
緊迫した雰囲気が、ふつりと解けるように消えていくような心地がして、それに少しだけ笑った。
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