第6話

 うららかな春の日よりが、地面に柔らかく降り注ぐ。停止した自動ドアの前で、さてこれからどうするんだっけ、なんて考えて携帯を取り出す。――と、同時に、携帯が着信を知らせる。震える画面に表示された文字を眺めてから、私は電話口を耳にあてた。


「もしもし、えっと、夏越です」

「お世話になっております。異世界管理課のルーティオです。お電話申し訳ございません」

「いえ――、ええと、その」

「でんわ?」


 電話を持っていない方の手が、きゅうっと握られる。視線を落とすと、フードを被った少年と目が合った。小さく頷いて返すと、少年は軽く瞬いて、それから私の手を両手で包みこむように持った。その手を握り返しながら、私は電話口へ意識を向ける。


「その、今から中に入るところです。お待たせしてしまいましたか?」

「いいえ、大丈夫ですよ。入り方が変更になりましたので、お電話を差し上げた次第です」


 時間通り、というか、それよりも少し前に来たはずだったのだが。ちょっとだけ慌てたが、すぐにその焦燥は払拭される。新たに、中への入り方を聞いてから、私は少年の手を引いて市役所へ足を踏み入れた。

 普段であれば人で混雑している場所も、休日ということもあり、ほとんど無人である。奥の方におそらく職員であろう人々が少しだけ居るように見受けられるが、それくらいだろうか。

 私は携帯に送られてきたメールを再度確認する。少年を保護するにあたって身元を登録する必要性があり、その際に『異世界生物保護者会』というものにも入会を勧められたのだが、そこから届いたメールだった。

 第三十六回、異世界生物保護者会、開催、という文字が躍っている。

 どうやら異世界生物管理課によって一定の周期で行われている、保護者同士の相談会のようなものらしく、メールにはそういった説明が書かれていた。異世界生物というものは謎が多く、かつ、地球には存在しない生物なので、保護するにあたって色々な壁にぶち当たってしまうことが多いらしい。それを解決に導くため、ひいては保護者同士の結びつきを強くするため、開催されているようである。

 折角なので是非参加してください、という言葉を末筆に締めくくられたメール。それに、参加の連絡を行ったのが、数日前。そして今日が、当日、ということである。

 階段を少年と共に登る。私よりも少し先を歩く少年が、まろみの帯びた頬を柔らかくほころばせるのが見えた。


「えと、今日……今日ね、ほかの……えと、いせかい、から来た、誰かと、会える?」

「うん、らしいよ。楽しみだね」

「うん。あのね……、楽しみ。おれ、えと、えっとね」


 今日のことを告げてから、少年は保護者会を楽しみにしていたようだ。くふくふと喉を鳴らしながら、彼は私の手を引いて階段を上がっていく。弾むような足取りだった。


「そうだ、ここではもうフード外して大丈夫だよ」

「ふーど……」

「そう。いつも被るの大変だよね……。夏になるまでにどうにか考えなきゃいけないね」

「えとね、たいへんじゃない、よ。だいじょうぶ。かんぺき」


 少年は笑う。それを眺めながら、少年の頭を撫でながら、ゆっくりとフードを外した。少年の側頭部の角が、あらわになる。少年は片手で自身の角をぺたぺたと触ると、照れたように笑った。


「かっこいい?」

「うん、凄くかっこいい。綺麗な角だよ」

「そっか。そかぁ、えへ」


 喉を鳴らすようにして少年が笑う。話している内に、登り続けた階段にも終わりが来た。この階だよ、と言うと、少年は小さく頷いた。踊り場から顔を出すと、会議室がずらりと並んでいるのが見えた。確か第三回議室、で行われるはずである。

 少年がきょろきょろと周囲を眺めて、それからすぐに会議室を見つけ出したのか、こっちだよ、と声を弾ませた。手を引かれて歩いて行く内に、私にも第三会議室の表示が見えてくる。扉は開いており、中を覗くとルーティオさんの姿が見えた。私と少年に気付いて、「お早いお着きですね」と笑う。


「お待ちしておりました。こちら今回の会の予定表です。といっても、今まであった事例を話したりするだけなので、あまり格式張ったものではございません」

「ありがとうございます」

「それと、こちらは名簿です。お名前のご記入をお願い出来ますか?」


 もちろん、と私は備え付けの鉛筆を握り絞める。名簿には私の名前と、それとあれば、という但し書きと共に保護した異世界生物の名前を書く欄があった。

 自分の名前を書いた後、すぐに少年の名前を書く欄にうつる。少しだけ手を止めてから、少年の名前をそっとそこに書き記した。先日、一緒に沢山話し合って、決めた名前。指先に少しだけ力がこもった。

 名簿を返すと、ルーティオさんがすぐに目を通し、それから静かに唇の端を持ち上げて笑った。


「夏越ユズハさま。そして、千草(ちぐさ)さま、ようこそお越しくださいました」

「うん。えと、……はい。はい!」


 少年――千草が、嬉しそうに手を上げて答える。その喜びように少しだけ笑いながら、私は改めて室内に目を向けた。

 少し早い時間帯に来たのもあって、人の姿はまだ無い。


「今日はどれくらい参加するんですか?」

「お二人です」

「お二人」


 お二人?

 思わず聞き返すと、ルーティオさんはゆっくりと頷く。鷹揚な、といえるような、そんな頷き方だった。

 す、少なくない? もう少し多いものと思っていた。思わず、へえ、と少しだけ裏返ったような声が出る。ルーティオさんは微かに瞬いた後、それから静かにかぶりを振った。


「夏越さま方と、あともうお一方ですね。夏越さまにお会いするのを楽しみにしていたようですよ。何せ」


 ルーティオさんの言葉を遮るように、どこからかぐるる、と大型の生物が喉を鳴らすような音が聞こえてくる。――私の勘違いでなければ、その音は廊下から響いてきていた。長い廊下を、残響するように、威嚇するような音が響いてくる。


「来たようですね」

「えっ。……えっ?」


 思わず体が硬くなる。開け放たれた扉、その向こう。ルーティオさんがようこそ、と声をかけると同時に人影があらわれた。

 巨大な生物を伴って。


「すみません、遅れて――って、あっ、この人! ルーティオさんが言ってた人でしょ!」

「ええ、はい、そうです」

「うわーっ。初めまして、話聞いてからずっと会いたくて!」


 青年――だろう。大学生くらいだろうか。彼は人好きのする笑みを浮かべると、私に手を差し出してきた。

 その背に、とんでもなく大きい、犬が居る。人の何倍くらいの大きさだろう。ちょっとすぐには計算が出来ない。

 テレビで一度、見たことがある。美しい白銀の体躯に、毛先が燃えているように青く滲む、大型の動物。


「ふぇ、フェンリル……ですか?」


 差し出された手をゆっくりと取る。青年は心底嬉しそうに頷いた。


「そう、フェンリルのフェリちゃん。雄!」


 フェンリルのフェリちゃん。雄。

 紡がれた言葉が一瞬、理解出来なかった。フェンリルのフェリちゃん。雄。――雄?

 男性はにこにこと笑みを浮かべたまま、その傍らに佇む青銀色の毛並みを撫でた。巨躯――とも言えるくらいに大きなフェンリルは、男性に撫でられても尚、威嚇するように喉を鳴らし続けている。

 本当に、大きい。こんな姿で外を出歩いていたら確実に噂になっているだろうし、ネット上にも様々な話が出てきそうなものだが、見かけた覚えがない。呆けながらじっと眺めていると、フェンリルは微かに牙を剥いた。瞬間、ほとんど無意識的に体がびくりと震える。

 お、おっきい動物に敵意を向けられるのって、結構怖い。私の背に隠れたままの千草が、そっと手に触れながら、ユズハ、と私の名前を呼んだ。


「えとね、だいじょうぶ、だよ! かんぺき」

「え……?」

「フェリ、ちゃん。おこってないよ」


 千草は頬をふくふくと綻ばせながら、言葉を弾ませる。それから、少し言葉を探すように視線を動かし、「あのね……」と彼はゆっくりと言葉を続けた。


「てれてる、んだと、おもう」

「……照れてる?」

「うん。えとね、……えと、照れてるときの、音がするよ」


 伝わるように、と、ふるいにかけながら紡がれた言葉に、私は小さく瞬く。

 照れて、いる。……どう考えても、というか、どう見ても、敵意を向けられているようにしか見えないのだが。

 千草へ視線を向ける。彼は柔らかそうな頬を赤く彩りながら、小さく頷いた。だいじょうぶ、とそっと手を握られる。

 なんだか――そう、先ほどまで滲んでいた恐怖のような感情が、じんわり、手の平からどこかへ抜けていくような心地を覚えた。千草が一切怖がっていないのだ。なら、私も、怖がる必要は無いと思えた。

 ぐるぐると喉を鳴らすフェンリルへ視線を向ける。細く、美しい顔をじっと見つめていると、フェンリルは何度か瞬いた。


「――初めまして、夏越ユズハと言います。フェンリルに会うのは初めてです、今日はよろしくお願いします」


 ゆっくりと呼吸をして、それから言葉を吐き出す。頭を下げて、上げる――と同時に、フェンリルの威嚇するような音が途切れた。

 一拍、二拍、と見つめ合っていると、ふい、と顔が逸らされる。なんとかしろ、とでも言うように大きな手の平が、傍に立つ青年の体をぺしぺしと叩くのが見えた。青年が小さく笑って、私を見る。


「そこの子の言うとおり、照れてるんだと思います。こいつ、なんか、異性が苦手っぽくて。そのせいで最初の保護の時も――」


 言いつのろうとした男性の顔に、フェンリルがべしり、と尻尾をぶつけるのが見えた。男性は軽く仰け反り、そのまま「何するんだよ!」とフェンリルの体を軽く叩いている。

 緊迫したような雰囲気が、ふと、解けるように柔らかくなっていくのがわかる。思わず笑うと、千草も同じように息を零して笑った。



 ルーティオさんに促されて、円のように設置された椅子に腰を下ろす。渡された資料を手元に置きながら、私は咳を零すルーティオさんと、それとフェンリルを姿勢良く座らせるべく四苦八苦している男性を交互に見つめた。


「それでは、第三十六回、異世界生物保護者会を始めます。お手元の資料は一応ご用意したもので、そこまで厳密にテーマに沿って話して頂かなくても問題ありません。初めて保護を行うに当たって、何かしら気になることなどがあれば、それを是非話して行きましょう」

「気になること……」

「はい。例えば、先日もお伝えしたと思いますが、改めて食事に関してや、暮らす際の諸々についてなど」


 ルーティオさんは頷きながら小さく微笑んだ。気になること――と言われると、色々と浮かぶには浮かぶのだが、この場に適した質問なのかがわからない。どうしようかなあ、なんて思いながら考えていると、男性が勢いよく手を上げた。


「はい! はい!」

「……どうぞ、小菅さん」

「はい! 小菅です! あの! 夏越さんが保護した異世界生物ってなんなんですかぁ!?」


 ルーティオさんが当てると同時に、男性がぐっと拳を握って私を見た。瞳が輝いているように見える。傍らで体を伏せているフェンリルのフェリちゃんが、小さくため息を零すようにして吐息を落とす音が聞こえた。


「ドラゴンって聞いてたんスけどぉ! ドラゴン!? なんですかぁ!?」

「ど、ドラゴンです」

「ええーっ! すげえ、ドラゴン初めて見た、本当に凄い、でも俺の目にはものすごく小さな子どもに見えるんですけど! 実際はどんな姿なんスか?」

「実際……は、本当に普通のドラゴンの姿みたいな……」


 答えつつ、傍らの千草に目をやる。千草は小さく頷いた後、「えとね、どらごん、だよ」と言葉を続けた。男性がわあーっ、と声を上げる。


「しかも日本語喋ってるの凄い。もう本当見た目普通の子どもなのに……角隠せば全然人間じゃん」


 男性――小菅さんは、椅子から立ち上がると、千草に近づいてきた。そうして、ごめんな、と謝罪を入れてから角を触ったり、頬を触ったりする。千草は一切抵抗せず、小菅さんの手の動きに喉を鳴らすようにして笑っていた。


「えとね、きちんと……にんげん?」

「うん、凄い人間。もう本当すっごく人間」

「えへ。あのね、よかった……。ちゃんとにんげんになれてるの、うれしい」


 小菅さんの答えを聞いて、千草は照れたように言葉を続ける。そうしてから、千草は私を見て、頬を赤らめるようにして笑った。えへへ、と息を零すように笑い声を零して、私に手を伸ばしてくる。そっと指先を握られた。


「小菅さん。あまり初対面の相手に近づくものではありませんよ」

「ええーっ。でも……」

「そこのフェリちゃんが不服そうにしているのが見えませんか?」


 千草を揉みくちゃにするようにして触れていた小菅さんは、ルーティオさんの言葉を聞いてええーっ、と大きな声を上げた。そうして、慌てたように席に戻り、フェリちゃんの首元に抱きつくようにして体を埋める。

 丁寧にブラッシングされているのか、それとも元々の毛質なのか、フェリちゃんの毛質は大変柔らかそうで、もふもふしているように見えた。

 自分よりも大きな、いわゆるワンちゃんを相手どっているようなものである。……ちょ、ちょっとだけうらやましい。


「ごめんな、フェリちゃん、俺はお前が一番だよ!」


 小菅さんの言葉にフェリちゃんが呆れたように鳴く。千草が小さく笑い、「なかよし」と静かに囁いた。そうして、私の手を軽く引いてくる。視線を向けると、美しい瞳と目が合った。まるで宝石か、美しいガラス細工のようにも見える虹彩が、微かな期待に揺れている。


「えとね、なかよし、だねぇ」

「そうだね、いいね」

「うん、えと、えとね、すっごくいい。かんぺきで、あの、なかよし……。えと。なかよし……。あの、おれ、あの、もふもふ、なれるよ。な、なる?」


 多分、――多分だけれど、小菅さんがフェリちゃんを抱きしめているように、千草も抱きしめて欲しいのかもしれない。千草は慌てたように、そして照れたようになかよしだねえ、と言葉を早口に続けて、私をちらちらと見る。

 ……かわいい。少し困らせたい欲がじんわりと滲んで来るが、手をくいくいと引かれて、瞳を揺らめかせながら見つめられては、あらがうことも難しい。

 私はそっと手を伸ばして、千草の体を抱きしめた。幼さの滲む、小さな体躯は、私が両手で抱きしめると簡単に胸の中に収まってしまう。


「そのままでいいよ。私と千草も仲良しだよ!」

「――うん。えとね、かんぺきな、なかよし!」


 千草が嬉しそうに頬を赤らめて笑う。すりすりと頬をこすりつけるようにして彼は続けて笑い、私の背をぎゅうっと抱きしめた。可愛い。すごく、すごく。

 両手の中の感触を楽しむようにもう一度だけ抱きしめていると、ぱん、と手を叩く音が場を縫うように響いた。ルーティオさんによってのものだ。


「失礼。どうやら、私は異世界生物保護者会ではなく、異世界生物親馬鹿会に来てしまったようですね」


 静かな声だった。――お、怒っている、ように聞こえる。千草が驚いたように瞬いて、「おやばか」と言葉を続ける。


「えとね。おやばか。じゃないよ。おれとね、ユズハはね、えと……かぞく!」

「それは結構。では、話を戻してもよろしいですか?」

「すみません。よろしいです、問題無いです」


 ……意見交換をするために来た場所で、千草を大変に可愛がってしまった。これはいけない。本当に親馬鹿である。保護者馬鹿というべきだろうか。とにかく、会の趣旨に反してしまったのは間違いない。頭を下げると、ルーティオさんは小さく息を零した。そうして、今も尚フェリちゃんを抱きしめたままの小菅さんを一瞥し、ゆっくりと顔を振る。


「さて。私から少しお話したいことがありますので、お聞きください。――お話したいこと、というのは、いわゆる、異世界生物の誘拐事件に関することでございます」

「異世界生物誘拐事件、ですか?」


 中々に物々しい発言である。問いかけると、ルーティオさんは小さく頷いた。そうしてから、「小菅さまには既にお話したこともあるのですが」と言葉を続ける。


「異世界生物というものは、保護されることもある一方、悪い人間の手に渡った場合、素材……のようなものとして使用されることがあるのです」

「素材」

「はい。そうですね、こちらの世界で言う、ロールプレイングゲームに出てくるような……。例えば不死鳥の羽ですとか、フェンリルのかぎ爪ですとか」


 ルーティオさんは滔々と言葉を続ける。そうしてから、考え込むようにふむ、と一つ頷いて、「異世界であれば加工の技術が整っており、そこから武具へ変えることもあるのですが、こちらの世界に加工技術はございませんから、ただ単に希少なものとして集められ、高値で取引されているようです」と続ける。


「私どもとしては、保護してくださる方々には感謝の念しかございません。そういった善意の方々が、悪意を持つ人々によってどうにかされるなどということはあってはいけないことです。ですから、異世界動物の保護を行っていることは、出来うる限り外に出すことをお控えください」


 ――そうか、となんとなく納得するところがあった。

 ルーティオさんと初対面の時に、ドラゴンのことをSNSに乗せることはお控えください、というようなことを言われた。今日までそれに従い、出来る限り千草のことがあらわにならないようにしていたけれど、その理由がつまり、『誘拐されるかもしれない』から、なのだろう。

 小さく息を吐く。もし、ルーティオさんの言いつけを破り、SNSやら動画やらと撮影し、投稿していたら、大変なことになっていたかもしれない。

 異世界からやってきた、希少な素材として、バラバラにされてしまっていたかもしれない未来を想像すると、ぞっとする。


「――小菅さま、まさかとは思いますが、フェリちゃんをそのまま歩かせてきた――ということは、ございませんよね?」


 ルーティオさんが話の先を小菅さんに振る。確かに、フェリちゃんの大きさは本当に目を引く。こんなに大きな動物が街路を歩いていたら、きっと噂になっているはずだろう。

 小菅さんは微かに瞬いた後、小さく笑った。そうして、フェリちゃんの背を軽く叩く。


「ほらぁ、フェリ、怒られちゃったじゃん。――あの、大丈夫です。大きくなったのは、この階についてからなんで」


 ほらほら、普段の姿、と小菅さんは言葉を続ける。普段の姿。出てきた言葉の意味を考える前に、フェリちゃんがふん、と軽く鳴いた。その体がもやに煙るように揺れ、急速に小さくなる。


「えっ」

「普段はこれくらいの。子犬サイズで過ごしてます。近所の人にはポメラニアンと思われてるみたいで」


 言いながら、小菅さんは小さくなったフェリちゃんを抱き上げる。確かに、もふもふでころころとしていてふわふわしている姿は、ポメラニアンと言われたらそうだろうな、と納得してしまうくらいには可愛らしい。先ほどと打って変わった愛らしさに、思わず悲鳴のようなものが漏れかける。か、可愛い。あんなもふもふっとした生き物、存在していても良いのだろうか。人を堕落に誘い込んでしまうのではないか、と思うくらいには可愛い。


「か、可愛い……」

「でしょ。散歩してると、もう、すっごい人気になるんです。女の子がいると逃げちゃうんだけど」


 なあー、なんて笑いながら小菅さんはフェリちゃんの首筋を撫でている。それはもう、人気になるのもかくや、という感じである。たまらなく可愛い。思わず視線を奪われ続けていると、不意にくいくいと指を引っ張られた。見ると、千草が少しだけ不満げな顔で私を見つめる。


「……もふもふ。なれる……なれる、よ」


 少しだけ――そう、少しだけ拗ねたような声。先ほどから、私がフェリちゃんを見つめてしまう度に、けん制するように声をかけられている気がする。

 多分、不安にさせてしまっているのかもしれない。ごめんね、と小さく謝ると、千草は首を振った。家に帰ったらうんと撫でることにしよう。


「フェンリルである、ということをきちんと隠しているということで、安心いたしました。引き続き、そのようにお願いいたします。必要であれば毎日連絡させて頂きますが」

「ええーっ。毎日って。何それ、朝に毎日ルーティオさんからの着信で起こされるとか嫌なんスけど!」

「私も嫌ですが。フェリちゃんもよろしくお願いします。良いですね」


 ルーティオさんが釘をさすように言葉を続ける。静かな……けれど、威圧するような響きのそれに、フェリちゃんが慌てたように頷くのが見えた。


「千草さまにおかれましては、そのような問題はなさそうですね」

「はい。あの、最初に言われた通り、ネットに投稿したりはしていません」

「うん。あのね、角、も、隠してるよ。みつからないように、してます。かんぺき」


 千草が小さく頷く。ルーティオさんがゆっくりと頷き返し、「よろしい」と小さく囁いた。


「特に、あなたがたはこの世界にやってきた、初めての『ドラゴン』ですから。気をつけてください」

「えと、きをつけ、る! ます!」

「この世界では、あなたの力は十分の一、いえ、百分の一、くらいになっていると思ってください」

「ひゃくぶんの、いち」

「大勢に囲まれたら少し大変、という感じですね」


 千草が理解しやすいようにか、ルーティオさんがかみ砕いて説明してくれる。千草は手の平の開閉を繰り返し、それからゆっくりと頷いた。


「えとね、うん、だいじょうぶ。きをつけるます。えと、えとね、でもね、しつもん、あり、ます」

「質問ですか? どうぞ」

「えとね――もし。もしも、ゆうかい、されちゃったら、いい?」


 千草は首をこてん、と傾げてみせた。子どもらしく、可愛らしい行動だ。いい、とは、とルーティオさんが微かに語尾を持ち上げて返す。


「えと。……ころすの」


 柔らかく、淡い彩りの滲んだ唇。そこから思わぬ言葉が漏れ出て、一瞬、理解が遅れる。

 ころすの。――殺すの? そう言っているのだろうか。

 ルーティオさんが微かに顎を引く。そうしてから、彼は立ち上がると、ゆっくりと千草の前に来た。そうして、膝をつき、視線を合わせる。


「いけません」

「どうして? だって、わるいひと……でしょ。なら、良い、よね?」

「いいえ。もし、こちらで人を殺したら、あなたは一生、ユズハさまと離れることになりますよ。それどころか、こちらへ落ちてくることも、もう二度と出来ません」

「……どうして?」

「そういう風になっているのです。こちらの世界では。それに言っておきますが、元がドラゴンといえど、この世界で人を殺すには骨が折れますよ。魔法元素の無い世界で、弱体化するだけで済んでいるあなたがたは奇跡なのです」


 きっと。――多分、そう、千草の居た『異世界』では、人死にはそこまで明確な罪となるものでは、無いのかも知れない。特に千草はドラゴンで、ルーティオさん曰く、ドラゴンは異世界でも強く凶悪な存在として知られている、と言っていた。

 異世界の人々が素材を求め、フェンリルやドラゴンを倒すのと同様に、フェンリルやドラゴンは生きるために『わるいひと』を殺す。そういう風になっているのかもしれない。

 けれどそのルールは、こちらの世界には無い。

 千草はむずがるように指先を組み合わせる。そうしてから、小さく頷いた。


「わかった。えと、ころさない、です」

「それはよろしいことです。この世界に居るのは三ヶ月――とは言え、この世界にもルールは存在しますから。お気を付けてお過ごしください。どうかこの奇跡を、自らの手で潰さないように」


 言い終わってから、ルーティオさんはゆっくりと立ち上がった。さて、と彼は沈黙を打ち消すように軽く手を打ち合わせる。穏やかな微笑みを浮かべて、彼は言葉を続けた。先ほどまで、人を殺すという話題を交わしていたとは思えないほどに、朗らかな感情を少しわざとらしいまでに表情に浮かべている。


「違う話題に移りましょうか。そうですね。最近近くの動物園に、保護された虹蛇が展示されているようですよ。それも三ヶ月後の帰還までとなりますが――」


 ルーティオさんによる心遣いなのだろう。つまりは、変な雰囲気を持続させないための。

 殺す、という話題に囚われたままの思考がようやく動き出す。私は慌てて言葉を合わせるように、虹蛇ですか、と語尾を持ち上げた。小菅さんが「知らない?」と軽く首を傾げて見せる。知らない。頷いて返すと、彼はすぐ、虹蛇の説明を始める。

 どうやら、ファンタジー生物に一家言あるようである。虹蛇は雨を降らせる蛇で、という言葉からつらつらと連なる説明を聞きながら、私は頷いた。


「そんな生物も居るんですね」

「ほんっと沢山居るんスよ。いやあ、だからほんっと、ドラゴンに会えるなんて……。多分一生分の運使った。……ドラゴンの姿見てみたいなあ、千草くん……」


 ちら、ちら、と小菅さんが千草を見つめる。千草が困ったように眉根を寄せて、えとね、と言葉を続けた。


「どらごん、のすがた、ならない、ます」

「ええーっ。ど、どうして。どうして!?」


 小菅さんが泣きそうな声を出す。千草は私をちら、と見つめると、もう一度首を振った。


「ユズハと、いっしょになりたくて、このかたちになったから……。ドラゴン、ユズハ、ちがう、でしょ? ユズハが、もふもふ、好きなら、なる、けど……どらごんは、ちがう。えとね、こわい、から」

「ええっ。ええ……うう……ああ……」


 悲しみに濡れた声が耳朶を打つ。どうやら何を言われてもドラゴンの姿にならないのは変わらないようだ。あの姿も綺麗で、可愛らしかったけれども。だが、千草が「ならない」と決めているなら、私が何か言うのもなんだかな、という感じがする。ただ一つだけ、誤解のようなものは解いておこう、と私は千草の頭に触れる。ごつごつとした角と、皮膚の合間。その辺りを指先でくすぐると、千草は小さく体を震わせた。くすぐったいよ、と笑う声が耳朶を打つ。


「私、千草のドラゴンの姿も好きだよ。綺麗で、可愛くて、素敵だなあって思ったから」

「……えと、こわく、なかった?」

「うん。全然」

「そか。……そかぁ」


 ふにゃりと綻ぶような、そんな笑みが千草の面持ちに浮かぶ。もふもふも好きだし、ドラゴンも好きだ。もし私が怖がるから人の姿で居る、というのなら、そんなことはないよ、ときちんと否定しておきたい。

 千草は私の言葉を口内で転がすように、そかぁ、ともう一度声を弾ませると、「えとね、でもね、このままがいいなぁ」と続ける。


「ユズハと、いっしょ。なら、ユズハ、好きになってくれる、……でしょ?」

「そんな……、そんな、もう、好きだよ……。千草がドラゴンでも、人でも、好きだよ……」


 真っ直ぐな声に、真っ直ぐな言葉。なんだか胸の内側がくすぐられるような、そんなこそばゆさを感じる。愛おしさで胸が苦しくなってくる。思わず抱きしめたくなったが、流石に先ほど『親馬鹿』と称されたばかりである。自重して、家では沢山抱きしめよう。

 千草の頬が赤く染まる。彼は頬に詰まった熱を取り払うように指先で輪郭を覆い、喉を鳴らすように楽しげに笑った。そうしてから、彼はユズハ、と私を呼ぶ。そっと小さな唇が耳元に近づいた。


「おれもね、だいすき。ユズハがひとでも、ひとじゃなくても、えとね、だいすきだよ」


 まるで秘密を囁くような声だった。じんわりと、柔らかな熱が胸の中に溜まっていくのがわかる。可愛いなあ、と思う。絶対に私が守り切ってみせる。三ヶ月の間、沢山、千草に楽しんでもらって、沢山の楽しさを、異世界へ持って帰れるように。


「私が守る……」


 決意めいた声が漏れる。ルーティオさんが小さく笑って、「是非よろしくお願い致します」と言った。

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