第7話

 異世界生物誘拐事件、ということに関しての話を聞いてから、数日が経った。

 実際、ネットで調べてみると、そういった事件は今までも何回か起こっているらしく、保護した人間の管理不行き届きを責めるような投稿も散逸していた。ネット上に嘘か本当か、真偽は定かだが、異世界生物に関する物品――素材、というべきようなものも売られているのを見かけて、なんとも言えない気分になる。

 携帯をゆっくりと伏せて、私は小さく息を吐く。朝ご飯を食べていた千草が、私のため息に気付いてか顔を上げた。そうして、軽く首を傾げて見せる。


「えと、どうしたの? ためいき……」


 千草は微かに瞳を瞬かせて、手に持っていたカトラリーをそっと机に置くと、私の傍に近づいてきた。そうして、小さな手を伸ばしてゆっくりと頭を撫でてくる。柔らかな指先が髪の毛を梳くように動くのがわかった。優しい手つきから、私のことを心配してくれている気持ちがじんわりと伝わってくる。


「ごめんね、大丈夫だよ」


 言いながら、私も千草の頭に手を伸ばした。形の良い頭を撫でるように指先を動かすと、千草は眦を軽く赤く染める。そうして、嬉しそうにくすくすと喉を鳴らして笑った。


「えとね、えと、いやなこと、あったら、おれにいってね。えとね、てつだう、よ」

「手伝う?」

「うん。いろいろ、たくさん。てつだう。がんばる、よ。かんぺき」


 千草はぐっと胸を張って見せた。その様子がなんだかおかしくて、可愛くて、少しだけ笑う。ありがとう、と感謝を述べると、千草は小さく笑う。ふくふくとしたまろみのある頬が、これまた柔らかそうに綻ぶ所を見ると、なんとも言えず可愛いな、なんて思う。頬に触れて柔らかそうな頬をぷにぷにと押してみると、千草は少しだけくすぐったそうに肩をすぼめて見せた。


「ユズハ、ユズハ。好きだよ」

「うん、私も大好きだよーっ」


 照れたような、そんな口調で紡がれる言葉に、私は頷いてから千草の体をぎゅうっと抱きしめた。息を零すように笑う音が胸元から聞こえてきて、次第に千草の手が私の背に回る。

 最初こそ、ドラゴンと過ごすことになって、どうなるものかと思って居たが、千草はとても良い子だった。教えたことはすぐに学び、吸収していく。最近は掃除や洗濯なんかの簡単な作業であれば手伝ってくれるようになった。

 その上、平日は仕事があることもあって、あまり家に居られない私を責めることもなく、家でじっと待っている。……誘拐事件のことを聞いた手前、私が居ない間はどこかへ遊びに行っても良いよ、なんて言えるはずもなく。窮屈な思いをさせていると思うのだが、どうすればいいかがわからない。まさか実家から親を呼び出すわけにもいかないだろうし。


「……有給……使うか……。使えるかな……」

「ゆうきゅう……?」

「そう。実は私有給を使ったことがほとんど無くて、多分もの凄く溜まってると思う……」

「えと。えとね。おやすみ、……ふえる?」

「ふやしたい! ふえる! はず!」


 理由を聞かれたら異世界生物を保護したことを伝えれば良いだろう。異世界生物は現在の日本において、誰もが知っているくらいには知れ渡っているわけだし。……会社の人だから、まさかそこから誘拐に発展するということもないだろうし。

 今まで全然休まず、というより休めず、サービス残業もこなし、過ごしてきたのだから多少なりとも休みを取ってもいいはずだ。いいはず。……許される! よし!

 千草の頭を撫でつつ、上司にどのように話すかを考えこむ。私の胸の中で、千草がくすくすと笑う音が聞こえた。よく笑う子だな、と思う。笑い声はささやかで、優しくて――だからか、私は千草の笑い声を聞くのが、とても好きだ。


「あのね。うれしい、ユズハといっしょのじかん、ふえるの、うれしい!」

「私もだよ……!」


 ぎゅうぎゅうと、強すぎない程度に抱きしめてから体を離す。頬を赤くした千草が、私と視線を合わせて眦を和らげた。えへへ、と彼は囁いて、それからもう一度私に頬をこすりつけるようにして抱きしめると、パッと離れた。


「えと。ユズハ、きょう、おやすみって、いってた」

「そうだね、お休みだよ」


 昨日の夜、寝る前に明日はお休みだからどこかへ行こうか、と言うと、千草は非常に楽しそうに声を上げた。わあわあと楽しそうに手を振って、そうしてから、たのしみだね、たのしみだねぇ、と言葉を弾ませていた。寄り添って眠ったのだが、眠るまでずっと、楽しそうにしていたのが記憶に残っている。


「えとね。えと、いきたいとこ、ある、ます」

「いきたいとこ? どこ?」

「どうぶつえん……」


 動物園。思わぬ言葉が出てきて、そう言えば先日の保護者会で話題に上がったな、と思い出す。

 虹蛇――というものが展示されているのだとか。千草は異世界からやってきたわけだし、やはり異世界の生物が気になるのだろうか。

 どこか見知らぬ場所に一人で放り出された時、見知ったものを見たら、安心するだろう。きっと、千草もそういう気持ちなのかもしれない。

 怖がらせたり、不安がっている姿を、今のところ見ていない。けれど、それらを千草が上手く隠しているだけ、という可能性だって否めないだろう。


「……うん、いこう。虹蛇、見にいこうか」

「うん。えへ、うん」

「フェリちゃん達も誘う?」


 折角だし。先日の保護者会で連絡先の交換をしているので、簡単に連絡を取ることが出来る。異世界生物に対して懐かしさや安心めいた感情を抱くなら、折角だし誘ってみても良いかもしれない。

 携帯を取り出す。瞬間、千草が私の手をがっしりと握った。


「だ、だめ!」

「だめ……!?」

「ユズハと、ふたりで、いくの。い、いきたい、よ。ふたりが! いいの!」


 思わぬ剣幕に、微かに顎を引く。……ど、どうしたのだろう。いや、けれど、千草が二人が良い、というのなら、そうするべきだろう。ひっしと握られた手を下ろして、わかった、と私は頷いた。


「二人で行こうか」

「うん。えとね。えと、あのね、ごめんなさい」

「どうして?」

「ユズハ、その、おれのために、フェリちゃんたち、誘ってくれようとしたんでしょう?」


 千草は少しだけ唇の開閉を繰り返すと、でも、ふたりがよくて、と小さく続けた。それ以上の言葉は、彼の唇の中にしまわれてしまったらしい。なんだか泣きそうな顔をしている。――まるで、親を取られた、子どものような。


「――ううん、いいよ。大丈夫。謝る必要なんてないよ」

「ユズハ……。あの。おれ、わがまま……」

「わがままって。そんなこと言ったら、私の方こそわがままかも。こーんな可愛い子の一日を貰っちゃうんだから」


 ね、と千草の手を握り返して軽く振る。千草は微かにきゅうっと眉根を寄せた後、小さく、ゆっくりと息を零した。


「……えへ。えとね、ユズハ、あのね、二人でおでかけするのって、すごくすごく、なかいいひとがするって、ほんにかいてあったよ」


 おれと、ユズハ、すっごくなかいいね、と千草は続ける。

 なんだかいやに楽しそうな表情に、私も小さく頷いて返した。


 朝ご飯を終えた後、用意をして、外に出る。春の陽気がさんさんと降り注ぐ外は、過ごしやすい温度を肌に滲ませる。フード――ではなく、角の部分を隠せるような帽子を被った千草が、私を見上げて楽しげに笑った。


「どうぶつえん。たのしみだね」

「そうだね。どうぶつえん、そっちの世界にはあったりしたの?」


 そういえば、と声をかけると、千草は少しだけ考え混むような仕草をする。

 こちらの世界に来て、私が居ない間はテレビや本を読むことも多くなり、千草の知識は初日より格段に積み重ねられているようだった。どうぶつえん。ゆうえんち。すいぞくかん。というような、一通りの施設については理解が出来ているようだし、文字も簡単な――小学生低学年が学ぶレベルの漢字くらいまでなら、読むことが出来るようである。

 最初こそ絵本や音読機能のついているアプリで文字を学んでいたが、今は普通に私が読むような文庫本なんかにも目を通しているようだ。ルーティオさんがドラゴンは学びが速い、と言っていたが、こういうときにその言葉を痛感する。


「えとね……。えと。ない、よ。ない、と思う」

「思う?」

「うん。あの、おれ、えと、にんげんじゃなかったから。だから、にんげんの、住んでるところ、いけなくて……」


 千草は少し言葉を選ぶようにもじもじと話す。


「人間にはならなかったんだ?」

「えと。あの、あのね。もとのせかいの、ひとたち、みんな、おれのこときらいだから」


 だから、と千草は困ったように眉根を寄せた。

 ――言いづらい話をしてしまったのかもしれない。ルーティオさんも、ドラゴンは強い存在として畏怖されている、というようなことを言っていたはずだ。どうやら角でドラゴンであるということはバレてしまうようだし、千草は角を隠さない。隠せない、のかもしれない。どちらにせよ、角は人間の姿になっても出たままである。

 その姿で、己を畏怖する人々の元へ向かったら――想像は容易につく。

 千草にとってしたら、嫌な記憶を思い出させるような話題になってしまったかもしれない。返す言葉に迷っていると、千草は私の手を握る。そうして、軽く照れたような表情を浮かべながら、「だから、ユズハが、おれのこときれいっていったの、びっくりしたよ」と続ける。


「きれい、って、いわれたの、はじめてだったから」

「……そうなの?」

「うん。きれい、かわいい、って。すごく、すごくね、うれしかったの」


 千草は照れたように言葉を続ける。なんてことなく発した言葉が、彼の心のどこかを慰めるような、そんなきっかけになれたようだった。

 私は胸の内にわだかまった様々な感情を一息に零して、千草の肩に触れた。少しだけ薄い肩の形を辿るように、ゆっくりと指を動かす。


「……ごめんね」

「えっ。えと、あの、なんで?」

「それでも。嫌な話題にしちゃったかなあって思って。――だから」


 そっと腰を下げる。視線を合わせると、千草は微かに瞬いた。


「今日は楽しく過ごそうね」

「うん。……うん! ユズハといっしょなら、ぜったいに、たのしいよ」


 千草は笑う。ほとんど無意識のように「かわいいね」と言ってしまい、千草が慌てたように頬を赤らめるのが見えた。

 可愛いも、綺麗も、沢山言おう。私が千草のことを好きでいるという証のようになる言葉を、沢山。

 繋がった手を握り返して、私たちは動物園へ向かった。


 電車を乗り継いで、動物園に到着する。休日ということもあって人の姿は多く、親子連れが多いようだった。特に今は虹蛇が居ることもあいまって、いつもより混雑しているのかもしれない。

 チケットを購入して中に入る。一緒に貰ったパンフレットを開いて、道順通りに進むことにしよう、と二人で決める。出入り口近くには、定番の動物が住んでいるようで、遠くから猿やキリンの姿がよく見えた。


「すごいねえ」

「ながい。くび。どうして?」

「木の上にある葉っぱを食べるために成長したって話だけど……」


 真偽のほどは定かではない。はああ、と息を零しながらキリンを眺める千草を尻目に、少しだけ笑う。

 なんだか、――どうしてだろう、じんわりと胸の内が暖かくなっていくような心地がした。楽しんでいる姿を見るのもそうだし、彼が驚く様が、ものすごく年相応に見えたから、かもしれない。


「じゃあ、えと、ユズハも……。木の上にある葉っぱを食べようとしたら、くび、ながくなる?」

「もしかしたらそうなるかもしれないね」

「ええっ」


 千草が驚いたように声を上げる。そうして彼はおろおろと視線を動かしながら、私の頭を持った。どうしたのだろう。


「ゆ、ユズハの、くび、ながくならないように、する」

「……今すぐにはならないよ」


 少しだけ笑って言うと、千草は何度か瞬いた。そうして、照れたように私の頭から手を離し、えと、えと、と言葉を続ける。愛らしい行動にじんわりと滲む喜色を抑えきれない。喉から笑い声が零れ落ちる。それを耳にしたのだろう、千草は更に顔を赤くして、それから同じように小さく笑った。


「えとね。ユズハが、くび、ながくなったら。おれも、くび、ながくするね」

「えっ。凄いね。そういうのもできるの?」

「できる、よ。かんぺき」


 千草はぐっと拳を握る。人が少しずつ動いていく。それに流されるように、私たちはキリンの前を後にした。

 ゾウ、サル、それに虎やチーター。どれも異世界には居ない生物らしく、千草は全てつぶさに観察していた。異世界とこちらの世界では、やはり生息する動物がそもそも全く違う体系となっているのだろう。それを思うと、ちょっと異世界へ行ってみたくなる。だが、現状異世界への出入りは禁止されている。というか、扉が空にあることもあり、一般人はどうあがいても異世界へはいけないようになっている。政府ですら、数ヶ月に一度程度しか行き来を行うことは無いのだから、相当行くのが大変なのではないだろうか。

 異世界生物が扉から落ちてくるようになったばかりの頃は、いずれ異世界便とでも言うような、各国の旅行会社がこぞって異世界への旅を案内するようなものが出てくるのではないかと思って居たけれど。実際、そうそう上手くはいかないらしい。まあそもそも、一般人が異世界へ行ったところで、多分、死ぬ確率が高いのではないだろうか。


「ライオン、さん」


 案内板に書かれた文字を読み上げて、千草はガラス窓の向こうへ視線を向ける。そこには二頭ほどのライオンが居た。写真と共に名前が書かれたパネルのようなものも設置されていて、それを見る限り、恐らく他にも何頭かのライオンが存在する様子である。多分、どこかに隠れるなり、奥の方で休んでいるのかもしれない。


「みんな寝てる……えと。ねるの、すきなのかなあ」

「そうだね。きっと」

「ユズハもねるの、すき?」


 もちろん好きだ。ほとんど睡眠のために生きていると言っても過言ではない。好きだよ、と言うと、千草はくふくふと喉を鳴らすようにして笑う。


「えとね、ユズハ、といっしょにねるの、おれもすき、だよ」

「そうなの? それは嬉しいな。千草をぎゅーって抱きしめて寝るの、私も大好き」

「えと。おれ、だきまくら……?」


 どこでそういう言葉を仕入れてくるのだろうか。小さく笑って、私専用の抱き枕だねえ、と言うと、千草は小さく頷いた。ふわふわと、柔らかく解れるように、彼の表情が綻ぶ。


「えとね。ユズハも、おれの、だきまくら、だよ」

「そうなんだ? もうお互い一緒じゃないと寝られなくなっちゃうね」

「うん。えとね。ユズハとずっと一緒」


 言葉を弾ませながら、千草は私に抱きついてくる。その背に手を回して一度だけぎゅうっと抱きしめた。

 お互いに近い距離で笑い合って、ゆっくりと離れる。――それと同時に、園内にアナウンスが流れ始めた。

 どうやら昼の時刻になったようである。それと同時に、十五分後に虹蛇の公開が始まる、という話も。お集まりの皆様は是非雨具を持ってお越しください――とのことである。


「虹蛇公開するんだって。行こうか」


 当初の目的である。声をかけると、千草は小さく頷いた。


「うん。えとね、にじへび、おもしろいよ」

「おもしろい?」

「うん。えと、あのね、あめをふらせて、にじをつくるの。たくさん、たくさん」


 千草の説明は、あまり要領を得ない。けれど、彼なりに必死に説明をしてくれているのがわかったので、私はゆっくりと頷いた。

 人の流れが動き始める。恐らく虹蛇に向かう列を辿りながら、私たちもゆっくりと歩を進めた。


 虹蛇の展示場所にはすぐに到着した。アナウンスを聞いてすでに色々な人が集まっているようで、ほとんどごったがえしている。千草と離れないように、重ねた手に再度力を込めながら、塀の方へ向かった。

 ちょうど窪んだ掘のような形になっていて、客の居る場所から見て遠く下の方に虹蛇の住まいとされている場所がある。どうやら展示時間は決められているようだった。展示でストレスを強く抱えさせないためなのだろう。

 ぼんやりと、少し遠くにある砂地を眺めていると、千草が小さく笑った。そう言えば、私からは見えるけれど、彼からは一切中の内情が見えていないかもしれない――と、慌てて両手で彼を抱き上げる。

 千草は一瞬驚いた表情を浮かべて、それからすぐに私の首に手を回した。すり、と頬ずりするように私の頭に触れる。


「ごめんね、気付くのが遅くて」

「えとね、だいじょうぶ、だよ。おれね、見える、から」

「み、見える?」

「うん。えと、とおくまで、たくさん、みえる」


 透視能力的なものを持っている、のだろうか。凄いね、と思わず感嘆すると、千草は小さく笑った。


「えとね。でも、あの、ユズハが、だいじょうぶ、なら、このままがいいなぁ」

「いいよ、大丈夫。もうすぐ出てくるらしいから」

「うん。――あのね」


 千草はこっそり喋るように、私の耳元に口を近づけて、囁いた。


「にじへびね、はやくでたい、っていってたよ」

「えっ――」

「あのねぇ。にじへび、にんげんのこと、すきだよ。にんげんのそばでくらしてきたから、たくさん、たくさん。だから、いまもずーっとはやくだせーっていってる」


 くすくすと笑うように紡がれる言葉に、一瞬だけ呆ける。そうしてから直ぐ、ルーティオさんの言っていた『砂の耳』を思い出した。

 どの言語であっても、一度聞けばそれを己の物に出来る。人間でいうところの砂の耳と言われる技能を、ドラゴンは生まれ持って持っているのだと。

 つまり、千草は今、実際に――虹蛇の言葉を聞いているのだろう。


「すごいねえ……」

「えとねえ、もうすぐでてくるよ。そしたら、あめがふる」


 千草は囁くように言う。そういえば雨具の用意をしろ、と言われていた。晴雨兼用日傘くらいしか持っていないが、これで大丈夫だろうか。千草に促されるようにして、鞄から日傘を取り出す。

 空は――まだ、青い。どこにも雲なんて見当たらない。それなのに。

 千草が傘をさした瞬間、ぽつり、と傘に当たる雨音が聞こえた。

 それをかわぎりに、雲も出ていないのに雨が降り出す。それは次第に激しさを増し、周囲の人々が慌てて雨具を取り出すのが見えた。

 雨で視界を遮られた、その向こうに、虹蛇が姿を現す。

 蛇という名前の通り、形はそのまま蛇といって問題無いような、細長い姿をしていた。ただ、――大きい。

 一般的に見られるような蛇を、五、六匹束ねたような、そんな大きさをしている。虹色の鱗を輝かせ、観客を睥睨するように見つめる、は虫類独特の鋭い眼光。それ自体がプレッシャーを放っているようで、体が重くなるような心地がした。

 遠く、下に居る。それなのに、どうしてだろう、私たちが虹蛇の下に居るような、そんな風に錯覚してしまうようだった。

 雨も降り、なおかつ、虹蛇が出てきたことも相まって、観客に興奮が伝わる。多くの人々がカメラを取り出し、そして携帯を取り出し、虹蛇の姿を撮ろうと押し寄せる。柵近くに居た人が、押さないで、押さないで、という声が響いて――それは、急に、訪れた。

 大人の男性が、押しくらまんじゅうされつづけていたのもあって、柵を越えて転げ落ちてしまったのだ。


「にんげん、おちちゃったね」


 千草が何でも無いことのように言う。落ちた人は地面に体をしたたかにぶつけ、痛みに呻いていたが、直ぐに起き出した。その傍に、濡れた地面を、巨躯を引きずって近づく虹蛇の姿がある。ずり、ずり、という音はまるで雨の中、ひどく強く響いた。誰かが悲鳴を上げて、助けなきゃいけない、と言う。瞬間的に爆発した人々の悲鳴の声が、耳をつんざくように鼓膜を揺らした。


「えっ……。えっ、だ、大丈夫なの?」

「えとね、にじへび、人間好きだよ。だから、大丈夫。いまもね、だいじょうぶ、だいじょうぶ、って言ってる」


 危害は加えない――のだろうか。もしかしたら、今近づいているのも、人間が急に落ちてきたから、驚いて大丈夫か確認するべく、傍に寄っているのかもしれない。

 だが、それは、観客には伝わらない。傍目から見て、雨を唐突に降らせる異世界生物、しかも巨大な蛇が男性に近づいていくようにしか見えないのだ。そうして、こちらの世界では蛇はなんでも丸呑みすることで有名である。

 人によっては、虹蛇が、男性を食べようとしているように、見えるのかもしれない。

 落ちた男性が慌てて虹蛇から遠のこうとするが、虹蛇の速度は男性が逃げる速度をも上回る。這いずるように濡れた地面を動く姿に、目を伏せる人や、悲鳴を上げる人が、様々に居た。中には石のようなものを振りかぶって、中に投げようとしている人も居る。

 これでは、虹蛇が危ないのではないだろうか。飼育員は何をしているのだろう。思わず喉が窄まって、周囲を見回す視線が揺れる。千草が心配したように私の名前を呼んだ。


「ユズハ?」

「ち、千草、どうしよう、このままじゃ……」


 人が好きで。人を心配して。落ちてきた人に近づこうとしている虹蛇が、酷い目に遭うかもしれない。石を、傘を投げられ、何が起こっているかわからないまま、苦しめられるのではないだろうか。

 様々な言葉が喉の奥を巡る。だからといって、それを千草に言ってどうするのだろう。まるで波のうねりのように、ひとかたまりとなって状況を見守る人々を、どうにかする術なんて私は持っていない。千草だってそうだろう。

 どうしよう、と喉の奥から言葉が零れる。千草が小さく顎を引いて、それから、えとね、大丈夫だよ、とだけ言った。

 瞬間、きいん、と強い音が鳴る。それは一瞬で消えた。

 千草が男性を指さすように手を動かす。瞬間、男性の体が浮き上がった。彼はゆっくりと空中を浮遊すると、柵から遠く離れた――虹蛇の展示場所から、離れた場所にゆっくりと落とされる。

 集団が波を打ったように静かになる。虹蛇が男性の行方を見守り、そうしてから、多分、千草のことに気付いたようだった。体をうねらせ、虹蛇は軽く鳴き声のようなものを零すと、ぺしりと尾っぽで地面を叩く。そうすると、次第に雨の勢いが収まっていくようだった。

 先ほどまでの不穏な雰囲気を払拭するように、虹がかかる。普通の虹、ではなかった。彩りが明らかに、この世界で見るものとは一切違う。誰もが息を飲むような間を置いて、虹蛇は軽く睥睨するように視線を動かすと、そのまま元の場所へ戻っていく。


「……な……何が」


 何が起こって。思わず息が漏れる。千草はすでに下ろしていた手で、私の首元を一度ぎゅうっと抱きしめると、「えとね」と囁くように言葉を続けた。


「魔法、つかったよ」

「えっ」

「ユズハが、たすけてって、言ってたの、わかったから。す、すこしだけ。えとね。つよいのは、ぜんぜん、できないけど、ちょっとだけ、魔法、使えたから。使ったよ。えと――いいこ?」


 千草が小さく照れたように笑う。言葉を返すのが難しくて、私は呼吸を繰り返した後、千草を強く抱きしめた。

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