第53話 (8)夏休みの出稽古7

 きょう一日だけでも、様々なことがあった。

 なによりの収穫は、巻き上げ打ちというものを知ったことだろう。


 この巻き上げ打ちをものにすれば、インターハイでの優勝もそう遠くはないはずだ。今度こそ、あの神崎を倒してやる。

 そんなことを思いながら大学から帰るバスに揺られていたのだが、いつの間にかおれは眠ってしまっていた。


「おい、花岡。花岡ってば」

 どこからから声が聞こえてくる。聞き覚えのある声。

 多分、この声は高瀬の声だ。


「おい、起きろよ。降りる駅だぞ」

 その言葉におれは目を開けた。

 バスの車窓には見覚えのある景色が広がっていた。


「悪い、高瀬」

 おれは肩をゆすって起こしてくれた高瀬にお礼をいって、一緒にバスを降りる。


 大学から一緒にバスへ乗った前田と羽田はすでにいくつか前の停留所で降りてしまったそうだ。

 おれは完全に眠ってしまっていて、そのことにすら気づかなかった。


 停留所で降りたおれたちは、なにげなしに停留所の前にあった公園の中へと足を向けた。

 どちらが誘ったわけでもなく、なんとなく二人とも公園に足が向いていた。

 公園には誰もいなかった。小さな公園で、ある遊具は滑り台とジャングルジムだけでベンチも二人で座れるものが一つしかなかった。


 おれと高瀬はベンチに腰を下ろしたが、どちらも口を開くわけではなかった。

 妙な沈黙が二人の間を流れていた。

 だけれども、その沈黙が苦痛であるかといえばそうではなく、逆になんとなく落ち着くような感じがした。


「夕日がきれいだね」

「そうだな」

 おれと高瀬は、遠くに見える県庁の高いビルの影に消えていこうとする真っ赤な夕日を見つめていた。


「きょうの練習はどうだった?」

「よかったよ。新しい技もできるようになりつつあるし」

「新しい技?」

「ああ。巻き上げ打ち」

 おれはそういいながら、手首を回転させて巻き上げ打ちの動きをしてみせた。


「へえ、そんな技があるんだ。知らなかった」

「おれもはじめて知ったよ」

「でもさ、それって試合で使えるわけ?」

「どうだろうな。でも、岡田さんは試合稽古でおれに使って見せた」

「ふーん。でもさ、そんなに凄い技が使えるのに、どうして岡田さんってレギュラーじゃないんだろうね」


 高瀬の言葉におれははっとした。

 そういえば、そうだ。どうして、岡田さんはあんな神業のような巻き上げ打ちをほぼ百発百中で使うことができるのにレギュラーじゃないんだ。

 あんな技が使えるんだったら、絶対にレギュラーのはずだろ。


 もしかして、あの技って試合じゃ使えないのか。

 おれは妙な不安に駆られて、スマホを取り出すとすぐに河上先輩へ電話をした。


「おう、どうした」

 河上先輩はすぐに電話に出た。まだ外にいるのか周りが少し騒がしい。


「あの、ちょっと聞きたいことがありまして」

「俺で答えられることとなら、何でも聞いてくれ。もしかして、恋の相談か」

「違います。剣道の話です」

「なんだよ、つまらねえの。たまにはおれに恋の相談でもしてみろって、高瀬ちゃんみたいにさ」

 河上先輩の言葉におれは隣に座っている高瀬の顔を思わず見てしまった。


 おれに顔を見つめられた高瀬は「なに? わたしの顔に何かついている」といった感じで不思議そうな表情を浮かべている。


「それで、剣道で聞きたいことってなんだよ。剣道のことなら、俺よりも花岡の方が詳しいと思うぞ」

「きょう、おれが岡田さんから教わった巻き打ちなんですけど」

「ああ、あれね。それがどうかしたの」

「反則じゃないですよね」

「大丈夫だよ、あの技は反則じゃないから。なんだよ、そんなことを心配して電話してきたのかよ、花岡」

 河上先輩が電話の向こう側で笑い声を上げる。


「知りたいことはそれだけじゃないんですけど……。こんなことを河上先輩に聞いていいのかわからないですけれど」

「なんだよ。勿体ぶった言い方するなって。何でも答えてやるよ、何でも」

「じゃあ、聞きますよ」

「ああ」

 妙な緊張感が出てきて、おれは思わず生唾を飲み込む。


「あんなに凄い技を使えるのに、どうして岡田さんはレギュラーじゃないんですか?」

 おれの質問に河上先輩は黙り込んでしまった。


 しばしの沈黙。


「そのことか……」

 溜息混じりな河上先輩の声。

 もしかして、おれは踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまったのではないかという、不安に駆られる。


「あの人はな……」

 そういった後、河上先輩の声が笑いを押し殺したような声に変わった。


「閉所恐怖症なんだよ」

「はあ?」

「面を被るのが怖いんだってさ。だから、お前との試合稽古でも面をつけなかっただろ。面を被れないんだよ、あの人は。剣道の腕は確かなものだよ。でも、面がつけられないから一度も試合には出たことがないし、もちろんレギュラーにもなれないんだ」


 なんだよ、それ。

 おれは呆れすぎて言葉が出てこなかった。

 閉所恐怖症だから面が被れないってどういうことだよ。

 じゃあ、どうして剣道なんてやっているのさ。


「この話は俺から聞いたっていうなよな。というか、誰にもいうんじゃないぞ。明日の練習でお前が岡田さんのことを見て少しでもニヤケ顔になっていたら、俺は容赦なくお前を殴るからな」

「わかりました。絶対に言いません」

「それならいい。話はそれだけか?」

「はい。それじゃあ、また明日お世話になります」

 おれはそういって電話を切ると、さっそく河上先輩との約束を破って高瀬にいまの話を聞かせてやった。


 岡田さんの秘密を聞いた高瀬は「なにそれ」とひと言呟くようにいっただけで、笑いもしなかったが、おれの胸の中はなんだかすっきりした気持ちになっていた。

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