第19話 (5)嘘と約束
土曜日。早朝の素振り稽古を終えたおれは、母が昨晩のうちに作っておいてくれた握り飯を三つほど胃袋に収めると、防具の入った袋を背負って家を出た。
向かう先は、市民体育館だった。市民体育館まではバスに乗れば二十分ほどの距離なのだが、おれはバスにも乗らずに歩いて市民体育館を目指していた。
試合開始時刻は、午前九時だった。
しかし、今回の大会はうちの学校が会場設営をすることになっていて、そのためにS高校の剣道部員たちは大会に出場する他校生よりも一時間ほど早く会場入りをして、試合会場の準備などをしなければならなかった。
おれが市民体育館についたのは、集合時間の四十分前だった。
さすがにまだ誰も来ていなかったため、おれは体育館の前にあるコンビニエンスストアで漫画本を立ち読みして時間をつぶすことにした。
立ち読みを始めて五分も経たない内に、見覚えのある姿がコンビニエンスストアの前を横切っていった。
あの茶色く染めた髪の毛は、間違いなく高瀬さおりだった。
いつも朝練習だと遅刻してくるくせに、きょうは珍しく早いな。
おれはそんなことを思いながら、読んでいた漫画本を棚に戻すと、缶コーヒーを買ってからコンビニを出た。
「おはよう、高瀬」
ちょうど横断歩道を渡るところで、おれは高瀬に追いついて声を掛けた。
「おはよ」
「なんだよ、らしくないな。緊張しているのか」
「うるせえ」
そうは言ったものの高瀬の声は緊張のために、少し裏返っていた。
「そんなに緊張していると、試合前にダウンしちまうぞ」
「しょうがないだろ。わたし、こういう大会とかに参加するのは初めてなんだ」
「昨夜、寝れたのか?」
高瀬は無言で首を横に振る。
「気がついたら、朝だったんだろ」
「そうだよ。花岡にはわからないだろうな、この気持ち」
「わかるって。初めて試合に出た時なんて、みんな一緒だって」
「本当に?」
「ああ、本当」
「花岡が初めて試合に出たのって、いつ?」
「幼稚園の時」
「てめえ、わたしの気持ちをわかった振りしやがったな。幼稚園の時に試合の前の日に眠れねえってことがあるわけねえだろ。ちょっとでも、花岡に気を許したわたしが馬鹿だったよ」
高瀬がおれの背中を平手打ちで叩く。
ダウンジャケットを着ているお陰で、衝撃はだいぶ和らいでくれたが、それでも十分に背中は痛かった。
「だいぶ、いつもの高瀬らしくなってきたじゃんか」
「うるせえよ」
高瀬は拗ねたように口を尖らせる。
「機嫌直してくれよ」
おれはダウンジャケットのポケットから先ほどコンビニで購入した缶コーヒーを取り出して、そのうちの一本を高瀬に渡した。
「缶コーヒー一本で許してもらおうなんて、安すぎるんじゃねえの」
「じゃあ、返せよ」
「いや、貰っておくよ」
おれと高瀬は温かい缶コーヒーを飲みながら、他の部員たちが体育館にやってくるのを待った。
部員たちが揃い、体育館の鍵を持っている顧問の小野先生が来たところで、試合会場の設営に取り掛かった。
会場設営などというと、なんだか大規模な作業でもやるのかと思ってしまうが、やることは来賓用の席にパイプ椅子と長机を設置したり、試合で使うコートの枠をビニールテープで描いたりするといったものだった。
会場の設営が終わると、試合に出る部員たちは更衣室に向かい剣道着へと着替えを済ませた。
今回試合に出るのは、二年生を中心としたメンバーであり、その中で一年生はおれと木下、女子は高瀬だけだった。
他の一年生たちは出場選手たちのサポートにまわる。
着替えを終えて体育館内をうろついていると、鈴木先輩に呼び止められた。
この前見てしまった、鈴木先輩が高瀬に告白したシーンが頭の中に甦ってくる。
「おい、花岡。ちょっといいか」
「なんですか」
「高瀬とお前は付き合っているのか?」
「はい?」
「いや、だから、お前と高瀬は付き合っているのかと聞いているんだよ」
鈴木先輩はおれの胸倉を掴まんばかりの勢いで聞いて来る。
「どこからそんな話が出てきたんですか?」
おれは鈴木先輩の顔が近かったため、自分の顔を逸らすようにして質問を返した。
「どこでもいいだろ。それでどうなんだよ」
「付き合ってなんかいませんよ」
「そうか、そうなのか」
鈴木先輩の目が輝く。
「たしか、高瀬は強い男が好きだって言っていましたよ。インターハイで優勝できるぐらいの男が」
「なに、インターハイだと」
鈴木先輩は、おれにキスせんばかりの勢いで顔を近づけてくる。
「ええ。鈴木先輩がインターハイで優勝したら、たぶん付き合ってくれるんじゃないですかね」
「本当か、花岡」
「たぶん」
そう言った時、背中に鋭い視線を感じた。
その殺気の篭った視線に、おれは慌てて後ろを振り返った。
そこに立っていたのは、高瀬だった。
殺気を感じた時点で、後ろに立っているのが誰であるかはうすうすわかっていたが。
おれは両手を合わせて、すまないというジェスチャーをした。
しかし、高瀬の体から溢れ出てきている殺気は治まろうとはしなかった。
そんな状態になっているとは知らず、鈴木先輩は小躍りをしながら、インターハイ優勝などと呟いていた。
試合の時間が近くなり、体を温めるために素振りをしていると、高瀬がこちらに向かって歩いてくるのが目に入った。
逃げるべきか、それとも言い訳をするべきか。
そんなことを考えている間にも、どんどんと高瀬は近づいてくる。
おれは腹を括った。もう、どうにでもなれと。
「なんだよ、さっきの」
高瀬は開口一番、おれにそう言った。
「いやさ、成り行き上……」
「なに勝手なことを言ってんだよ」
高瀬がおれの胸倉を掴み上げる。
おれは抵抗して高瀬の手を振り払おうとしたが、高瀬の目に涙が溜まっていることに気づき、おれは抵抗をするのをやめた。
「人の気持ちも知らないで、勝手なことばかり言うな」
「ごめん、高瀬」
「謝るんだったら、そんなこと言うなよな。責任を取れ」
「えっ……あの、責任って?」
「お前がインターハイで優勝するんだよ」
なんだかおかしな展開になってきたぞ。
そんなことを思いながらも、おれは頷くことしか出来なかった。
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