第5話

 電車から降りて、まばらな人混みに紛れながら、改札を出る。ちかちかと明滅する電灯を眺めながら、私は小さく息を吐いた。歩道を歩きながら、ぼんやりと今日考えて居たことを反芻する。

 そう――名前である。

 道ばたに落ちていたドラゴンである少年には、名前が無い。ルーティオさん曰く、ドラゴンに名前が無いのは普通のことであるとのことだった。だが、この世界で暮らすに当たって、ずっと『ドラゴン』であるだとか、『少年』であるだとか、そういう呼び方をし続けていくわけにもいかないだろう。そもそも少年ではないらしいし。

 というのもあって、私と暮らす間だけでも、呼び合うために名前を決めようと数日前に決めたのだが――。

 名前が、決まらないのだ。

 少年は名前に頓着が無いらしく、私の好きな食べ物や食材、物の名前を聞いては「なまえ、こめ、で良いよ」と言い出す。それは駄目だろう、ということで違う名前にしようとするのだが、これが中々難しかった。

 子どもの名前をつけるのに、皆が数ヶ月前から準備して命名すると言うのをどこか遠くの物語のように聞いていたが、今その気持ちが大変よくわかるものである。

 だって、名前だ。大事なものだろう。こめではいけない。こめではいけないことはわかるのだけれど――、そう、他の名前が思いつかないのだ。

 私はちら、と時計を見る。今日はいつもより、少しだけ早く仕事が終わって、定時には帰社することが出来た。……少しだけ、本屋に寄っても良いだろうか。数分だけ。命名図鑑の所を見るだけ。すぐ帰るから。

 私は心中で何度も頷いて、踵を返す。近場の本屋への道を、私は足早に辿った。


 本屋にはすぐに到着した。入ってすぐの所に案内板が存在し、フロアーのどこに何の本が置かれているか、詳しく書かれている。

 そこに、見知った姿を見つけた。


「え」

「おや」


 思わず声を上げると、案内板を熱心に見つめていた人物も、私に気付いたようだ。金色の髪を輝かせながら、彼は振り向いて私を見た。


「夏越さんではないですか。奇遇ですね」

「ルーティオさんこそ。案内板を見てましたけど、何か気になることでも?」

「ああ、いえ」


 男性――異世界生物課職員である、ルーティオさんは、私と案内板を交互に見ると微かに視線を落とした。そうしてからすぐ「読めないんです」とだけ続ける。


「恥ずかしながら、魔法道具も万能ではありませんから。喋ることは出来ても、読むことまでは……。自分で学んではいるものの、日本語は難しいですね。ひらがな、カタカナ、漢字と存在しますから。面倒臭くて参考書を放り投げたくなることもあります」

「それは……いや、確かにそうですね。わかります、その気持ち」

「わかる、とは。生粋の日本人でしょう?」

「生粋の日本人でも日本語難しいなあと思う時があるので」


 ルーティオさんが、薄く笑みを零す。そんなことがあるんですか、と彼は語尾を持ち上げながら、「私のことはどうでも良いのですが、それより、夏越さんこそ、どうされたんですか?」と首を傾げた。


「お目当ての本が発売されたとか、でしょうか?」

「ああ、いや新刊を買いにきたわけではなくて……ちょっと気になる本を探しにきたんです」

「気になる本を。差し支えなければ、どのような本を人間が好んで読むのか気になるのですが」

「人間が……」


 思わず戦くような声が出る。何か変なことを言いましたか、と、ルーティオさんは軽く首を傾げた。

 なんだか、彼にとって私は人間のサンプルみたいな感じに思われている気がする。役所で働いているのだから、私以外の人間と接することも多いのではないだろうかと思うのだが。


「私一人でサンプルになりますかね?」

「なりますとも。あなたはどうやら、私の強い物言いにも物怖じしないようですから。忌憚の無いご意見をお待ちしております」

「強い物言い……」

「ええ。魔法道具は万能ではない、と最初に言いましたが、時折暴走するんです。私の発言を曲解して伝えると言いますか――愚鈍な存在である人間におかれましては、理解出来ずに苦しむことも多いようです」


 あけすけとした物言いにちょっとだけ呆けて、それからすぐ、笑ってしまう。ルーティオさんは本気で困った表情をしていた。実際、彼はどのような言葉を口にして、それがどのように巡り巡って翻訳されているのだろうか。むしろ私の言葉も、翻訳の影響を受けて時折暴走してしまっていたりするのだろうか。少し気になる。


「サンプルになるかどうかはともかくとして、今日は名付けのための本を買いに来ました」

「名付けの……?」

「はい。あの、ドラゴンの。名前が無いので、ここに居る間だけでも、つけようって」

「それを彼は了承したんですか?


 ルーティオさんは少しだけ驚いたように目を開く。わりと歓迎ムードで受け入れられたことを話すと、彼は考えるような間を置いてから、「結構なことです」とゆっくりと頷く。


「……ドラゴンには名前はない、という話は以前もしましたね。彼らの群れの形は大変独特で、互いに個人を認識する必要性がありません」

「個人を認識する必要性、ですか?」

「はい。――ドラゴンは、生まれてすぐに独り立ち致します。群れで過ごすことは少なく、繁殖期であっても、変わりません」


 ですから、個人名が必要無いのです、とルーティオさんは続けた。


「先日確認した際も、彼に名前はありませんでした。異世界で――扉の向こうで過ごすのであれば、一生涯必要のない名前を望み、かつ、あなたにつけてもらうことを願う。あなたがつけた名前なら、きっと何でも喜んでくれるのではないでしょうか?」


 ルーティオさんはちら、と私を見ると微かに微笑んで見せた。――喜んで貰えたら、それ以上に嬉しいことはないのだが。


「……頑張って気に入ってもらえるような名前を考えます」

「私、初めてドラゴンに名前を付けようとする人間に出会いました」

「私も初めてドラゴンに名前をつけようとしてます」


 ぐっと拳を握ると、ルーティオさんは小さく喉を鳴らした。ほどほどに、と彼は告げてから、それでは、と踵を返す。数歩あるいた後、何かに気付いたようにもう一度踵を返して、私の傍へ近づいてきた。

 どうしたのだろうか。


「すみません。少しお尋ねしたいのですが」

「なんでしょうか」

「この地球には文字を習い始めた人間が読む、文字の少ない本があると同僚から聞いたのですが」


 思わず呆ける。文字の少ない本、かつ、文字を習い始めた人間が読むもの。


「絵本ですか?」

「恐らく。大変お手数をおかけしますが、どのあたりに絵本なるものがあるか、お伺いしても?」


 ルーティオさんは神妙に頷く。なんだか真剣な様子が微笑ましくて、表情が崩れるのがわかる。表示板の元へ二人で向かい、絵本の場所にルーティオさんを案内してから、私は元々の目的を果たした。



 本屋を出て、自宅へ向かう。1Kのアパート、歩道から窺えるベランダに、カーテンの隙間から光が漏れ出ているのが見える。人が居ることを示す灯りを見つめながら、私はアパートの階段を上った。鍵を差し込んで、回す。


「ただい――」

「おかえり、なさい」


 扉を開けてすぐ、胸の中に少年が飛び込んできた。私の背に手を回し、彼は私を見上げてくる。青色の瞳、その瞳孔が微かに広がっていて、きらきらと輝いているようにも見えた。なんというか、本当に、魅力のある目をしている。ずっと眺めていたくなるような、という形容が一番正しいだろうか。

 彼は私と視線が合うと、そのまま表情をほころばせた。


「ユズハ。まってた、おかえり、おかえりなさい……」

「留守番させてごめんね、大丈夫だった?」

「うん。えとね。かんぺき、だいじょうぶ……だったよ」


 小さく息を零しながら少年は笑い声を唇の端から落とし、私の体に頬をこすりつけるようにして頭をぐりぐりと回した。角が凄く当たる。ちょっとだけ痛いが、我慢の出来る痛みだし、全力で愛情を表現するような行為になんとも言えず嬉しくなるので、全然問題無い。

 少年の背中に手を回しつつ、私たちはゆっくりと室内に足を進めた。後ろ手に扉を閉める。少年は依然として私の体に顔をぐりぐりとこすりつけていたが、軽く肩を叩くとぎゅうっと一度だけ私を強く抱きしめて、ゆっくりと離れた。


「ユズハは、きょうも、おしごと……あしたも、おしごと?」

「そうだね。ごめんね、ずっと留守番させてて」


 そっと頭を撫でると、少年は照れたように頬を赤くさせて、ゆっくりと首を振った。だいじょうぶ、と彼は続ける。


「あのね、まってるの、いやじゃないよ。ユズハ、ぜったい、かえってくるから」


 少年は言いながら、私の手を握った。小さな手の平が、きゅうっと私の手を包む。

 いじらしい言葉だった。なんだか胸の奥がぎゅうっと握られるような、そんな心地を覚える。愛おしいというような、可愛らしいというような、そんな感覚から来る感情だ。

 握られた手を握り返しながら、私は鞄の中に入れていた本を取り出した。


「そうだ、今日こそ名前を考えようと思って!」

「なまえ。なまえ……ユズハが、考えてくれるの?」

「頑張ります、けど、嫌だったら言ってね」


 名前付けのためのテキストを取り出すと、少年は微かに目を瞬かせて、それからゆっくりと首を振った。花がこぼれるような笑みを浮かべ、「嫌じゃないよ」と続ける。


「あのね。えと、ユズハが……考えてくれる名前、ぜったい、いやじゃない。えとね。パスタでも、いいよ?」

「パスタは……パスタは……」


 流石に食材や料理の名前をつけたくはないというか。これも私のエゴなのかもしれないけれど。けれどここまでパスタが好きなのであれば、もうパスタと名付けるべきなのだろうか。


「……パスタ、好きなの?」

「えと、あの……」


 問いかけると、少年は微かに瞬いた。そうして、考えるようにきゅうっと眉根を寄せて、ゆっくりと言葉を吐き出す。


「あのね……パスタ好き、だけど、でも、それだけじゃないよ」


 言葉をふるいにかけ、その中から発するを更に精査しているような、そんな速度で少年は喋る。


「ユズハが、パスタ、すきだから、すき。ユズハの好きなものの、名前になりたい」


 先日も言われた言葉だった。恐らく、少年は名前にあまり頓着が無いのだろう。だからパスタでも良いのだと言う。

 私が好きなものだから、その名前で良いのだと。

 なんだかいじらしい行動だ、と思う。私が好きなものの名前をつければ、同じように愛されると思っているような、そんな行動だ。もしかしたら、実際、そう思っているのかもしれない。――そう考えると、胸がきゅうっと痛むような心地を覚える。


「……それを言うなら、私は君の全部が好きだよ」

「えっ?」

「綺麗な銀色の髪も、青色の瞳も、かっこいい角も、ぷにぷにの頬も」


 言いながら少年の頬に触れる。柔らかく、まろみを帯びた頬をぷにぷにとしていると、少年はころころと楽しげに笑った。えへ、と息を零すように笑い声が漏れるのが聞こえる。


「ユズハ、おれのこと、全部好き?」

「うん、大好き」


 頷いて返すと、少年はなおも表情を柔らかくさせた。そっか、と小さく呟いて、そのまま私の胸元に角をぐりぐりと押しつけてくる。

 そうしてから、ふと気付いたように「えとね、名前、ぷにぷに?」と続けた。

 ぷにぷに。確かにぷにぷにの頬が好き、と言ったけれど。ちょっとだけ笑って、どうしようかなあ、なんて少年の頭をそっと撫でる。美しい銀糸のような髪は、指通りもよく、触れるとさらさらと流れるように落ちていく。


「じゃあ、えとね、青?」

「青……そっか、目の色とか髪の色から考えるのは良いかもしれないね」


 折角である。子どもの名前を考えるための本も買ってきたことだし、色関係の名前を探すのも良いかもしれない。

 本を袋から取り出して、リビングの小さな机の上に広げる。私についてきていた少年も、横合いから眺めるようにして本をじっと見つめていた。

 ルーティオさんは確か文字が読めない、と言っていた。少年もそうなのだろうか。少しだけ考えて、最初から読み上げて行けば良いか、と直ぐに思いつく。

 ゆっくりと文字を指さしながら少しずつ読み上げて行く。少年は私の横で、楽しげにその声を聞いていた。

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